第40話 陽だまりのようなあなたが
「はじめまして! 榎本陽乃です。よろしくお願いします」
敬吾の目の前で、ぺこり、と音がなりそうなほど勢いよく頭を下げたのは、治彦の恋人である陽乃だった。栗色の髪を後ろで高く束ねた姿は小動物然としていて、どこか幼さを感じさせる。
率直な第一印象を述べるなら、彼女は落ち着きのない庶民的な女性だった。
彼女を紹介したい、という治彦の言葉によって、敬吾たち三人は、街中のカフェで机を共にしていた。治彦の恋愛相談を受けてからはや二ヶ月、仲睦まじげに言葉を交わす二人を見るに、どうやら彼らは上手くやっているようだ。
「なんというか……、治彦様とは正反対なお方ですね」
おもわずこぼした敬吾の言葉に、治彦はわずかに笑う。
「だろうな。陽乃は俺なんかと違って優しいし、明るいし。おまけに社交性もある」
「ちょっと治彦さん!? そういうのやめてって言ってるじゃないですか!」
どこか誇らしげな治彦の口から溢れ出る褒め言葉の数々に、陽乃は慌てて言い返す。唐突に始まった惚気に絶句していれば、陽乃は申し訳なさそうにこちらを見た。
「……その、すみません、影吉さん。初対面なのにお恥ずかしいところをお見せして……」
「いえ、大丈夫です……」
陽乃と共に笑う治彦はまるで別人のようで、恋とはここまで人を変えるのか、と敬吾は内心で息を呑む。その後もいくらかの言葉を交わしたものの、敬吾の記憶に残っているのは、人が変わったように柔らかい表情をした治彦の姿だけだった。
――それが、敬吾と陽乃の初めての邂逅だった。
正直に言えば、この頃の敬吾は陽乃のことを侮っており、彼女が一之瀬家の一員となることはないだろうと考えていた。なにしろ一之瀬家の年長の者たちは、旧態依然とした保守的な者ばかりで、庶民的な陽乃が受け入れられることなど考えられなかったのだ。
そして、治彦の態度も一種の熱病のようなもの。時が経てば次第に落ち着くものだと、敬吾は予想していた。
しかし結果として、その予想は大きく外れることとなる。
◇◇◇
「それでは改めまして……、ご結婚おめでとうございます。治彦様、陽乃様。いえ、旦那様、奥様と呼んだ方がよろしいでしょうか?」
「影吉さん!? そんな、奥様なんて……」
「おい敬吾。その呼び方はからかってるだろ?」
敬吾の言葉に頬を染め、あわあわと慌てる陽乃と呆れたように半眼になる治彦を見て、敬吾はうすく笑みを浮かべる。
「そんなの当たり前じゃないですか。あ・の・治彦様がご結婚ですよ? 実は、槍でも降ってくるのではないかと内心怯えているんです」
「……俺が結婚することは、そんなにおかしいか?」
敬吾の言葉にぶつぶつと文句を垂れるも、その表情からは幸せで仕方ない、という気持ちが溢れんばかりに滲み出ていた。
彼らが正式に婚約を交わしてから約一年が経った四月の初め。今日は、陽乃が一之瀬家へと居を移す予定の日だった。
これまでの一年間、当初の敬吾の予想を軽く凌駕するように、陽乃は一之瀬家の人々に受け入れられていった。彼女のよい意味での自由奔放さや爛漫さにきっと絆されたのだろう、と推測こそしてみたものの、それだけで説明がつくような単純なこととは思えない。
一度、敬吾はそれに近しいことを治彦に零したことがある。しかし治彦はそんな言葉に苛立ちを見せるでもなく、「きっとお前も、陽乃を見ていればすぐにわかるよ」と曖昧に笑って答えたのだ。
――結局、何故かなんて分かりませんでしたけどね。
心の中で毒づきながら、敬吾は笑う。敬吾がどう思っていようとも、彼女はすでに一之瀬家の一員となったのだ。そこに敬吾の異論が介在する余地はない。
まぁまぁハルくん、と隣の治彦をなだめていた陽乃は、ふと敬吾に視線を向けると自然な笑みを浮かべた。
「えーと、影吉さん。あらためて、これからよろしくお願いします!」
「えぇ、よろしくお願いします。それと、私は使用人ですから、敬称や敬語は不要ですよ」
そんな敬吾の言葉にはっとした顔をすると、そうでした、と陽乃は肩をすくめる。そんな、穏やかな春の日だった。




