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第二話 罪悪感と、無垢な笑顔

「……ってわけで、この公式が今日のポイントだ」


数学の授業が淡々と進む。黒板に書かれる数式。先生の monotone な説明。普通の学生なら睡魔と戦うような時間だが、トシオにとっては貴重な思考の空白だった。


(……なぜだ? なぜ彼女はあのような態度なのか)


視線の端で、隣の席のミユが真剣な面持ちでノートを取っているのが見える。時折、難しい数式に頭を悩ませるように小さく眉をひそめる仕草は、どこか幼く、もはや剣を振るい、魔王と対峙した勇者の面影は微塵も感じられない。


(前世の記憶はないのか? それとも、ある種の『運命』のようなものに引き寄せられているだけか?)


考えても答えは出ない。ただ一つ確かなのは、彼女が「トシオ」という個人に、強烈な興味と親近感を抱いているということだ。それは、昨日の放課後、彼が曖昧に「用事があるから」と断ったにも関わらず、彼女が「じゃあ、明日の朝一緒に登校しよう! 私、同じ駅から来てるから!」と、まるで当然のように約束(という名の宣言)をしてきたことからも明らかだった。


(……一緒に登校、か)


その結果が今である。駅の改札で待ち伏せされ、終始饒舌なミユに囲まれながら学校まで歩くという、トシオにとっては拷問に近い時間を経て、教室にたどり着いたのだった。


「ふぅ……なんとか解けた!」


隣から満足げな息づかいが聞こえる。ミユがにっこりと笑ってトシオの方を見た。

「トシオくんはもう解けた? 結構難しいよね」

「……ああ、まあ」

「え、すごい! やっぱりトシオくんは頭がいいんだ! じゃあ、今度わからないところがあったら教えてね!」


その笑顔はあまりに純粋で、トシオは胸が締め付けられるような思いがした。彼は、この笑顔の主を、かつて自分の野望の果てに、剣で貫いた。その記憶は彼だけのものかもしれないが、事実として重くのしかかる。


(……こんな関係、間違っている。彼女には関わるべきではない)


「ねえ、トシオくん」

「……なんだ」

「トシオくん、なんだかいつも遠くを見てるって言うか……悲しそうって言うか」

突然の指摘に、トシオははっとした。気をつけていたつもりだったが、彼女は鋭い。あるいは、単純に彼にだけ強く意識を向けているからか。

「そういうところも、なんだか『知ってる』気がするんだよね。変かな?」


碧眼がまっすぐにトシオを見つめる。その瞳の奥には、深い海のように、何か言葉にならない感情が潜んでいるように感じられた。一瞬、前世の決戦の時、彼女が剣を構える前に漏らした「……なぜ、そうなってしまったのですか」という嗄れた声が、脳裏をよぎった。


「……別に。考え事だ」

咄嗟に顔を背け、トシオは冷たく答えた。これ以上、深入りされるのはごめんだ。


「そっか。ごめんね、詮索しちゃって」

ミユの声が少し小さくなった。僅かに傷ついたように聞こえたかもしれない。一瞬、後悔がよぎったが、トシオは押し殺した。これが正しい。彼女を遠ざけることが、彼の贖罪であり、彼女を守ることなのだ――そう自分に言い聞かせる。


放課後。トシオは今日こそ真っすぐ帰ると決意し、さっさと鞄をまとめた。

「トシオくん! 待って!」

やはり、彼女の声が追ってくる。

「今日は委員会も部活もないんだ! 一緒に帰ろ? あのね、駅前においしいパンケーキ屋さんが新しく出来たって聞いて……」

「ミユ」

トシオは振り向き、できるだけ平静を装って言った。

「悪いが、今日は本当に用事がある。それに……そんなにべったりしなくてもいいだろ。俺はただの転入生だ」

言いながら、自分自身の言葉の冷たさに心が疼く。


ミユの表情が一瞬、曇った。しかし、それは次の瞬間には、いつもの明るい笑顔に変わっていた。だが、トシオにはわかった。その笑顔の裏に、僅かだが確かにある、困惑と寂しげな影が。

「うん……そうだね。ごめんね、私、つい懐かしい感じがしちゃって、調子に乗っちゃったかも」

彼女は少しうつむき、自分の指をいじりながら言った。

「でも……『ただの転入生』じゃないよ。トシオくんは、私にとって……特別な気がするんだ。理由はわからないけど」


その言葉は、トシオの心に直撃した。罪悪感が胃の中で重い塊のように転がる。


「……バカなこと言うな」

最後にそう呟き、トシオはほとんど逃げるように教室を出た。廊下を早足で歩きながら、後ろから「また明日ね、トシオくん!」という元気な声が追いかけてくるのを無視した。


(特別……か。たしかに、前世であなたを殺した男だ。それ以上の特別な関係があるとすれば、それだけだ)


駅までの道を独りで歩きながら、トシオは考え続けた。彼女を遠ざけることは正しい選択なのか? それとも、この歪な状況をどうにかする別の方法があるのか?


ふと、思い出す。前世、魔王として君臨していた頃、勇者ミユのチームと幾度も戦った。その中に、彼女を支える魔法使いや僧侶がいた。もしかすると、彼らもまた、どこかこの世界に転生しているのではないか? もしそうなら……。


その瞬間、視界の隅で何かが光った。


路地裏の方から、微かに、しかし確かに「魔力」と呼べるような気配が一瞬、揺らめいた。


トシオの足が止まる。今の世に、魔力など存在しないはずだ。自分の力も完全に失われている。しかし、あの感覚は……。


(……まさか)


胸の高鳴りを抑えきれず、彼は思わず路地の方へ一歩を踏み出した。


「――おい、トシオ? トシオだよな!?」


背後から、呼び止める男の声がした。


覚えのある声だ。しかし、どこで――。


振り向くと、そこには少し不良っぽい格好をした、赤髪の青年が立っていた。その顔を見たトシオは、息をのんだ。


鋭い目元。顎に残る古傷。その容貌は、前世で勇者ミユの片腕として、魔王軍の将軍を何人も打ち破った、炎の魔法使い――レオンのものだった。


「やっぱり! 俺だ、レオンだ! まさかお前も転生してるのか!?」


青年――レオンは、驚きと喜びを混ぜたような表情で、トシオに近づいてくる。彼の目には、完全な記憶と認識があることが明らかだった。


トシオの頭が真っ白になる。

(まずい。最悪だ。)

勇者のみならず、その仲間までもが。そして、彼は完全な記憶を持っている。


レオンの笑顔が、少しだけ、危険な色を帯びた。

「ちょうどよかった。ちょっと話があるんだ、『魔王様』」


路地裏の奥へと招き入れるような、レオンの視線。

トシオは、逃げることも、拒むこともできず、ただ固まっていた。


平和は、あっけなく終わりを告げようとしていた。

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