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燦燦  作者: Kesuyu
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七、自身にとっての最良の何か




   七



 サトリが官僚になったこと、今出張で大阪に訪れていること、そして君に会いたがっていることをウミにメールで伝えたら、丸一日後に彼女から返信が届いた。ぼくは仕事から帰宅する途中の電車の席でメールを開いた。

 ——サトリくん、官僚になれたんや。すごいね。

 返事はたったそれだけだった。他意も、含蓄も、仄めかしの色さえも、その文面からは読み取ることはできなかった。

 ウミは今、大手アパレル企業の販売員をしている。大学を退学したあとでファッションを手掛ける専門学校へと通いなおしたのだ。その卒業生の大半は企業の販売員として下積み生活を送ることになる。ウミも同様だった。しかし販売員の仕事の傍らで、ウミは二十代の女性向けファッション誌のモデルもたまに務めていた。月に二回くらいの頻度で。実際のところそっちの収入は些々(ささ)たるものみたいだが、仕事としては本業よりもよっぽど面白いらしい。モデルになったのはまったくの偶然だと当人は言う。ウミがまだ駆け出しの社員の頃、出版社の撮影スタジオに、自社の手掛ける衣装を届けに行く手筈になっていた専属スタイリストが撮影会の当日に欠勤する事態となった。親類が運悪く突然の不幸に見舞われたのだ。そこで緊急の社内ミーティングが開かれ、急遽フットワークの軽いウミに代役としての白羽の矢が立った。何事もそつなくこなし、感性も豊かで、見た目も様になっていたから。そして自社の専属スタイリストの代わりに撮影スタジオに訪れた際に、取引先の編集長の目に留まることになる。ぜひあなたにも撮影会に参加して欲しい。そう誘われたのがモデルを始めたきっかけだった。ウミ自身は内心では裏方の仕事に興味があったため、表に出ることに対して初めは戸惑った。ましてやファッション誌のモデルなんて——。いずれはスタイリストとして独立し、ゆくゆくはデザイナーになることが彼女の夢である。躊躇するのも(うなず)ける。でも勉強においても、人脈作りにおいても、それは願ってもない機会に思えた。何よりもどんなことだって経験してみないことには実のある分別もつかない。結局ウミは雑誌のモデルをすることを承諾する。またウミの会社も特例として彼女の副業を認めることとなる。うちの商品の宣伝になるなら、と。

 試しにぼくは、ウミの写真の掲載されている雑誌を一度だけ購読したことがある。雑誌のちょうど真ん中らへんにその姿はあった。よく晴れた冬の並木道の中央で、真綿のように白いロングコートのポケットに両手を突っ込み、編み上げのブーツの踵を片方浮かせ、あどけない表情で左手を振り返っている。ごく普通のスナップ写真だ。でもぼくはその写真を純粋に気に入っている。なぜかというと、誌面には収まり切らないほどに、ウミの匂い立つような存在感がそこはかとなく滲み出ており、あどけない表情の影には大人びた空気感がみだりに混在していて、少女が大人の女性に移り変わる貴重な「揺らぎ」をとても自然に押し留めた絶妙な一枚だったから。

 それは何だかぼくの知っている彼女であると同時に、ぼくの知らない彼女であるようにも思えた。つまり外見はウミそのものではあるが、実は中身はただそっくりそのままの別人だという風に誰かに教え諭されたとしても、おそらくぼくは信じ込んでしまっていたことだろう——

 実際、あの頃のぼくは彼女のことを何ひとつとして本当に理解できてはいなかったのかもしれない。

 学生の頃、文学サークルの活動の帰り道に、たまたまウミと二人きりになったことがある。道すがらぼくは——多少の冗談と興味本位からか——「自身にとっての最良の小説をひとつあげよ」という問いを彼女に投げかけてみた。ウミは途端に視線を下げ、難しい表情を顔に浮かべながら、組んでいた腕の右の拳を唇の先端に圧し当てて、きつく口を塞いだ。見ているこちらが心配になるくらいに熱心に——また真剣に熟慮し始めたのだ。お蔭でぼくは、彼女の答えを待っているあいだ、ひっきりなしに響き渡る椋鳥(むくどり)の立てる騒音を何とはなしに聴かされつづける羽目となった。何度も車が猛スピードでぼくらの側を駆け抜け、そして去っていった。その度にぼくは車道に背を向けてウミをかばった。気が遠のいてもはや諦めかけたその時、長考の末にウミは村上春樹の「ノルウェイの森」と夏目漱石の「虞美人草」をあげた。

「ひとつって言ったやん」意表を衝かれてぼくは抗議した。「ルールは守らんと」

「だってふたつとも同じくらい好きなんやもん。選べへん」ウミはむっとはにかんでいた。「ソウちゃんはどっちも読んだことあるん?」

「『ノルウェイの森』はさすがにな。定番やし。『虞美人草』はまだ——」

「だったら貸したんで、『虞美人草』」ウミは手を後ろに組んで、すばしこい猫のようにするりとぼくの正面に回り込むと、眼の奥をさっと光らせた。「すごい面白いから。ネタバレになるから内容までは言えへんけど、ソウちゃんやったら絶対気に入るはず」

「ほんまに?」

「ほんまに!」

 宙を見上げてどうしようかと考えた。家の机や本棚にはいずれ読もうと思って買っておいたままの本がたくさん後を控えていたし、それに加えて、バイトをいくつも掛け持ちしていたせいで学科の課題にまで追われている始末だったから。これ以上優先事項を抱えると、色んなところから苦情や不服申し立てをされても仕方がない。でもウミの厚意は素直に嬉しかったし、彼女のベスト(正確にはその片方だが)だと明言する小説への期待も高まっていた。

 ふと仰ぎ見る空は沈みゆく太陽によって清新な青と燃えるようなオレンジ色のグラデーションに染められ、街のそこかしこに引き伸ばされた陰を造っていた。中空には巨大に膨れ上がった浮雲が、我関せずとばかりに静かに居を構えている。どこかで走り去る自転車のベルが単調に二回鳴った。

 ぼくはゆっくりと顔を下した。

「その本、今持ってるん?」

「ううん、今持ってへん!」ウミはぶるぶると首を振りながらさっぱりとした口調で言った。その直後、にっこりと笑った。「だからこれからうちに取りに行こう? 一緒に。家近くやから。な?」

 あまりにも大胆で屈託のない笑顔に、ぼくは一瞬見惚れてしまい、思わずこくりと首肯した。まるでししおどしの筒が瞬く間に水で溢れ返ったかのように。

 キャンパスから歩いて十分のところにウミの暮らしている家はあった。白壁の、何の変哲もない、ごく普通のワンルーム・マンションだった。ここのエレベーターめちゃくちゃ遅いからいつも階段使ってんねん、とウミはむくれたように言い、彼女を先頭にしてぼくらは狭い外階段をぐるぐると三周した。ウミが随分と丈の短いプリーツスカートを穿いていたせいで、彼女の後ろの階段を踏んでいるあいだずっと目のやり場に困った。

「なあ、パンツ見えんで?」

「何? 興味あるん?」

「そらな」

 彼女は振り返ってむふふと笑った。

「見たら五百円な」

 ウミは自宅の玄関に入るなり靴箱の上に飾ってあった耀(かがや)く皿の上に自室の鍵を載せた。合金が硝子を打つ小気味好い音がした。そのまま壁に右手をつき、腰を曲げながら膝を折って片足ずつ靴を脱ぎ始める。ぼくが玄関扉を押さえたまま外からその様子を眺めていると、ウミは屈んで、靴の踵の内側に指を挿し入れたままの姿勢で首だけをこちらに向けた。

「何ぼけっと突っ立ってるん? あがって、あがって」

 ここでいい、とぼくは言った。全然よくない、と彼女は言った。

「ソウちゃんな、家の前におった方が正直目立つよ? ご近所で不審者がおったって噂になんで? それでもいいん? ここな、話広まんのすごい早いねんから——世間は狭いんだよ。どこの部屋で痴話喧嘩があったとか、誰が夜中に大きい声で喘いでたとか——そういうみっともない話——みんなほんまに好きやねんで。それともソウちゃん、いっそのこと潔く責任取ってくれる? 特に何もされてへんけど。でもソウちゃんにはずっと前から付き合うてる人がおるんやろう?」ウミはさも可笑しそうに目をにやつかせながらラベンダー色のマフラーを首からほどいた。

 結局玄関土間には大小二足の靴が綺麗に揃えて並べられる結果となった。

「今からコーヒー淹れるから、適当に座っててよ」

 室内は想像より広かった。またありがたいことに暖かかった。スペースは十二畳くらい。クローゼット、チェスト、学習机、本棚、ベッド、オーディオ機器、ローテーブルに二人掛けのソファ。所々服や本などが雑然と積み上げられてはいたものの、それが返ってほどよい生活感を演出している。そういやウミの実家って神戸やったな? けっこう仕送りしてもらってるんやろか? ぼくはそんな事を考えながらソファの端に大人しく座った。そしてローテーブルの上にあった女性誌から一冊を選んで勝手に手に取った。見出しには「トラディショナルからトレンドまで~大人可愛い女子の22の法則」とあった。法則多すぎるやろ。ぼくはそう思ってげんなりした。

「お砂糖とミルクは?」しばらくするとカウンター式のキッチンの向こうから声がした。

 どっちもいらんよ、とぼくは雑誌をめくりながら声を返した。

 ぼくとウミは並んでソファに腰かけながら淹れたてのコーヒーを飲んだ。ローテーブルの上には大皿が置かれていて、その上にはきのことたけのこを模ったチョコレート・ビスケットが均等な配分で盛りつけられている。ウミはその料理(彼女曰く料理らしい)を「武器よさらば」と名付けていた。彼女にとっての「平和のあるべき形」であるのだ、と。

「ソウちゃん、今も小説書いてんの?」両手に抱えたコーヒーカップで鼻先から下を覆い隠しながら、ウミはおずおずとぼくの様子を探るように訊いた。

 ぼくらの所属する文学サークルには小説好きが集まっている。無論プロの作家になることを夢見て小説を書いている者も少なくない。もちろんもれなく皆まだアマチュアだけれど。ぼくもその内の一人だった。

「まあ、一応」ぼくは答えた。「もう生活の一部やから」

「ほんま? 今はどんな話書いてるん?」

 正面の壁にかけられた「トムとジェリー」のポスターを見るともなしに見つめながら、今書いている小説の筋立てを思い返した。

「主人公が人妻となった幼馴染と六年ぶりに再会して翻弄される話」

「何それ? よけいにどんな内容かわかれへんねんけど? すごい気になる」ウミはコーヒーカップを胸元に下げて興奮した。「タイトルは?」

「仮やけど——」ぼくは言った。「スワン」

「へえ」ウミは嘆息するように唸った。「読んでみたいな」

「いや、まだ執筆中やから」

「読みたい」

「だから——」

「ちょっとでいいから読ませて。あたしな、実はソウちゃんの書く物語のファンやねん。文章はうまいし、内容はどこか変わってるんやもん。何でこんなこと書けるんやろうって。ここだけの話な、ソウちゃんがインターネットにアップしてる作品、こっそり全部チェックしてるんやで?」

「ほんまに?」

「ほんまに!」

「じゃあ、ちょっとだけ」ぼくはしばし迷った挙句にスマートフォンを取り出して、書きかけの小説の入ったフォルダを開いてウミに手渡そうとした。しかし驚くべきことに彼女はそれをはねのけた。

「読んで」ウミは真顔で言った。

「え?」

「読んで聞かせて」ウミはまた同じ調子で言った。

「ちょっと待って。おれがサークルの朗読会でも読み手は引き受けへんの知ってるやろ?」

 うちの文学サークルでは月に一度朗読会を行うのが恒例だった。朗読会とは文字通り本を朗読しあう集会だ。テーマやジャンルは様々だが、基本的には、時間内であれば好きな作品を選んで読んでも構わないことになっている。でもぼくはサークルに入会してからこれまで頑なに皆の前で朗読することを断ってきた。他人に聞かれるのが恥ずかしいのだ。

「いいから読んで聞かせてよ」その姿はまるでおもちゃをねだる子供のようだった。

「おれは自分の声が好きとちゃうねん」ぼくははっきりとそう言った。「人よりトーンが一段と低いし、やたらと野太いし、何かまるで猛獣みたいやん」

 ウミは俯いて息をついたあと、顔を上げて朗らかに微笑んだ。

「あたしはソウちゃんの声が好きよ。ハスキーで、落ち着きがあって、聴き取りやすいもん。絶対に朗読に向いてる。あたしもまだまだ子供やし、色々と間違うこともあるけれど、これだけは確信を持って言える。自身にとっての最良の声はソウちゃんの声なんやって。これに関しては同じくらい好きなものはないよ」

 ぼくはしばらく何も口にすることができなかった。

 そのあとウミだけのために人生で初めて文章の朗読を行った——それも自身の執筆中の作品「スワン(仮)」の冒頭部分を。心を込めて、丁寧に。そのあいだ彼女はクッションを胸に抱え、優しく瞼を閉じながら、心地よさげに首を微妙に揺らせていた。

 そのようにしてぼくは夏目漱石の「虞美人草」を借りた。結局朗読を終えるとウミの静止を振り切り、そそくさと部屋を退出した。それ以上長居をすると何か間違いでも起きてしまいそうな予感がしたから。外はすっかり日が暮れて、辺りは閑散としていた。ひやりとした空気が微かに頬を刺す。空にはまるで病に侵食されたかのようにほんのりと赤みを帯びた満月が、やけにその輪郭をはっきりと露わにし、不気味に地上を見下ろしていた。

 今となってみれば、それもいつかは徐々に色褪せていく運命にある青春の一ページだったのかもしれない。すべての例に洩れず、記憶や面影といったものなど行く行くは失われるように。でもそこにありありと存在していた魂のほとばしりや密度は紛れもなく鮮やかだった。触ってたしかめることができそうなくらい。そしてウミのことを知れば知るほどに、かえって彼女のことがわからなくなるときがあるのもまた事実だ。そういった絶え間のない遊戯のような繰り返しにぼくらはいつしか足元をすくわれていた気がしてならない。あたかも出口のないラビリンスに自ずと囚われていたみたいに——




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