十八話
翌朝、中央の部屋に行くと、ひまわりが枯れていた。
昨日まで、開花したばかりのように堂々と咲いていた。赤ん坊が、一夜で老人になってしまったような変わりようだ。
鏡弥は茶色に変わり果てたひまわりを手に取ると、悲しそうに見つめ、
「ごめんね、理緒」
申し訳なさそうに言う。
「朝ご飯を食べた後、新しいものを取ってくるから」
「あっ、うん」
鏡弥は花瓶の中の水を飲むと、枯れたひまわりを持ったまま、朝餉を取りに外に出た。
夏前に取ってきたカキツバタとあじさいは、花瓶から抜くまで枯れなかった。それなのに、ひまわりは花瓶に挿していたのに枯れた。鏡弥の力が弱まっている証拠だ。鏡弥が外に出ている間に明かりが消えたら、また出られるかもしれない。試してみよう。理緒は開いている扉を見て、にやりと笑った。
朝餉の後、鏡弥は外に出ていった。理緒は部屋の隅で正座をして、明かりが消えるのをじっと待つ。
案外早く、部屋の明かりが消えた。理緒は立ち上がり、出入り口に向かった。
扉を押し開ける。
暗所から出た理緒の目には、木々の隙間から見える夏空が眩しかった。思わず目を細める。だが、すぐに細めた目を開いた。
もたもたしていられない。外に出られるか分からないが、飛び出した。
外側の床に足が触れる。社の中に引っ張られる感覚はなく、簡単に外に出られた。
理緒は社から飛び降りると、村に続く道を全力で駆けた。
じめじめとした空気や、小さな虫たちが体にまとわりついてくるが気にしない。
山の出口が見えた。残っている力を足に注ぎ、出口まで駆けて山を出た。
川のせせらぎが聞こえる。
私の勝ちだ。理緒は勢いそのまま、川に飛び込んだ。全力で走って熱を持った体に、ひやりとしている川の水が気持ちいい。
泳いで、川をずんずんと進む。水流に身を任せれば、走るよりも速く進める。
この川は、隣の村に続いている。とりあえず、隣の村まで行くことにした。
順調に進んでいると、左足首に何かが絡みつく感触があった。理緒は一旦、泳ぎを止めて左足首を見た。
赤い眼をした、体長五十センチほどの白い蛇。考えなくても鏡弥だと分かった。
「嫌っ!」
理緒は右足の踵で鏡弥の頭を蹴り、払おうとした。だが鏡弥はしっかりと絡みついていて、離れない。
水中で鏡弥はむくむくと大きくなる。
すぐに大蛇の大きさになった。こうなれば、理緒の力では抗えない。
理緒は水中に引きずり込まれた。
息ができなくて苦しい。もがいて、顔だけは水の外に出す。
鏡弥は流れに負けることなく、川を遡上する。鏡弥の泳ぎは、流れに身をまかせて泳いでいた理緒よりも速い。景色が高速で流れていく。
あっという間に、理緒が飛び込んだ場所を通り過ぎた。鏡弥はさらに、川を遡上していく。
拓けていた景色が山の中のようになると、ようやく河原に上がった。
鏡弥は理緒の足首を離すと、人の姿になった。鏡弥は、河原にぺたりと座っている理緒に近づくと、死んだ魚のような目で理緒をじっと見つめる。
「何で⁉」
理緒は叫んだ。
「水の中に入って匂いが分からないようにしたのに!」
「残念だったね」
鏡弥は薄ら笑いを浮べた。
「俺は水の中の匂いだって分かるんだよ」
そんなの、絶対にこいつから逃げられないじゃん。理緒は唇を強く噛んだ。唇が切れて、表面に血がじわりとにじむ。
鏡弥は表情を消すと、
「理緒の行動に、我慢の限界がきた」
冷たく低い声で言う。その声は、体を芯から冷す真冬の空気のようだった。
「もう意識を操らせてもらうよ」
理緒は帯をほどいた。
怖いけど、操られるくらいなら……。
帯を首に巻きつける。端と端を思い切り引っ張ろうとしたとき、雷のように鏡弥の眼が光った。
あっ……。鏡弥の眼を見た瞬間、帯を引っ張ろうとしていた手はだらりと垂れ、視界も曇天の日のように灰色がかる。理緒は自我が消失していくのが分かった。
終わりだ……。そう思ったとき、視界が灰色になった視界が鮮明になり、
「はっ!」
と、自我が戻ってきた。
「えっ?」
鏡弥は目を瞬かせた。うまく操れなかったことに、驚いているようだ。
また鏡弥の眼が光った。
結果はさっきと全く同じだった。視界は灰色になり、自我が消失しそうになるが、すぐに元に戻る。
三回目よりも前に。理緒は再び、首の帯に手をかけた。引っ張ろうとした瞬間、
「動くな」
鏡弥が言った。
理緒の体は石にされたみたいに固まった。意識は操れなかったが、体は操れるようだ。
鏡弥は理緒の手を帯から離し、首から帯を取った。そして、乱れた理緒の着物を整えると、腰に帯を締めた。
「うっ」
きつく締められて苦しい。
「帰るよ」
と、鏡弥は理緒を横抱き、山の中に向かって歩き出す。
「降ろせ!」
暴れたいが、体が全く動かせない。理緒は男性から横抱きされるのに、ひそかに憧れがあった。されるなら、恋人か愛する旦那からがよかった。それなのに、初めての横抱きが鏡弥なんて最悪だ。
理緒が何度も叫んでいると、
「うるさいな」
鏡弥は足を止めると視線を下ろし、こちらを見た。虚ろな赤い眼に、背筋がぞくりとする。
「眠れ」
鏡弥の一声に理緒の瞼は勝手に下りる。そして眠りに落ちた。
社の中で起こされた理緒は、鏡弥から顎を掴まれた。鼻先まで顔を近づけられる。鏡弥の顔を見ないように瞼を下ろしたいが、瞼がなくなったみたいに下ろせない。光る眼を直視させられる。
もうだめだ……。涙が溢れ出す。眼前の赤い光がにじんだ。
鏡弥は何度も眼を光らせて理緒の意識を操ろうとした。けれど、どうしてもうまくいかない。回数を重ねる度に理緒の自我が戻るのは早くなるし、鏡弥の顔色は悪くなる。
食事も摂らずに、目を数百回は光らせ続けた鏡弥は、肩で息をするようになった。その顔から精気は消えた。生ける屍のようで、理緒は恐ろしく感じた。
とうとう鏡弥の眼は光らなくなった。鏡弥は理緒の顎から手を離すと、はあはあ、と苦しそうに息をしながら、頭を抱えた。
「……よかったね。……俺は理緒の意識を操れないみたいだ」
力を使いすぎて疲れたのだろうか。鏡弥は床に倒れ込んだ。一緒に部屋の明かりも消えてしまった。
何で私を操れないのか分からないけど、とりあえず助かった……。理緒は壁に背中を預け、脱力する。
長時間の緊張から解き放たれたからか、急に眠くなり、欠伸が出てしまった。
今が夜なのか分からないが、理緒は寝床に入った。
入眠するときに体を縛られなかったからか、久しぶりにぐっすり眠れ、目覚めもよかった。
暗い室内、隣に嫌な気配がない。暗闇に目をこらす。鏡弥は隣にいなかった。
もしかして、あのまま死んじゃった?
理緒は確認するために、中央の部屋に行った。
中央の部屋も真っ暗闇だった。
理緒は横たわっている鏡弥の輪郭を確認した。昨日、倒れ込んだ場所から動いていない。足音を立てないように、そっと近づいた。
しゃがみ込んで、鏡弥の胸をじっと見つめる。暗闇に慣れた目でも、さすがに胸の動きは見えなかった。
本当に死んじゃったのかも。それなら嬉しい!
他者の死を喜ぶなんて、道理に反している。だが理緒にとって、鏡弥の死は自分の自由を意味する。この社から出られ、不名誉な蛇様の妻の役目から解放される。喜ばずにはいられなかった。
鏡弥が死んでいるのなら、結界だってなくなって、外に出られるはずだ。理緒は胸を弾ませながら、社 の出入り口の向かおうとした。
もう出入り口しか見ていなかった。理緒は横たわっている鏡弥に足をかけてしまい、顔面から転んだ。床で鼻を強打する。
「痛っ……」
理緒が顔を上げたのとほぼ同時に、部屋が明るくなった。ということは……。
腕を掴まれた。体を起こされて、後ろを向かされた。
鏡弥と目が合う。眠って体力が回復したのだろう。顔色がいい。
もしかして。
理緒はぎゅっと瞼を閉じる。意識を操れないと言われたが、体力が回復した今、操られるかもしれない。
「人をまたぐなんて、行儀が悪いね」
そう聞こえると、鏡弥の気配が消えた。ぺたぺた、と足音が横を通り過ぎて行く。
理緒は瞼を開き、振り返る。鏡弥は出入り口に向かって、歩いている。扉が開いた。
扉の先に見える外は明るかった。
鏡弥は理緒に構うことが減った。滅多に話しかけてこなくなったし、寝床にも一人で行くようになった。
理緒は寝床から自分の布団を持ってきて、また中央の部屋で眠るようになった。
一人で眠るようになってから、ぐっすり眠れるようになった。




