十三話
「理緒、起きて」
そう聞こえ、理緒はぱっと目を覚ました。真っ先に目に飛び込んできたのは、大嫌いな鏡弥の顔だった。深く考えなくても、社の中に連れ戻されたのだと分かった。
「おはよう」
と、鏡弥は微笑んだ。何を考えているか分からない微笑みに、理緒は背筋がぞくりとした。布団から飛び起き、鏡弥から距離を取る。
「脱走するなんて、驚きだよ」
囲炉裏の火に当たっているからだろう。鏡弥の顔色は夏場と同じくらいに戻っている。
「何で、私のいるところが分かったのよ⁉」
「匂い」
山の中は自然の匂いや獣の匂いで満ちている。走り去っただけの理緒の匂いなんて、すぐに消えるはずなのに、鏡弥はわずかな残り香を感じ取ったのだろう。蛇様の嗅覚は人間離れで恐ろしい。
「理緒の匂いをたどったら、ちょうど熊に襲われそうになってた。よかったね、俺がもう少し遅かったら熊の餌になってたよ」
「ここに連れ戻されるくらいなら、熊に食べられてたほうがまし」
理緒はふんっ、と横を向いた。
「ねえ、土の匂いと獣の匂いがきついから、お風呂に入っておいで」
右側の部屋の扉が開いた。理緒は開かれた部屋に入る。着替えと手ぬぐいを持って、風呂場に向かった。
鏡弥が弱っていたときに濁っていたお湯は、透明に戻っていた。手を浸けてみる。温度も元に戻っていた。
土、落ち葉、鏡弥に触られて汚れてしまった体。時間をかけて綺麗にしたいが、鏡弥が創り出したお湯に長時間触れたくない。理緒は手早く体を洗って、風呂から出た。
湯船に入って芯から体を温めていないから寒い。早く火に当たろう、と理緒は中央の部屋に戻った。
「囲炉裏から離れなさいよ」
理緒は鏡弥を睨みながら言う。
「また脱走されたら困るから離れない」
鏡弥の側にいたくない。理緒は囲炉裏近くに敷かれていた自分の布団を引っ張り、部屋の隅にいった。またここで、布団にくるまって暖を取る。
今日は一段と寒くて、鼻水とくしゃみが止まらない。
「寒いんでしょ? 理緒もこっちにおいでよ」
鏡弥から手招きされた。
「嫌だ」
理緒は鼻をすすりながら言う。
「あんたの力で、部屋全体を暖かくすることはできないの?」
水と火が出せる。部屋に明かりを灯すことや、厠の消臭もでき、出入り口に結界も張れる。何でもできそうなのに、一部屋を暖かくすることはできない。理緒は不思議に思っていた。
「部屋を暖かくすることくらいできるよ」
「できるんならしなさいよ」
「冬にそんないっぺんに力を使ったら俺がもたない」
「右の部屋の扉を閉めるのをやめればいいじゃない」
「理緒が閉じこもるからだめ」
と、鏡弥は首を横に振った。
「なら火を消して、その力で部屋全体を暖めればいいじゃない」
「俺は直接温もりを感じるのが好きなんだ」
鏡弥は一瞬、視線をゆらゆらと揺れる火にやったが、すぐ理緒に戻した。
「理緒が俺の手を握って温めてくれるなら、火を消して部屋全体を暖めるよ」
じっとりとした目つきに、全身鳥肌が立つ。
「あんたの手なんか温めてあげるわけないじゃない!」
理緒は叫んだ。声を張りすぎて、ひっかかれたみたいに喉が痛くなった。
「じゃあ部屋は暖められない」
「もういい! あんたの好きにしろ!」
理緒は布団を被った。掛け布団一枚では、温かさが足りなかった。
囲炉裏の側で暖を取るようになった鏡弥は、すっかり元気になった。だが、布団で寒さをしのいでいる理緒は、風邪を引いてしまった。体は焼け石のように熱を帯びていて熱いのに、寒気を感じて震える。咳をすれば腹筋は痛むし、鼻の下は鼻水でかぶれてヒリヒリする。
部屋の隅で苦しんでいると、鏡弥がこちらに向かって歩いてきた。
「こっちに……、来るな……」
喋ると、喉が乾燥した空気に刺激されて咳が出てしまう。
「部屋の隅で寒さを我慢するから、風邪引いちゃったね」
と、鏡弥は枕元に腰を下ろした。
「早く、……離れろ」
理緒が咳をしながら言うと、鏡弥は心配そうな顔をした。
「理緒の風邪、俺の力で治せると思うけど。どうする? 治してあげようか?」
「治すって……、どんな……風に?」
「理緒に触れて」
鏡弥から体を触られて元気になるか、きついけれど自然治癒するまで耐えるか。理緒は当然……。
「……治してくれなくて、いい」
「そっか……」
理緒に触れられる機会を逃したからだろうか。鏡弥は悲しそうだ。
「俺は理緒が苦しんでるところを見たくないんだけど」
「早く……」
理緒は咳が止まらない。吐き出した飛沫が全て鏡弥にかかっている。
「春になるまで眠ろうか」
「は?」
余計なことはやめてよ。理緒が言う前に、鏡弥は顔を理緒の耳元に近づけた。
「おやすみ」
意識が遠くなる。瞼が勝手に落ちていく。理緒の視界は真っ暗闇になった。




