3. 天使のえくぼ
その日は懐かしい夢を見た。
『ねぇね、おなかすいた』
幼い弟の、柔らかなぬくもりを背中に感じる。
『ねーちゃん、俺の弁当は?』
『姉ちゃんの受験?俺の合宿代のほうが大事だろ!』
『姉さんどうせ結婚しないんだから貯めこんでる金、ご祝儀にちょーだい』
『家買うんだけどいくら出せる?借りたらもったいないよ、ほんとにバカだなぁ』
だんだんリアルになっていく夢。
「うぅー、可愛い大ちゃんを返して…」
「森さん、だいじょうぶですか?」
背中で私を心配する可愛い声がする。
「んあ?」
寝返りを打つと、ベッドサイドに天使がちょこんと座っていた。
まろやかな輪郭に完璧な鼻筋、ぷっくりした桜色の唇。
長い睫毛に縁取られた無垢な瞳には、だらしなく涎を垂らした人間が映っている。
そうか、これが噂の人生のボーナス。
「恥の多い人生でした。ぐーぐー」
「5分後にまた起こしますか?」
「まさかのアラーム機能?……って部長!!」
ベッドから飛び起きる。時計を見ると11時近い。
もしやずっとベッドの横で正座して待っていたのだろうか。
「すみません、寝過ごしました!」
「うなされていたので、起こしてしまいました」
「変な夢というか、嫌な思い出が走馬灯のように」
子どものあたたかさに昔の記憶がよみがえったのか。
部長は一夜明けても、まだ子どもの姿のままだった。
「うーむ、一晩おいても治りませんでしたか」
「はい。残念です」
「パン生地なら発酵して膨らんでいるところですが」
「お恥ずかしい限りです」
「まぁ、小麦粉にはかないませんよね」
カーテンをあけ、恐縮する5歳児に向き合う。
「部長、おはようございます」
「森さん、おはようございます」
1日の始まりは挨拶から。
いつも通り朝の始業挨拶をしてから、布団を跳ね上げ、我がリビングへご案内する。
「これは」
「さては庶民の暮らしに驚いてますね。そう、これが民家ですよ部長」
1週間ほぼ掃除をしていない、所帯じみた居間で部長は立ち尽くしている。
「一人暮らしとお伺いしていましたが、子ども用の椅子やオモチャがあります」
「甥っ子のです、時々遊びに来るので」
たしかにパズルやブロックが先週預かったときのまま散乱している。
クローゼットの段ボールから甥っ子の着替えを取り出す。
「ハイこれ着替えです。お古ですがよかったら使ってください」
「ありがとうございます。洗面所お借りします」
部長はぺこりと頭を下げ、とてとて駆けていく。
「あっ、トイレは補助便座を使ってくださいね!」
部長は何も言わず、扉がパタンと閉まった。
いかん、心の扉も閉まったかな。
台所でじゃぶじゃぶと顔を洗い、ソファで山になっている洗濯物から服を引っ張りだし着替える。
ベランダの窓を開けると、昨日の大雨が嘘のように清々しい空気だ。
いい気分でテーブルを拭き、掃除機をかけていると、着替えた部長が戻ってくる。
「お洋服、ちょうど良いサイズでした」
「かっわ!!!」
想像を超えた可愛さに思わずデカボイスが出てしまい、部長がビクリと肩を揺らす。
シミだらけの戦隊Tシャツですら、ビンテージ感あふれる着こなし!
なんてこった、素材が良すぎる。
「失礼しました、ぴったりでよかったです。甥っ子が5歳のときの服なんですけど」
「そうですか。今の私は5歳児サイズなのですね」
冷静沈着な部長の目が、わずかに曇る。
まずい、ここはなんとか元気を出していただかねば。
「部長!本日はいかがしましょう。なんでもありますよ!」
テーブルにひとつづつ、ストックボックスを並べていく。
「定番の薄力粉、強力粉に片栗粉、もちろん米粉も!」
「何のラインナップですか?」
「やだな、部長。朝ごはんですよぉ」
「朝食の原材料を聞かれたのは初めてです」
賢い部長が戸惑っている。
「それでは、軽快に薄力粉にしましょうか!」
「はい」
「土曜日のブランチらしく、パンケーキはいかがですか?」
「はい」
甘党らしい部長の頬が少しゆるむ。
どうやら正解だったようだ。
テーブルにボウルや計量機を広げていると、何を着ても上品な男児、あらため部長がいそいそと寄ってくる。
「お手伝いできることはありますか?」
「そうですね。薄力粉と砂糖をふるっていただいても?」
「承知しました」
部長は子ども用の椅子によじ登り、器用にザルを使って、ボウルの上で粉をふるっている。
その様子はさながら人間界に雪を降らす天使である。
そんな絶景を心の額縁に入れている間に、ボウルにサラサラの粉の山が現れた。
「森さん、こちらでよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。山盛りの白い粉って、どうしてこうも魅惑的なんでしょうねぇ」
「そうですか」
「ご覧ください。この儚くて繊細な白い粒子!」
「薄力粉の粒子は直径150ミクロン以下です」
「人は言いました、どうして山に登るのか。そこに山があるからだと」
「イギリスの登山家の言葉です」
「そう、そこに粉の山がある限り、食の可能性は無限なのですよ」
熱弁する私に適当な検索結果を返しながら、部長は小麦粉の袋の蓋をパッチンと締めている。
そうそう粉の保管に湿気は禁物。
実に仕事のできる子である。
「部長、おててをグーに握ってください」
「こうですか?」
「はい、それを山のてっぺんに優しく押し付けてください」
白い粉の山が、部長のちいさいこぶしの形に凹む。
それはそれは石膏で固めて飾りたい尊さである。
「たいへん素晴らしいです」
こぶしを握り締めたまま立っている部長に、惜しみなく拍手を送る。
「それではこのくぼみに」
「卵をいれるのですか」
「おや!よくご存じで」
「子どもの頃、同じことをしたのを思い出しました」
「へー。私は昔近所に住んでたイギリスのご婦人にならったんですよ」
コンコンと卵を割り、窪みに落とす。
真っ白なお山の頂上に黄色いたまごが鎮座する姿は、壮観である。
「そのご婦人は、これを天使のえくぼって呼んでました」
「天使のえくぼですか」
「えぇ、部長のおかげでその理由が解明されました」
おそらく彼女もこうして子どもと一緒に作ったことがあったのだろう。
小さな子どもがつけた跡は、きっと天使のえくぼのように可愛らしかったに違いない。
レシピを教えてくれた品のある優しい貴婦人を、懐かしく思い出す。
「恐れ入りますが、部長。こちら混ぜていただけますか?」
「はい、喜んで」
その間に私は別の作業に取り掛かる。
冷蔵庫からバターを切り出し、冷たいままの塊をボトンとミルクパンへ落とす。
弱火にかけたバターがじわじわと溶け始め、キッチンに芳醇な香りが広がる。
「とても良い香りです」
「バターと小麦粉は永遠を約束された仲ですからね」
「意味がよくわかりません」
完全に溶けたバターはまるで黄金が溶けたような色合いだ。
「ここで止めずに、もうちょっと。少し茶色くなるまで焦がすのがコツです」
しっかりと焦がしたバターは、風味が格別だ。
フツフツと茶色い泡が立ってきたところで、火を止めて牛乳とまぜる。
「はい、入ります~」
薄力粉と牛乳を混ぜたポロポロの生地に、ゆるゆると馴染ませるよう少しずつ足していく。
空気をふくませながら右に混ぜたら、次は左に。
だんだんと生地がまとまり、なめらかに、光沢が出てくる。
カスタードのように黄色い艶やかな生地が出来上がった。
「ハァ~美しい」
「とても綺麗ですね」
「しばらくおくので、鑑賞されていて良いですよ」
「生地をですか?」
神妙な顔でボウルを覗く部長の姿は、まるで人間社会という深淵をのぞく天使のようだ。
「この間にトッピングを用意します」
「お手伝いします」
「それじゃバナナをお願いしても?」
「お任せください」
熟したバナナを必殺請負人に託し、冷蔵庫を空ける。
うーん、近ごろ平日は残業続きで買い物に行けないせいで中はスカスカだ。
賞味期限ぎりぎりのベーコンに、野菜は玉ねぎくらいしかないけれど、なんとかなるだろう。
意外となんでも合うところがパンケーキの懐の深いところだ。
とりあえず、玉ねぎをスライサーで薄くおろし、水に晒しておく。
「本日は特別に、秘密道具を出しますね」
じゃじゃーんと4人掛けのテーブルにホットプレートを出し、温めはじめる。
冷蔵庫から苺ジャム、マーマレード、メープルシロップにチョコソースを出し、プレートを囲むように並べる。大きめの平皿を2枚用意し、コップに牛乳をついだら準備万端だ!
「さぁ、パーティはじめましょう!!」
部長はテーブルにずらりと整列したトッピング、通称:パンケーキの祭壇を見て、大きな目を丸くしている。ふふふ、少年よ。これが大人だ!
ホットプレートに、バターをひとかけら塗る。
「では生地を焼いていきますね」
ボウルから生地をオタマでひとすくいし、高いところからトロトロと落とす。
手のひらほどの円になるように丸く、うすく。
「イギリス式のパンケーキですか」
「はい、今日はいろんな味を楽しみたいので薄焼きにしようかと」
そのまま二人で黙って、ホットプレートに2つ並んだ丸い生地を見守る。
パンケーキの隙間では、ベーコンの脂がジュウジュウといい音を立てている。
バターたっぷりの甘いパンケーキの匂いと、ペーコンの食欲を刺激する香ばしい匂いが交差する。
目の前にはまるいパンケーキと天使。
究極の癒しがここにある。
「森さん、だいじょうぶですか」
「あれ、ホットプレートからマイナスイオン出てます?」
「出ていません」
「そろそろひっくり返しましょうか」
「お願いします」
表面が乾き、焼き色がついたところで、ひっくり返す。
イギリス式薄焼きパンケーキは、すぐに焼けるのがいいところだ。
両面に焼き目がついたパンケーキを、一枚づつお皿に入れる。
「いただきます!」
「いただきます」
部長は自分の顔ほどのパンケーキを前に、子ども用のフォークとナイフを握りしめた。
「さぁ、じゃんじゃんお好きなものを乗せてください!」
「ありがとうございます」
「私はベーコンと生タマネギにします」
パンケーキにフチがカリカリになったベーコンとオニオンスライスを乗せ、手づかみで食べる。
ベーコンのしょっぱい脂をパンケーキが包みこみ、口の中で一体となる。
瑞々しいタマネギがアクセントとなり、脂っぽさを流してくれる。
「あー、しあわせ!休日の朝の贅沢ですよね」
部長は生地を半分に切り、トッピングはのせずにパンケーキだけを巻いている。
シンプルに生地の味と食感を楽しむフリースタイルだ。
小麦粉へのリスペクトを感じる。え、好き。
部長は上手にナイフとフォークを使ってパンケーキを小さく切って、上品に口に運んだ。
「おいしいです。とても懐かしい味がします」
「パンケーキは心のふるさとですから」
「これは私がずっと食べたいと願っていた味です」
大袈裟に褒めてくれた部長はインターネット接続が切れたような顔をしていたが、すぐにまたパンケーキをひとくちはむ。
「たしか本場のイギリスは、こんなクレープみたいにトッピングしないんですよね」
「そうですね。丸めて砂糖を振って食べるのが一般的かもしれません」
「部長はイギリスのご経験が?」
「はい、大学までイギリスで育ちました。その後アメリカで就職し、直近はベルギーで働いてました」
「つまりスコーンからのピザいってワッフルってことですか!」
まさに小麦粉界のホップステップジャンプ。
やはり部長はただものではなかった。
「素晴らしいご経歴ですね」
「恐れ入ります」
空いたホットプレートで、2枚目を焼き始める。
薄焼きで軽いからどんどん食べられるのだ。
「森さんは手際が良いですね。あっという間に美味しいものが出てきます」
「冷凍しておくとオヤツにもなるので、よくつくるんです」
「私はこのように美味しくできたことはありません」
「アハハ、部長のためなら毎日でもパンケーキ焼きますよ!」
部長は神妙な顔で、食べる手を止めた。
おっと。褒められたのがうれしくて、つい安請け合いが過ぎてしまったようだ。
部長はパンケーキを見つめたまま、再びもきゅもきゅと食べ始めた。
部長の様子を伺いつつ、二枚目のパンケーキにしっかりマーマレードを塗る。
バターをしっかり焦がしたおかげで、生地がもちもちだ。
「おいしい!」
オレンジの爽やかな甘酸っぱさにバターの風味が完璧にマッチしている。
気分は優雅なガーデンパーティである。したことないけど。
部長は生地にバナナとチョコレートを乗せている。もう半分にはベーコン2枚重ね。
もう完全に玄人の所業である。
パンケーキをたたむ姿は、さながらパンケーキの申し子と言って差し支えなかろう。
部長はチョコバナナを挟んだパンケーキを、実に美味しそうに食べている。
「部長。ちゃんと牛乳も飲んでくださいね、ほら口の周りついてますよ」
「あ」
チョコを取ろうと唇に手を伸ばすと、部長が固まってしまった。
しまったーーー!
つい子ども扱いしてしまうが中身は35歳エリートサラリーマンだって!
いらぬ世話焼きは、長女の哀しい衝動的習性である。
※個人差があります
「申し訳ないです!私、人との距離間がおかしくて。」
「いえ。会社でも森さんのコミュニケーションのおかげでチームの風通しがよいです」
まじすか部長!
下げた頭をあげると、復旧した部長がパンケーキを片手にフィードバックをしてくれる。
「いつもチームメンバーに声掛けして、細かい点までフォローしてくださっています」
「そんな……まさか私のだめんず育成スキルが、お役に立つなんて」
「だめんず?」
初めて聞く単語に、目をまたたかせる部長かわいい。
もういっそ、上司にはこのままでいてほしいな。いやだめか。
「メンタルケアや隙間作業は明文化されていませんが、経験とスキルが必要とされる重要な業務です。その点、森さんはとても広く業務範囲をカバーしており、私は高く評価しています」
「ぶちょー!!」
思わず抱き着きそうになるが、グッと拳を握りしめる。
三十五歳!三十五歳!なかみ三十五歳!
「私こそ部長のおかげで仕事がやりやすいです!指示が的確ですし、業務分担も適材適所で!」
普段口にしない感謝の気持ちを伝えると、部長はちいさな肩をすくめる。
「とんでもないです。昨日も森さんは遅い時間まで残業していました」
「違うんです!本当は二人でやるはずが、先輩がお子さんの発熱で早退されたので!」
「トラブルはチームで対応しましょう」
「いやぁ、でもノベルティ付けるだけの簡単な作業で、私ひとりでもできますから」
「森さんは、いつもそうしていませんか」
「え?」
「助け合いは美徳です。しかし、本件は管理職のマネジメントの問題です」
「はぁ」
「組織において、ひとりひとりの力を発揮することと、ひとりの力に依存することは違います」
「むずかしいな」
「いかなるイレギュラーにも対応可能な、フレキシブルでレジリエンスの高い組織が私の目標です」
「そろそろ3枚目焼いてもいいですか?」
よくわからんが、部長はちゃんと私の仕事ぶりを見てくれていたらしい。
そして、ひとつひとつは小さい作業が積み重なった結果、しわ寄せがきて残業続きになっていることも。
<いいよ、わたしお姉ちゃんだからあげる!>
<ここは私がやっておくからいいですよ!>
プレートの上で、お玉を持つ手がとまる。
「どうしましたか?」
「なんでしょう。なんだか、初めて人間として認められた気がして」
「森さんは立派な人間です。時々、不思議なことをいいますね」
私にとって当たり前のことを、重要なことだと初めて評価してくれた人。
引き受けてばかりの荷物を、初めて心配してくれた人。
それは家族でも、同僚でもなく、上司だった。
「平井部長、ありがとうございます」
「とんでもございません。私こそお力になれず申し訳ありません」
謙遜する部長に向かって深々と頭を下げる。
「でも部長。今回は遠慮なく私のこと頼ってくださいね!私たち、パンケーキの仲ですし」
「パンケーキの仲とは?」
「その心は、クレープ以上ホットケーキ未満!」
いかん、部長と縮みかけた心の距離が高速で開いていく。ちょっと待って部長!
「えーと、部下以上 友だち未満と申しますか。まぁちょうどいい距離ってことですよ」
「ちょうどいいですか?」
「仲の良い友人に言えないことも、ちょっと離れた他人には話しやすかったりするじゃないですか」
「そういうものですか」
「はい、そういうもんです」
首を傾げローディング中の部長のお皿に、3枚目のパンケーキをのせる。
「まぁとりあえず、一緒にホットプレートを囲む仲ということですよ!」
かわいい部長は、コクンとうなずいた。
「さて、部長。今日は何しましょうか?」
「本日の予定はありません。森さんは他にご予定があったのでは?」
「あ。うー、大丈夫です」
私の暇つぶしなど、部長の一大事の前では些末なことである。
「よし、では必要物資の買い出しに行きましょうか!」
「はい」
「昼ごはんと夜ごはんは何にしましょうね」
「森さん、先ほど食べたばかりです」
あれ、いま笑った?
部長のカワイイほっぺに、一瞬だけえくぼが見えた気がする。
部長の笑顔は俺が守る!!!
またそんな余計なことを考えながら最後のパンケーキを平らげた。