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燦燦  作者: Kesuyu
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八、密談




   八



 突然の雨に見舞われてホテルのエントランスに駆け込んだ。ロビーでコートについた水滴をはらい、エレベーターを使って四十階まで昇る。バーの重い扉を押すと、市内が一望できる窓側の席に、サトリは足を組んで座っていた。ラウンジチェアーの右側のひじ掛けに少し身をもたせかけながら頬杖をつき、首を傾げて退屈そうに開いた本を見下ろしている恰好だ。

 向かいの席に座ると、サトリは顔も上げずにもう読み終えるから二分だけ待ってくれと言った。ぼくはバーテンダーにシーバスリーガルのダブルをオン・ザ・ロックで注文し、窓の外の夜景を眺めた。階下は溢れんばかりのネオンサインに彩られ、それがガラス窓の外側に滴る雫によって描かれた模様に少しばかり歪められていた。時計の秒針がぴったり二周したところでサトリは本を閉じ、顔を上げた。

「悪い、待たせた」

「ええよ全然。むしろこっちこそ残業で遅れてごめんな」

「かまわないさ」

「ところでさっきは何の本を読んでたんや?」

「どこかの教授——いや准教授だったかな?——の書いた、政治に関する論説さ」

「ふうん、それって面白いん?」

「面白いわけがないだろう? むしろくだらないさ。正直今読んだ本の著者よりもおれの方が遥かに賢いからな。自分だったらこの十倍は的確にものを書ける自信もあるよ。こういうのは考えるまでもなく『正解』のないことに対して、ものごとをよく知りもしない人間が、さも自分に限ってはものを知っている風を装って、己よりも愚鈍な『迷える子羊』たちに向けて自惚れた持論を展開し、少しでも人目を惹くような——あからさまに都合の良いパッケージングをして、書店の棚や平台なんかに表紙を見せびらかしているだけなんだよ。結局一攫千金や、俗っぽい名誉なんかを夢見てな。まあ、二、三、興味深い点もなくもなかったが、でもその価値は正直ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の半ページにも――飢餓的なまでに――遠く及びはしないだろうさ」

「だったら何でそんなもん読むん? それもご丁寧に最後まで」

「そんなもの仕事のために決まっているだろう? ある程度流行やもっともらしい一般論くらいは知識として身に着けておかないと世間ではうまく立ち回れないぜ? 人並以上に『私は話の通じる人間です』と周囲にそれとなく示しておかなければ、職場でも――たとえ派閥には入れたところで——所詮使い捨ての駒が関の山だ。それこそ頭角を現そうものなら、他の誰よりも堅固に地に足をつける必要があるのさ」

「相変わらずやな……最近、小説は読まんのか?」

「めっきりだな。仕事に就いてからはただの一度も。正直小説を読むには今の生活は少しばかりせわしすぎる。適宜適応にお粗末な政治やら経済やら歴史なんかの本ばかり手に取っているよ。真面目な話、現行のサイクルで日々に追われているとな、どうにも文学への興味も薄れてしまう。じっくりと腰を据えて物語を読もうというような気も早々には起きないだろうな」

「なるほど」

「ところでソウゴ、前々から気になってはいたんだが、今恋人はいないのか?」

「おらんよ」

「どれくらい?」

「一年と八か月」

「冗談だろ? 正気か、お前? それは少々女というものを遠ざけすぎなんじゃないのか? お前は奥手だからな、もっと能動的になった方がいい。主体性なくして、自分の世界の殻を破ることはできないんだよ。受け身でいても、むしろ割を食うばかりだ。どうにも今のお前を見ていると、現状に満足しているような気がしてだな——見ているこっちの方がやきもきする。

 つまりだな、実はさっきから向こうの席でおれたちの様子をちらちらと窺っている二人組の女がいるんだ。片方の女はなかなか可愛い。しかもソウゴに気もありそうだよ。よかったら、おれが今から声をかけてきてやろうか?」

 ぼくは女の子の二人組の方を見た。その内の一人と目が合うと、娘は何でもなさそうに視線を外し、こちらに見えるように鷹揚な態度で髪を耳にかけた。耳たぶの表面で小粒のピアスがきらりと光った。

「余計なことせんでええよ」

「なぜだ? もしソウゴが失敗を恐れているのならば心配無用だよ? おれは五十人以上もの女を口説き落としたことがあるんだぜ?」

「それは能動的すぎるやろ」

「二対二だ——この上なく丁度いい」

「一対二よりはな」

「ん?」

「ん?……いや、何でもない」

「ソウゴ、お前、最近いつ女と寝た?」

 それを聞いてぼくはうちの会社のフロント係の二人の顔が頭に浮かんだ。ロビーで顔を会わす度に、ミヤマエさんはあなたのことはよく存じているという風に含みのある笑みを向けてくるし、サカシタさんに至っては生真面目そうな顔をしてあからさまに熱っぽい視線を投げかけてくる——それも家のトイレで嘔吐されたにも関わらず。どうにも意識せざるを得ない。でも本来ならぼくは仕事関係の人には手を出さないと決めている。だから受付カウンターの近くを通る度に気まずかった。

「その話はやめよう。それよりもほんまは話があって、おれを呼んだんやろ?」

「その通りだ。さすがソウゴ、察しがいい」

「……ウミの話か?」

「Yes」

「だったら諦めた方がいいで。向こうは完全にシャットアウトしとる。もうお前の詰みや。ウミにサトリの話を持ち出しても軽くすかされたもん。さも他人事みたいに。ウミからはお前に対する特別な感情なんて微塵も感じ取れへんよ」

「だからソウゴに頼んでいるんじゃないか?」

「もうこれ以上何もできへんって」

「できるさ。むしろこれからだよ」

「……何か企んどるな?」

「Oui」

 バーテンダーがやってきて、サトリの前のハイボールを取り換えた。他人のことをいえた義理でもないが——サトリにはウィスキーの味の違いなんて毛頭わからない。でも彼は大抵ハイボール(しかもあればなるべく上等なウィスキーを使用したもの)を好んで飲んだ。氷は並々と入れて。実際のところ彼は「ウィスキーのソーダ割り」ではなく、本当は「ソーダのウィスキー割り」を所望しているのだ。()のままではとても飲めないから。だから大人の社交場では彼は進んでハイボールを飲む。それが社会人となった今のサトリにとってのふさわしいスタイルであるらしかった。

 サトリは程よく炭酸の立ち昇る冷えたハイボールをゆっくりと口につけ、コースターの上にそっと直すと、両手を膝の上でクロスさせて、真っ直ぐにこちらを見た。

「単刀直入に言う。来週ウミの誕生日だ。そのための彼女のバースデー・パーティーを再び開こうと思うんだけど、どうだい? 名案だと思わないか? 学生の頃みたいに、また三人で親睦を深めようじゃないか? だっておれたちは互いに親友だったはずだよな? それに今でもおれの気持ちに変わりはないよ、なあ親友? いや、ソウゴの愛読書『グレート・ギャツビー』に(なら)って、『オールド・スポート』と呼んだ方がこの場にはふさわしいかな? なあオールド・スポート? さながらお前はニック・キャラウェイだ。まんざらでもないだろう?

 そしてウミのバースデーは五年前よりも遥かに盛大にお祝いするのさ。その際は彼女の喜びそうなものを——とびきりのプレゼントを用意する。素晴らしいだろう? 今からウミの喜ぶ顔を見るのが待ち遠しいね。ソウゴもそう思――」

 さっと表情を曇らせ、サトリはたしかめるように訊いてきた。

「どうした、黙って? バッテリーでも切れたのか?」

「……そんなことしてもウミは喜ばんよ」

「喜ぶさ」

「ウミは……まず来おへん」

「来るさ——ソウゴが誘えばね。だってソウゴとウミは未だにずっと仲がいいんだろ?——まるで『兄妹』のように。だから必ず来る。そのためにもおれの名前は伏せておくこととしよう。警戒されると厄介だからね。いいかい? 『サトリ』の存在はくれぐれも内密に。何といったって、おれはサプライズ・ゲストとして登場するんだからな」

「おれを()()にする腹積もりか?」

「誤解だよ。それこそソウゴだって、ウミの誕生日を豪勢にお祝いしたいだろう? それとも彼女のことは嫌いか?」

 コースターの上の、グラスの中の氷が溶けてからんと鳴った。

「サトリ……ひとつだけ聞かせてくれ」

「みっつ聞いてやる」

「ひとつでいい」

「Si」

「ウミのために――何でとうに別れた彼女のために、わざわざそこまでする必要があるん?」

「そんなもの決まっている——」

 一切の躊躇の影すらも感じさせず、サトリは一心に打ち明けた。

「彼女を愛しているからさ」

 雨が、しきりに窓を叩いていた——

 でもぼくの頭は空っぽだった。頭上を占拠する豪奢なシャンデリアの輝きとは対照的に、何ひとつなかった。内奥ではずっと底知れぬ空洞の前に立たされつづけている。その深さを測るみたいに足元を見下ろしながら、咥えた煙草にライターで火をつける——あたかも明かりを灯すかのごとく。煙草の先端は勢いよく燃え、すぐにけぶり、()って灰と化し、やがてはこぼれ落ちそうになっていく。虚空に煙を吹きつける。それから身の内に潜む玄奥たる溝に投げ棄てるような心持ちで、眼下のクリスタルの灰皿に煙草を圧しつけた。溜息をつき、ぼくは正面を見据えた。

 深淵の向こう側では、親友がつぶさに——またどことなく冷淡に——ぼくの瞳を凝視していた。





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