二十話
理緒が目覚めたとき、室内は真っ暗だった。室内に鏡弥の気配を感じない。彼はまだここに戻ってきていないようだ。
村はどうなったのだろう。理緒は扉を押し開けた。
足元に光が差した。それと一緒に煙も流れ込んでくる。昨日よりも刺激臭が強い不快な煙。目と鼻が痛くなる。理緒は急いで扉を閉めた。
夜は明けている。だが、まだ鎮火にはいたっていない。
煙が強くなったということは、燃えている範囲が広がっている証拠。
山の木は密集して生えている。火は葉を介して簡単に隣の木に移ってしまう。火がこの場所まで到達するのも時間の問題だ。
こんなところで焼け死にたくない。
理緒は再び扉を開けた。
薄目にし、袖で鼻を覆って外に飛び出した。
出られなかった。
ここから脱出したい。
諦めずに、自分を閉じ込めている結界に挑み続けた。
煙は容赦なく体を攻撃してくる。目は乾燥してしょぼしょぼするし、悪い空気を体外に出そうと咳も止まらない。
理緒は床に膝をついた。止まらない涙。咳をするたびにずきりと痛む喉と肺。これ以上は煙に耐えられない、と体が訴えている。
理緒は体からの訴えを無視し、立ち上がった。
馬鹿鏡弥!
心の中で叫びながら、外に向かって飛び出した。
とうとう灰色の煙の中に、赤い炎がちらついた。火の手はすぐ近くまで来ている。
もうだめだ……。
理緒は脱力し、床にぺたりと座り込んだ。焼死への恐怖。涙がさらに出てきて、視界がぐにゃりと歪む。
ここから出られずに焼死など、鏡弥から殺されるようなものだ。
去年の夏から、最悪な人生だったな……。
ここに連れてこられ、幽閉されて大嫌いな蛇と二人で生活。楽しい時間なんて、一秒たりともなかった。
焼け死ぬのと首を絞めて死ぬのだったら、どっちが楽にあの世に逝けるかな。
そんなことを考えていると、空からすさまじい轟音が聞こえてきた。同時に、空気が湿度を含む。
雨が降り出した。
ただの雨ではない。それは滝のようだった。空から滝が降っている。
大量の雨が、燃えさかる炎めがけて降り注ぐ。
炎はたちまち消えた。立ちこめていた煙も消失した。
雨がぴたりと止んだ。理緒は視線を上げる。木々の隙間から、澄んだ青空が見えた。
今度は視線を下ろす。
正面の山道。社に近い木は焼けていないが、遠くに見える木は黒焦げだ。道は、土が水を吸収しきれず川のようになっている。
黒焦げの木の間に、白い大蛇の姿を確認した。大蛇は徐々に小さくなりながら、こちらに向かってきている。社に到着する直前で、大蛇は人の姿に戻った。
鏡弥はおぼつかない足取りで、社の階段を上る。中に入ると、
「間に合った……」
弱々しく言いながら、理緒を強く抱擁した。鏡弥から煙と煤の臭いがする。
「離せ!」
理緒は暴れたが、鏡弥は抱擁をやめない。余計に力を込められる。
「しばらく、このままでいさせて」
「嫌! 気持ち悪い!」
理緒は鏡弥の腕の中で体をねじる。いつもなら、『動くな』と言われ体を操られるが、今は力が残っていないのだろう。言ってこない。
「はあ、疲れたよ……。鎮火まで、結構時間がかかっちゃった」
「全ての力を、雨のために使えばよかったじゃない。こんなときまで、私を外に出させない結界は張ったままなんて、馬鹿じゃないの?」
「死ぬ前に、理緒の姿を見たいと思ってたから」
「あんた、死ぬの……?」
鏡弥は抱擁を解くと、
「うん」
と、弱く頷いた。よく見れば、顔は血の気がなく、目はうつろで精気を感じられなかった。
「今回の火事で、力を使い果たしたからね」
死を喜ぼうとしたほど鏡弥のことは大嫌いだ。でも、死ぬと告げられると、胸の奥がざわついてしまう。
「もし、この火事がなかったら、あとどれくらい生きられた?」
「長くて来年の春までだったと思う。今まで、力を使いすぎたからね……」
鏡弥は社の中で常に力を使っていた。部屋に明かりを灯し、夏場は室温を下げていた。風呂のお湯を作り出し、厠の消臭も。
無駄な力も使っていた。理緒が閉じこもらないように右側の部屋の扉を塞ぎ、社の出入り口には結界を張っていた。歴代の蛇様たちは妻の意識を操っていたというから、結界を張る必要はなかったはず。
「もしかして私のせい?」
鏡弥は苦笑いを浮べるだけだった。その顔は首肯したのと同じだ。
「あんたがいつまで生きられたのか知らないけど、自分の命を削ってまで私と一緒にいたかったの?」
「うん」
「それなら、ここに連れ込んだ日にさっさと意識を乗っ取って操ればよかったじゃない。そうすれば、まだ生きられたでしょうに」
「好きだからこそ、君のことは極力操りたくなかった」
理緒がわがままだったから、短時間操られることはしょっちゅうあった。
けれど、長期間意識を操られたときは、それなりの理由があった。不眠と絶食をして、命を絶とうとしたとき。風邪を引いたのに、囲炉裏で暖を取らなかったときだ。どちらも理緒に命の危機が迫っていた。
全ての意識を操られそうになったのは、忠告されたにもかかわらず、脱走して鏡弥を本気で怒らせたからだ。でも、理緒だってここから脱出して自由になりたかった。双方の意思がぶつかった結果だ。
「私はあんたのことを嫌ってたのに、それでも何で私のことが好きだったの?」
鏡弥が手を握ってきた。ひんやりと冷たい手。雪を触っているようだ。
「優しさと温もり。子どもの頃、手を温めてくれたあの日からずっと好きだった」
理緒は記憶をたぐり寄せる。冬目前、鏡弥と遊んでいたときに手と手が触れた。鏡弥の手は、生きている人の手と思えないほど冷たかった。その手を理緒は握り、自分の体温で温めてあげた。
「たったそれだけで……」
「理緒からすれば、たったそれだけって思うかもしれないけど……」
鏡弥は深く息を吸った。それを吐き出して口を開いた。
「人間から与えてもらった、初めての温もりなんだ」
鏡弥の父親は蛇様。だから、人間ではないと言うのだろう。
母親は久地縄村出身の娘のはずだから、人間に違いない。けれど、父親にずっと操られていて、人形のようだったと言っていた。人形のようでも生身の人間。生きているのだから、体温くらいはあるはずだ。鏡弥は母親に触れたことがないのか、触れたことがあるが体温を感じなかったのか。理緒には分からない。
「俺は理緒の手の温もりが大好きだよ。太陽光や囲炉裏の火の温かさよりもずっと好き」
鏡弥は理緒の手をさらにぎゅっと握った。あの冬の日のように。
「この温もり、幸せだ……」
大好きな理緒の温もりに触れている鏡弥は、幸せそうな顔をする。理緒も鏡弥の手を振り払えなかった。
「うっ……」
鏡弥はうめき、膝をついた。理緒も引っ張られ、腰を下ろす。
理緒は鏡弥の手を解き、息絶え絶えの彼を寝かせた。そして、今度は自分から手をぎゅっと握った。熱を与えているのに冷たいままの手から握り返される。
「俺、理緒とここで過ごせて……、幸せだったよ」
「私はあんたのことを避けてばっかりだったのに、幸せなんて……」
ろくに顔も合わせず、理緒から話しかけることはほとんどなかった。本当は、理緒が夢で見たようなことをしたかったと思う。それなのに幸せだなんて。
「ごめん」
理緒は目頭に涙を溜めながら謝った。謝らないといけない気がした。
「仕方ないさ……。俺は理緒の大嫌いな蛇なんだから」
荒かった息が穏やかになった。酷く弱い。もう彼の命は尽きようとしている。
「理緒、幸せをくれてありがとう」
「ありがとうなんて言わないで」
「いや、ありがとうだよ。俺のわがままでこんなところに幽閉して、つらい思いをさせたんだから……」
理緒は鏡弥の眼をじっと見つめた。うつろながら真っ直ぐな眼。本心から悪いと思っているようだった。
「またわがままを言うよ……」
「何?」
「俺の命が尽きたらここを出て、幸せになるんだよ……」
それは理緒のためを思ったわがままだった。
「……うん」
理緒が頷くと、鏡弥は微笑んだ。彼の手から力がなくなった。その手は理緒の手からするりと抜け、床に落ちる。
「理緒の幸せを……、願っているよ……」
鏡弥の瞼が下がり始めた。
「鏡弥!」
「やっと、名前を呼んでくれたね……。嬉しいよ……」
赤い眼が見えなくなると、ゆっくりだった胸の動きがぴたりと止まった。
理緒の涙が鏡弥の頬に落ちると、突然、彼の体が発光した。太陽のように眩しい。理緒は瞼を閉じた。眩い光は瞼を貫通してくる。
光の中、鏡弥の体は矮小化しながら形を変える。
光を感じなくなった。
理緒は瞼を開ける。目の前にいたのは小さな白蛇だった。蛇には瞼がないから、赤い眼がよく見える。じっとしているだけで、死んでいるとは思えなかった。
「鏡弥……」
理緒は小さな白蛇を持ち上げた。ぴくりとも動かない。間違いなく死んでいる。
「ごめんね」
鏡弥を床に下ろし、手を合わせた。
村の大火を鎮めてくれてありがとう。安らかに眠ってください。
目を開けた理緒は社から出た。
社の階段を下り、川のようになっている地面に立ち、空を見上げる。澄んだ青空が眩しかった。




