十話
社の中は何もすることがなくて暇だ。理緒は仕方なく、天井の模様の数を数えることにした。
天井の模様を数え終わってしまった。今度は着物の細かい千鳥格子を数えることにした。
着物の右袖の千鳥格子を数え終わった頃、理緒は催してきた。でも鏡弥に話しかけたくないから我慢する。
左袖の千鳥格子を半分くらい数えた頃、理緒の膀胱は限界を迎えようとしていた。集中できなくて、理緒は数えることをやめた。股に手を挟んで、足をもじもじと動かしどうにか耐える。
布が擦れる音か、足を動かしたときの床に伝わった振動に気がついたのか、囲炉裏の側に座っている鏡弥が、
「厠にいきたいんでしょ? 厠は奥の扉を開けて左側にあるから」
こちらを振り向かずに言った。
理緒は下腹部に力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。小股で奥の扉に向かう。
扉を開けると、欄干がある橋のような立派な渡り廊下が目に飛び込んできた。渡り廊下の先にも扉があった。さらに部屋がありそうだ。
今はそんなことを考える余裕はない。理緒は左を向く。人の肩幅より少し広い扉があった。中に飛び込む。ぎりぎりで惨事は免れた。
理緒は用を足したが、厠から出なかった。不衛生ではあるが、鏡弥と同じ空間にいるよりはましだと思う。床に座りたくはないから、扉に寄りかかって過ごすことにした。
閉じこもることを決めてすぐ、背中に振動を感じた。
「ねえ、今度は厠に閉じこもるつもり? 俺も厠にはいくんだけど」
閉じこもり作戦はあっけなく終わった。理緒は扉を開け、厠の外に出た。
中央の部屋に戻るため、鏡弥の横を通る。すれ違った瞬間、鏡弥が息を深く吸った。匂いを嗅がれたのだと分かった。
「気持ち悪いことしないでよ」
「理緒、少し臭うからお風呂に入りなよ」
ここに来て風呂に入っていない。髪がべたついているのは分かっていたけれど、臭いは分からなかった。
「左側の部屋にお風呂があるから」
風呂があるのなら入って髪を洗い、鏡弥に触られた体を清潔にしたい。ただ、鏡弥が入った後のお湯には入りたくない。
「あんたが浸かってない綺麗なお湯なんでしょうね?」
「もちろん。毎回、俺が入った後にお湯を抜いて、張り直しているからね」
ふと、思う。こんな山奥に川があるなんて聞いたことがない。風呂に使っている水は、どこから調達しているのか。
「どこから水を持ってきてるの?」
「秘密」
「本当は変えてないんじゃないの?」
「きちんと変えてるよ」
理緒がしつこいものだから、鏡弥は眉間にしわを寄せた。
「言ったら入らないって言いそうだから」
「何、言いなさいよ」
「水は俺の力で出してる。そして火を出してお湯にしてる」
蛇がどこからどうやって出したか分からない水で体を洗うなんて、考えただけでも吐き気がする。そんなお湯に浸かったら、間接的に全身が蛇に触れたことになってしまう。訊くんじゃなかった、と理緒は顔をしかめる。
「ほら入りたくなくなったでしょ? 自分で入らないならちょっと意識を操って……」
聞かなくても続きは想像できる。
「自分で入る! スケベ!」
理緒は中央の部屋に戻り、左側の部屋に飛び込んだ。
こぢんまりとした脱衣所があり、その先には、二人同時に入れそうな檜製の浴槽があった。浴槽から、湯気が揺れている。
理緒は着物を脱ぎ、浴槽の前に立った。
お湯には必要最低限しか触れない。そう心に決めて、お湯に手を入れた。お湯は人肌よりも少し温かい、ちょうどいい温度だった。
髪と体を手早く洗う。完璧に汚れが落ちた感じはしないが、もうお湯には触れたくない。浴槽に入らず、風呂から出た。
脱衣所に戻って、理緒は自分の失態に気がついた。厠から出て、そのまま風呂場に飛び込んだから着替えと体を拭く手ぬぐいがない。鏡弥に頼んで着替えと手ぬぐいを持ってきてもらうのは嫌だ。
仕方なく、濡れた体のまま、さっき脱いだ着物を着た。体についている水滴に、長襦袢が張りついて気持ちが悪い。長襦袢の汚れがまた体につくような気がする。
理緒は中央の部屋に戻った。そして綺麗な着物に着替えるために、右側の部屋に向かう。扉の取っ手を引いたが、開かなかった。話しかけたくないが、
「着替えるから開けなさいよ」
囲炉裏の側にいる鏡弥に言う。すると、扉が自動的に開いた。
部屋の中に入った理緒は、扉を閉めようとしたが、びくともしない。顔だけを中央の部屋に出し、鏡弥の背中を睨んだ。
「閉めなさいよ。もしかして着替えるところを覗く気?」
「覗かないよ」
鏡弥はこちらを振り返った。
「閉めたら、また閉じこもっちゃうでしょ?」
閉じこもったって、力を使って勝手に開けられるくせに。理緒は床の強く踏みつけながら部屋の奥に行き、扉に背を向けて新しい着物に着替えた。
扉が閉まっていないから、閉じこもっていることにはならない。理緒が部屋にとどまっていると、
「さすがにもう着替えたでしょ?」
鏡弥が顔を覗かせた。
「早く出ておいで」
「閉じこもってるわけじゃないんだから、ここにいたっていいじゃない」
鏡弥の顔から表情が消えた。何を考えているか分からない赤い眼に、身の毛がよだつ。
「いいから出ておいで」
冷たい声に言われると、理緒の体は勝手に動いた。出入り口に吸い寄せられる。前に進む足を止めようと思っても、言うことを聞いてくれない。鏡弥からされるがまま、理緒は中央の部屋に出た。理緒の後ろで、扉がぱたりと閉まる。
理緒は鼻にしわを寄せ、鏡弥を睨みつけた。
「また私のこと操ったわね!」
無力な理緒から睨まれたくらいでは、鏡弥はびくりともしない。無表情のまま、こちらを見かえすだけだ。
「理緒が言うこと聞いてくれないからだよ」
鏡弥は言うと、囲炉裏の側に行き、腰を下ろした。理緒は鏡弥の背に向かって、べーっと、舌を出した。
どうしても鏡弥と同じ空間にいたくない。右側の部屋には行けないし、左側は風呂場。行くとしたら奥しかない。開かないかもしれないと思ったが、試しに、奥の扉を引いた。すると、容易く開いた。理緒は扉の向こう側に行く。また厠に閉じこもろうと思ったけれど、渡り廊下の先の部屋が気になった。理緒は渡り廊下を歩く。
観音開きの戸を押し、中を覗いてみる。
この部屋には明かりが灯っていなかった。
理緒は暗闇に目をこらす。こぢんまりとした室内。壁際に畳まれた布団が二つ置かれている。
中に入ってみようか迷っていると、室内が明るくなった。太陽を直視したみたいに眩しくて、理緒は目を細める。
「ここは寝床だよ」
後ろから声がして、振り返る。
「今日は俺と一緒に寝るの?」
「寝るわけないじゃない」
「じゃあ、どこで寝るの?」
「中央の部屋」
「何もしないつもりなんだけど」
「すぐに人を操るようなやつの言葉なんて信用できない」
鏡弥はふっと、短く息を吐いた。
「布団を持っていきなよ。理緒のは奥のやつ。俺は触ってないよ。理緒のお父さんがこの部屋まで運んだから」
鏡弥は言うと、寝床から出て行った。同時に室内は闇に包まれる。
理緒は寝床に足を踏み入れた。よく見えないから一歩一歩慎重に進む。
布団の前にたどり着いた。奥側の布団を持ち上げ、寝床を後にする。
明るい渡り廊下で、持ち出した布団を確認する。水色がかった敷布と、小花柄の掛け布団。自分が家で使っていたものに間違いなかった。
中央の部屋に戻った理緒は、部屋の角に布団を置き、その側に腰を下ろして、また着物の千鳥柄を数え始めた。
夕餉を食べた後、鏡弥は風呂に入った。戻って来ると、また囲炉裏の側の定位置に座り、前を向いたまま微動だにしない。
それからしばらくすると、鏡弥は立ち上がり奥の扉に手をかけた。
「ちゃんと眠るんだよ。おやすみ」
理緒は無視し、そっぽを向く。
鏡弥が出ていくと、部屋の明かりが日没のようにゆっくりと消えた。
理緒は布団を敷いて横になる。だが眠らない。寝込みを襲われるかもしれないから、起きておく。
しばらくは起きていたが、今日一日で溜まった疲れと睡魔に負けてしまい、いつの間にか眠ってしまった。
*
代わり映えのしない社の中の生活は、苦痛なものだった。何もやることがない上に、大嫌いな鏡弥とほぼ四六時中、同じ空間にいなければならない。理緒のストレスは溜まるばかり。頬には吹き出物ができ、抜ける髪の量が増えた気がするし、枝毛と白髪も見つけてしまった。
悲鳴を上げている自分の体。もしかしたら、意識を操られて何も分からなくなったほうが幸せなのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ。
何馬鹿なことを考えているんだ。理緒は頭を振り、おかしな考えをどこかに投げ捨てる。そして、暇つぶしのために枝毛探しを始めた。
昼餉を食べた後、
「ちょっと外に出てくる」
と、今日は珍しく、鏡弥が社から出て行った。
理緒は勢いよく立ち上がり、扉に向かって走った。
あいつがいなくなったから、外に出られるかもしれない。理緒は出入り口の扉を開け、外の様子をうかがった。辺りに鏡弥の姿は見えない。
えいっ、と理緒は外に飛び出した。だが、出られずに社の中に戻ってしまう。走って飛び出してみたり、ジャンプしながら飛び出したり、色んな方法で何度も脱出を試みたが、ダメだった。
理緒は壁に寄りかかり、滑り落ちるように床に腰を下ろす。
ちょっと動いただけなのに、息が上がってしまった。社に閉じ込められてから運動不足だ。店番と家事で忙しなく動き回って鍛えられた体力は、すっかりなくなっていた。
悔しい。理緒は唇を噛みながら、静かに涙を流した。




