第42話 この感情をなんと呼ぼう
「私にとって彼女は、憧れで、いっそ憎らしいほどなのにどうしようもなく目が離せなくて。一言で表すなら……、救いだったんですよ」
彼はそう語り終えると、静かに笑う。それは笑顔のはずなのに、どこか背筋に冷たいものを感じるような酷く冷えきったものだった。
一之瀬家の玄関ホール。大階段の上で彼が語ったのは、彼の積もり積もった諦念や、そんな中で現れた陽乃へと抱いた恋慕の感情。彼の目はもはや誰の姿も写しておらず、どこか遠い過去を見ているかのようだ。
幼い頃から身近にいた影吉家が間諜のような役割を果たしていたこと、そして敬吾が母に対して屈折した思いを抱えていたということのあまりの衝撃に、純蓮はおもわず意識が遠のきそうになる。純蓮が何も言えないままでいると、階下から大きく声が張り上げられた。
「それが……、何故今ここであなたがお嬢様を傷付ける理由になるんですか。あなたにお嬢様を傷つける道理など無いでしょう!? ……今すぐにお嬢様を解放してください!」
その声に視線を向ければ、そこには焦りと怒りに顔を歪める依月の姿があった。彼のその様子はいつもの冷静さを欠いていて、彼の純蓮への心配がひしひしと伝わってくる。そして、その隣では、治彦が信じられない、とただ立ち尽くしていた。
依月の言葉を聞き届けると、心底可笑しいと言うかのように敬吾は声高く嘲笑った。
「はははっ、今になって私に道理を説くなんて……。お前は本当に馬鹿だなぁ。我が息子ながら呆れるよ」
彼はひとしきり笑い終えると、すっとその表情を消す。
「あの人は、私にとっての光だったんだ。お嬢様は、そんな光がもう私の手には届かない、という何よりの証明だったんですよ。いえ……、わかってるんです。元から私は、あの人の隣に立てる人間なんかじゃなかった」
彼は踊り場を落ち着きのない様子で歩き回りながら、だけど、と言葉を続ける。
「だけど……、もうすぐだったんです。あともう少しであの人が手に入る。そのはずだったんだ。なのに、あの人は私の手から零れていってしまった。私の目の届かないところで、いなくなってしまった……! どうして……、私のはずだったのに……! 彼女はあんな最期を迎えていい人間なんかじゃない……っ!」
ぶつぶつと、ひとりごとのように彼は何かをつぶやき続ける。その目はどこか焦点の合わない異様なものだった。
「……計画は完璧なはずだった。あともう少しで……、あれは、あの笑顔は。全て私のものになるはずだったんだ……!」
彼の言葉には、表情には、明らかな狂気が込められていた。そのあまりの熱に、純蓮は瞬時に気圧されてしまう。
彼のあの感情は、なんと言い表せばよいのだろう。思慕、羨望、渇望、嫉妬、そして何よりも、彼が陽乃に向ける感情は「執着」によく似ている。
――確かどこかで、「執着」という言葉を聞いたような……。
その単語にどこか妙な引っかかりを覚え、純蓮は必死の思いで記憶を辿る。そしてついに、二日ほど前のとある言葉に思い至る。
『……それにコイツの犯行は憎しみとかっつーより執着? みたいな感じがすんだよなー』
人形師についての調査をする中で、アルマが零したその言葉。そしてそこに、今までの敬吾の言葉がぴたりと音を立てて当てはまってゆく。
「もう少し」、「手に入る」、そして「私のもの」という言葉。そこから導き出された結論のあまりのおぞましさに、純蓮はおもわず声を漏らす。
「まさか……、人形師?」
静まり返った玄関ホールに彼女が零したその疑問は、小さな波紋をつくり、大きなうねりを生み出してゆく。ステンドグラスから差す色鮮やかな月光の下で、冷たい一対の眼光が、純蓮を静かに見下ろしていた。




