五話
柔らかな日差しが冬を解かし、春を連れてきた。春を待ちわびていた人々の表情は、花が咲いたようにぱっと明るくなり、深い眠りについていた動植物も、日差しに誘われ目を覚ます。
春なんてこなくていい。ずっと冬でいいのに。昨年まで理緒はずっと思っていたが、今年は少し違う。春になると蛇も目覚めてしまうが、鏡弥がまた遊びに来てくれるようになる。だから、ちょっとだけ春を待ちわびていた。
春休み中、理緒は奈津と一緒に畑を耕していた。鍬を動かしながら、今日あたり鏡弥が遊びに来てくれないかな、と頭の片隅で考える。
すると名を呼ばれた。
「理緒」
この声は。鍬を動かす手を止め、振り返る。
「鏡弥!」
理緒は鍬から手を離し、鏡弥の手を握った。彼の手は春の日差しの下でも、ひんやりと冷たかった。
「久しぶり!」
「うん。久しぶりだね」
「冬の間、鏡弥に会えなくて寂しかった」
「僕もだよ」
同じ気持ちだったと知り、理緒の頬はカッと熱くなった。
理緒は鏡弥の手を引き、畑の端のほうを耕している奈津のところに行った。
「お母さん」
背中に声をかける。奈津は手を止めると、こちらを振り返った。
「あら、鏡弥くん。こんにちは」
「こんちには」
「鏡弥が来てくれたから、遊びに行ってもいい?」
「いいよ、行っておいで」
奈津はにこやかに言ってくれた。
「やった! 行ってきます!」
理緒は鏡弥と顔を見合わせ、畑から駆けて行った。
水遊びをするにはまだ早いから、原っぱで遊ぶことにした。
ついこの間まで茶色く寂しかった原っぱも、生命力に溢れた緑色に覆われていた。緑の中をよく見れば、スミレやタンポポが咲いていて彩りもあった。
理緒はしゃがみ、紫色の細長い花を茎ごと摘んだ。対生し、重なっている葉の間から花を取り、蜜を吸った。ほんのり優しい甘さが口の中に広がる。
「それ何?」
「知らないの? ホトケノザっていうんだよ」
「へぇー」
この辺りの子は、皆当たり前のように蜜を吸う。だが、鏡弥は知らないようだ。
「吸うと甘いんだよ。鏡弥も吸ってみれば?」
理緒は鏡弥に茎ごと差し出した。鏡弥は花を取ると、恐る恐る口に運んだ。唇に花を挟むと、固かった表情が柔らかくなった。
「本当だ。甘い」
鏡弥もしゃがみ、足元のホトケノザを摘み取った。気に入ったようで、花を次々と口に運ぶ。その度に幸せそうな顔をする。
教えてよかった。鏡弥を見つめる理緒の顔は、自然と緩んだ。
原っぱで遊んだ後、理緒の家の近くの川で水切りをして遊ぶことにした。
理緒も鏡弥も水切りは下手で、上手くいっても三回しか跳ねない。早々に水切りはやめた。
次は何をして遊ぼうか。理緒が考えていると、上流から桜の花びらが流れてきた。村の桜の木はまだ蕾だったけれど、上流のほうはもう咲いているらしい。
「上流はもう桜咲いてるの?」
「そっちから来てないから分からない」
「見に行ってみようよ」
理緒は鏡弥の手を引き、上流を目指した。
上流の川沿いにある桜は、七分咲きくらいだった。満開でなくても、充分美しくて見とれてしまう。
「ねえ理緒」
鏡弥に構わず、桜ばかり見続けていると名を呼ばれた。理緒は、視線を桜から鏡弥に移す。
「僕たち大人になったら結婚しよう」
「えっ?」
あまりにも唐突な発言に、理緒は目をぱちくりとさせた。
「嫌だ?」
ううん、と理緒は首を横に振る。
「私、鏡弥が好きだから嬉しい」
理緒が顔を赤くしながら言うと、鏡弥は微笑んだ。
「九年後の夏の終わり、僕が二十歳になったら迎えに来る」
そのときは理緒も二十歳だ。
「でも私、一人っ子だからさ、鏡弥がうちに来てくれないと。石田漬物を継ぐ弟が生まれないと、鏡弥のところにはいけない」
「弟、きっと生まれてくるよ」
「えー、そんなの分からないよ」
「生まれるから」
どこにそんな根拠があるのか分からないが、鏡弥は言い張る。不毛な争いをさけるため、
「まあ、生まれるって思っておくよ」
理緒は言って、話を終わらせた。すると鏡弥は微笑んで、桜に視線を向けた。
「僕、今日はもう帰るね」
もう帰っちゃうんだ。次はいつ遊べるかな。理緒が思っていると、
「明日も遊びに来るから」
鏡弥が言った。
「本当⁉ 嬉しい!」
理緒は、その場でぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。鏡弥はいつも、突然やって来るばかり。次はいつ遊ぶ、と約束したことがなかった。
「何時頃来る?」
「昼の一時。ここで待ち合せしよう」
「うん。分かった」
「じゃあね。また明日」
「うん。じゃあね」
理緒が手を振ると、鏡弥はさらに上流に向かって歩いて行った。
明日も遊べる。楽しみな気持ちが溢れ出した理緒は、鼻歌を歌い、スキップをしながら家路についた




