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燦燦  作者: Kesuyu
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九、刺青




   九



 結局サトリはずっとウミに恋焦がれていた——彼女の姿を一目見た瞬間から六年と七か月経った今でも変わらず。それはサトリにとっての初恋であると同時に彼の人生そのものであった。それこそがもはやサトリにとっての「サトリたる所以」であるかのごとく。そして今再びウミを自分のものにしようと画策(おそらく綿密に)している——学生の頃、十八か月かけて何とか彼女を手にした時のように。サトリ、もうおれらは学生やない。大人になってもうたんや。後戻りはできひん。お前の中の時計はあの頃のままに止まってしまったんか? どうすれば時間を元に——

 ホテルのバーでのサトリとの話し合いの末、ぼくは少し考えさせてくれと言った。サトリはバーテンダーがハイボールのおかわりを勧めるのを断ってから煙草に火をつけ、煙をふかした。顎を上げ、ふっと息をつき、視線だけをこちらに向ける。もちろんいいとも、ただし期限は五日だな、こちらとしても都合があるからそれ以上は待てないよと彼は言った。そして暫定的な笑みを顔に浮かべた。

 全然酔えなかったのでサトリと別れたあとに一人で、ホテルの前にあるロータリーで列をなして停まっていたタクシーの一台に乗車し、梅田から東心斎橋のバーまで行くことにした。道のりはものの十分程度だろう。どこかでしっぽり呑みなおさないことには始末が悪かった。胸につかえたしこりをアルコールで洗い流し、尚且つもっと頭の働きを鈍化させようと。こういった場合、経験的に考えすぎるんはようない。ネガティブな気分に吞まれたら負けや。外は土砂降りだった。街行く人々は皆傘をさしている。タクシーが信号によって停車を余儀なくされる度に、濡れた窓ガラス越しの信号と車のテールランプの赤い灯が、雨に滲んでやけに鮮明だった。まるでアネモネや金魚草の花が咲き乱れるみたいに。車内は無機的で、ぼくは窓の外に目をやりながら、左右に揺れるワイパーの発する単調なリズムを聞くともなしに聞いていた。空は全面分厚い雲に隠されており、鈍重な様相をした暗い鈍色——あるいは暗い鉛色だった。

「おお、いらっしゃい、よう来たやんか」行きつけのバーに入ると店主のサクちゃんが出迎えてくれた。「雨すごかったやろ?」

「ええ、ほんまに。この分やと当分止みそうもないですね」

「どこでも好きなとこ座りいや。たぶんこの調子やと今日はほとんど客こおへんから」

 ぼくは店内を見回した。カウンターのちょうど真ん中の席で女が一人で何かしらを飲んでいる。他に客の姿はない。ぼくは最奥の椅子に座り、ビールを注文し、いつも通りグラスは抜きで瓶のままビールを飲んだ。

「相変わらず水みたいに飲むな」ビール瓶の中身はひと口で半分消えていた。そして目の前のコースターの隣に小皿がこつんと添えられた。「あちらのお客様からいただいた差し入れや」サクちゃんはそう言って、カウンターの中央で淡い透明色のワインらしきものを飲んでいるもう一人の客人を見た。「ええとこの柿の種やで。おすそわけ。ようけもらったから、君も遠慮なく預かっとき」

 ぼくは女の方を向いて差し入れの礼を述べた。彼女は口の脇にほんのささやかな微笑を浮かべ、挨拶ていどに首をわずかに傾けた——それは気を抜くとうっかり見逃してしまいそうになるくらい微々たる仕草だった。「いえ」も「どうぞ」も言わない。ただ黙してワイングラスに手をかけるのみだ。そしてシンプルな黒いコートを着ている。しかしそのウールの滑らかな質感から、相当高価なものであるという察しはついた——庶民には到底手が届かない、あるいはどうにか手にしたとしても溜息と共に着るのをまず躊躇(ためら)うくらいの。

 ぼくは柿の種をつまみながらビールのつづきを飲んだ。昼食以降、ろくすっぽ飯を食べていなかったので、差し入れはありがたかった。席をふたつ挟んで、カウンターの真ん中では女がカウンター越しにサクちゃんにぼそぼそと小声で話しかけている。サクちゃんはさも機嫌がよさそうに大袈裟に反応を示しながらアイスピックで氷を削っていた。ややあってサクちゃんは作業の手を止め、ふいにこちらに顔を向けた。

「かしやん」いつからかサクちゃんはぼくのことをそう呼ぶ。「自分、たしかパソコンとか得意やったよな?」

「ええ、まあ」ぼくは頷いた。

「彼女の悩み、聞いたってくれへん? 困ってるらしいねん」

 そう言われて、黒いコートの女の方を見た。女もじっとこちらを見つめていた。彼女としっかりと目が合ったのはバーに入ってからそれが初めてだ。小さな声とは裏腹に、頑固そうな、とても力強い——生命力に充ちた眼差しだった。そしてぼくは彼女に困り事とは何かを尋ねてみた。女はか細い声で、わたしが使っているパソコンが動かなくなりました、と端的に説明した。いつから動かないのか? どうして動かなくなったのか? 今はどんな状態にあるのか? いくつか質問はしてみたものの、彼女の返答はまったくもって瑣末で要領を得ない始末だった。ごめんなさい、わたし、デジタルとか苦手なんです……

「実際に見てみないことには何とも言えないですね」ぼくは一旦(さじ)を投げた。

「手間を取らせてしまって、ごめんなさい」女は俯き加減に詫びた。「ところで、失礼ですが、あなたは何の仕事をされてらっしゃるんですか?」

「僕は製薬会社勤務です」

「関西人なら誰もが知ってる大手やで」横からサクちゃんが得意げに言った。

「せいやく——薬を作っていらっしゃる?」

「いえ、僕はSEです」

「エス・イー?」女は不思議そうに眉をしかめた。

「システム・エンジニアのことですよ。要はコンピューター・システム関連専門の使い走りです。会社専属の」

 女は口の端に添えるようにそっと両手の指先を重ね合わせた。とてもほっそりとした指だった。

「だからコンピューターに詳しいんですね」

「それが仕事ですから」

「もしよければ、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか? ずっと『あなた』と呼んでいてはかえって失礼かと。それに不自然ですし」

「カシマです」ぼくは快く名前を教えた。「カシマソウゴ。それが僕の名前です」

「かしやんでええで」サクちゃんが嬉々として促した。「ここではかしやんの名で通ってる」

「カシマソウゴさん」女は耳を塞ぐように一字ずつ区切って反芻した。「ちゃんと覚えました。実はこれでも人の名前を記憶するのには自信があります」

「素晴らしい特技ですね。羨ましい。僕なんか記憶力はどちらかといえば悪い方です。でも記憶力が悪くても、システム・エンジニアには一応なれます。努力次第では」

「努力次第では——」一瞬彼女が仄かな笑みを見せた。

 ぼくは様子を窺ってから尋ねた。

「ちなみにあなたの方は、名前は何とおっしゃるんですか? こちらとしてもずっと『あなた』では分が悪い。記憶だってできない」

「たしかに——記憶だってできない」女は閉じた指の腹で自身の唇を押さえ、目元にうっすらと笑みを浮かべた。そしてワイングラスを手に取ってからテイスティングでもするかのようにゆったりと回し、顎を上げてひと口飲んだ。横顔が画になっている。その造形は、成熟しているようでいて、ちゃんとあどけなさも残しているのだ。大人と少女のあいだを揺れ動くかのように。

「サラ」しばらくしてから、彼女はそう告げた。「わたしのことはサラと呼んでください」

 サラ——? 本名かどうかは判別しかねるが、その名前を聞いてぼくは密かに戦慄した。というのは、以前八年間も付き合っていた初恋のガールフレンドの名前と一致していたから。浮気されてすでに別れた今となっては、あまり耳にして心地よい名前ではなかった。でも名前は同じでも二人は見た目も雰囲気もまったく異なっている。昔付き合っていたサラは取り立てて美人とはいえないが、明るくて快活に喋った。それに対して今目の前にいるサラはミステリアスな美女で、声は相手に届く最低限のボリュームしか出さない。その違いは少なからずとも、ぼくを安堵させた。オーケー——この子はあのサラやない、別のサラや、と。

「ソウゴさん」ささやかだがよく通る声だった。「今からうちに来てくれませんか? うちのパソコンを見てもらいたいんです。もちろんお礼だってしますから」

「今からですか?」ぼくはびっくりして聞き返した。「でももう夜更けですし——」

「近くに運転手つきの自家用車を待たせてあります。どうしてもソウゴさんにお願いしたいんです。お帰りの際ももとより送らせますので。お約束します」涼やかだが、目の奥は力を帯びていた。

 ぼくは困惑して心なしか視線が踊り、カウンターの向こうにいるサクちゃんの顔を見上げた。サクちゃんはグラスを白い布で丹念に磨きながら、にやりとウィンクを返すのみだった。

 クリーム色のベントレーの車内ではラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」がかかっていた。道中、サラはほとんど口を利かなかった。ただぼくに飲み物を勧めてきただけ。「ソウゴさんもいかがですか?」「大変ありがたいのですが、お気持ちだけで結構です」「そう?」彼女は少し面白くなさそうに革のシートに身を預け、窓枠に手をかけるとそのまま頬杖をつき、もう片方の手ではワイングラスを片時も離さず、顔を背けてしげしげと烈しい雨模様を眺め始めた。車の内装は殆どが正真正銘の木と革張りで、空間にはいかにも自然な温もりが施されている。相当金かかっとるな。ぼくは意外にも冷静にそう思った。前の座席では白い手袋を嵌めた運転手が寡黙にハンドルを握り、注意深くアクセルやブレーキペダルを交互に踏みつけたり、丁寧にギアを上げたり下げたりしていた。降りしきる雨の中、車は松屋町筋を下り、瓦屋町の角で緩やかに左折したあと、家屋や公園のあいだの路地を悠々と抜けた。そして上本町にある邸宅のガレージで停車した。

「お疲れ様、マスミ」降車すると、サキは運転手に声をかけた。至極抑揚のない話し方だった。「しばらく部屋で休んどってくれる? あとで客人を送ってもらいたいから」

 運転手は「承知いたしました」と言って深々と頭を下げると、そのまま家の裏手へと消えていった。

「ソウゴさん、こっち——」

 不味いな——ぼくは嫌な予感がした。どうにもここにきて酔いがまわり始めたらしい。目の焦点がずれ、意識もぼおっとする。ぼくは平静を装いつつ、今晩飲んだアルコールの量とその種類を頭の片隅で計算しながら踏み出した——足取りに気をつけながら。そのあいだサラは、玄関の明かりに照らされながら、夜気を払うように手招きをして待っていた。

 彼女のお腹には蛇のタトゥーがあった。背中には炎に包まれる卵のタトゥーも。アクセサリーは唯一、首元に細い白金のネックレス。そのネックレスが光の照り返しを受け、暗闇の中で可憐に舞うのが妙に艶めかしかった。サラの家のコンピューターの修復作業を終えると、ぼくらはさも当然のことのように抱き合い、自然と身体を重ねた。枕元の仄かな照明の下で、サラがぼくの胸に指を這わせながら尋ねた。

「わたしの刺青(いれずみ)、気になりますか?」

「少し」ぼくは頷いた。

「実はわたし——子供が産めないんです。そういう体質なんだって、三年前に産婦人科の先生に言われました。お蔭で縁談も破談になり、全部ぱあです。相手の両親——当時の婚約者のお父さんとお母さんですが——田舎の人だったので、考え方もわたしたちとは全然違うんです。しきたりとか、跡取りとか、そういうのをすごく気にする方たちでした。だから結婚することは叶いませんでした。それで何もかもが厭になって、そのとき『死のう』と思ったんです。生きている意味なんてない、と。でも結局のところ、色々とあって死ぬことは諦めました。散々試行錯誤してはみたのですが、この世から消え去ることすら叶いませんでした。それで思いました。これはきっと『呪い』なんだって。生きるのも、死ぬのも、苦しみしかありません。どちらにも救いがない。だから呪われているんです、わたし。おそらくは昔に蛇の卵を燃やしてしまったから。ほんとです。家の庭で焼きました。だって恐ろしかったんです。卵が孵化するのがとても。背筋が凍るほどおぞましく感じました。だからこれまでずっと恐怖から逃れ続ける人生だったんです。それで有名な彫師を家に招いて、戒めに蛇と燃える卵のタトゥーを彫ってもらいました。呪いのことをずっと忘れないようにって。どうですか? このタトゥー、素敵でしょう?」

「とても」ぼくは頷いた。「よく似合ってますよ」

「嬉しい」サラはぼくの首筋に口づけをした。「ところでソウゴさん、ずっと気になっていたんですが、何事か悩んでらっしゃる?」

 ぼくは戸惑いつつも頷いた。正直サトリの無茶で一方的な要求に対して、結論を考えあぐねていたから。正直耐えられない。もしかするとそれが顔に出ていたのかもしれない。それにわざわざこの場所で煩わしい問題を隠す意味も必要性もよくわからなくなっていた。

 依然、雨の止む気配はなかった。むしろ着々と烈しさを増していく。今や雨音は狂ったラジオのノイズのようだった。サラがぼくの下顎を覆うように手をかけ、耳元でそっと囁いた。「すべては夢かまぼろし」

 その瞬間、どこか遠くで——窓の外で稲光が落ち、一瞬、光が寝室の影を追い払った。息を呑むほど妖美な彼女の相好がちらりと見えた。遅れて轟音が辺りの密やかな暗がりを暴力的に貫いていく。

「もう何も考えなくていいんですよ」サラはたおやかな指でぼくの瞼をそっと下ろした。それと同時に目の前の緞帳(どんちょう)が降りていく。そして彼女は声を殺して可笑しそうに笑った。「だから遊んでください。わたしと一緒に。運命の下でおててつないで、呪いのダンスを踊りましょう?——死ぬまで」

 薄れゆく意識の中で、その声はいかにも無邪気そうに鼓膜に響いた。まるでぼくたちは、際限なく光に手を伸ばしつつも、いずれは闇に溺れていく定めにあるかのように——




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