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燦燦  作者: Kesuyu
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五、五年前




   五



 五年前、ちょうど今と同じように、空気はしんとして、枯葉舞い散り、黄金色の絨毯が燦然と歩道上を敷き詰めては、空も、街並みも、どれもこれもが全部、ぼくにはいかめしく他人行儀な顔をした灰色に見えてどうしようもなくうら淋しく物憂げだった気分の秋に、サトリとウミは真剣に交際していたことがある。今思えば、二人の恋の盛り上がりようといったらもう目も当てられないほどで、それはまさに季節さえ三か月後戻りさせるくらいの灼熱だった。彼らの半径五メートル以内では陽炎も踊り狂い、ミミズにいたっては地の底まで根こそぎ死滅してしまうような——

 当時ぼくは大学の三回生で、長らく付き合ってきた彼女と別れるにはどうやって切り出せば相手を傷つけずに済むのだろうと日々思い悩んでいた。交際相手の名前はサラといった。サラは人生で初めての彼女だったし、お互い同じ中学校に通っていた頃からの仲だ。付き合ってもう八年になる。そのあいだぼくは一度も浮気をしなかったし、だから当然彼女しか女を知らない。これまで多くを共に経験し、たいしたトラブルもなく、けっこううまくやってきたと思う。サラは真面目で気立てのいい子だし、とりたてて不満があるわけでもない。ただ二人の距離感がすっぽりと収まったためか、ぼくは彼女に対して、自分を突き動かす発熱のようなものをいつからか身の内に感じ取ることがからきしできなくなってしまっていた。もとよりその事態から抜け出そうと苦心もしたが、結局のところ、虚しくも得られた成果らしきものは「流れは変えられない」という事実への畏怖のみだった。ダム……。だからこれ以上ずるずると関係を引き延ばせば、ぼくらの人生はありふれた——とても退屈なものに終わるだろうという見通しが以前からついていた。そういったわけで、ぼくは大学の昼休みに一人食堂で定食のこちこちになったアジフライを箸でつつきながら、自分勝手だと自認しつつも、今年中に恋人との関係の改変、ひいては就職が決まるまでに穏やかに終止符を打つことに心を向けていた。

「どうした? 浮かない顔をして?」

 顔を上げると声の主がぼくを見下ろしていた。サトリだった。ハイブランドのロゴやワッペンがびっしり縫い付けられた真っ赤な革のブルゾンを着用している。彼は迷うことなく持っていたトレイをぼくの真ん前に下ろした。

「別に何もないよ」ぼくは平静を装った。「それよりお前、ウミと一緒じゃないん? 最近どこへ行くにもべったりやったのに」

「ああ、彼女なら今日はインターンシップに出向いているよ」サトリはそっけなく言って席についた。それから身体を浮かせて椅子を前にひきずると、生卵を載せたカレーライスに卓上から取り上げたウスターソースをびしゃびしゃと回しかけ、それをスプーンで乱暴な音を刻みながらかき混ぜる作業に入った。サトリは昼休みには決まってこの生卵つきのカレーライスしか食べない。それがこの広いキャンパス内で——もしかすると世界中を見ても——もっとも合理的な食べ物だと信じ込んでいるのだ。

「ウミはまだ二回生やろ? もうインターンシップ行ってるんか。えらい熱心やな」ぼくは感心して言った。

「そうでもないさ。本人は他に何かやりたいことでもあるみたいだが、せっかくの機会を逃すくらいなら進んで色々と経験を積んでおきたいらしい」彼はどこか具合が悪そうだった。そしてプラスチックの皿の上で泥状に生まれ変わった物体(ぼくは密かにそれを「サトリ・スペシャル」と命名している)を縁からすくっては不味そうに呑み込んでいった。

 サトリのどことなく険しい態度を見て「ウミと何かあったんやろな」とぼくはたちどころに察知した。でもそのことをこの場に披露する気はさらさら起きなかった。サトリは鋭敏な神経の持ち主だ。ともするとお互い食事が喉を通らなくなる。そんなぼくの懸念を見透かしてか、サトリはこちらの様子を一心に窺っていた。

「ソウゴ、今夜空いているか? 明日は休講だし、ひさしぶりにミナミにでも繰り出して、一緒にぱあっとやろうじゃないか?」

 そんなんおれやなくてウミと行ったらええやん、とはぼくは言わなかった。今この場において、彼女の名前はタブーのような気がしたから。代わりに「今日の夜はバイトや」とぼくは言った。それは事実だった。しかし——というかやはり——サトリは簡単には引き下がらなかった。図抜けて執念深いところがあるのだ。それはサトリの長所であり、短所でもあった。そして彼の意見にぼくは耳を疑うことになる。

「そんなもの休めばいい」サトリは傲然と言い放った。「理由なんていくらでもつけようがあるだろう? だいたいアルバイトごときに穴を空けたところでお前の社会的信用や価値は一切損なわれない。なぜならば、お前はまだ学生で、その仕事はたかがアルバイトだからだ。立場があってこそ、責任というものは生じる。進んで非のない責任まで負うのは不器量な奴のすることだ。それでももし仮にソウゴが自らの良心を美徳と認め重んじるのであれば、代役でも立てるんだな。あとでその代わってくれた誰かをフォローすれば事は済む」

 ぼくは思うところがありすぎて、口をあんぐりと開けたまま、その場に固まってしまった。サトリは付け加えるようにつづけた。

「万が一、お前が金銭的なことを心配しているのだったらおれがいくらでも補填してやるさ。うちのくそ親の魔法のカードでな」彼は微笑みかけようとしたがその試みは失敗に終わった。口もとが微かに歪んだだけで、その表情は明らかにこわばっていたから。

「その通りやな」しばらくしてからぼくは無気力に返事をした。「サトリの言ってることは全部正しいわ」

「わかってくれたか」サトリは胸がすいたように唇の端を持ち上げた。

「でもな」ぼくはそう切り出した。「それは理屈にすぎん。お前の志願するお堅い仕事ではそういった理屈も多少はものをいうんかもしれへんけど、自分の目的のためにいちいちそんな正論振りかざしてたら、普通の人はうっとおしがって避難するで。だいたいお前の言う『くそ親』の援助のお陰で『たかが』アルバイトもしたこともない奴に仕事現場の実状の何がわかんねん。おれはバイトに行くからな。独り善がりな考えや身勝手な振る舞いで人に迷惑かけたないもん」

 サトリの顔に一瞬失望の色が見えた。しかし彼はすぐに持ち直し、冷静な顔を作った。テーブルの上にどんと両肘をつき、持ち上げた手を口の前で組む。思慮深げに。その下方に鎮座する先ほどまでカレーライスであった物体はきれいさっぱり彼の胃袋へと流し込まれていた。

「すまない。おれがおかしかった。本当はただどこか然るべき場所へ行って、ソウゴに話を聞いて欲しかっただけなんだ」

 ぼくは息を呑み、そのあと空気を深く肺へと送り込んだ。そしてそれを安堵と疲労の入り混じった溜息に変えた。

「まったく――最初からそう言ってくれたらよかったのに。そしたらほっとけへんやん。ちょっと待ってろ。今から何とかしてみるから」ぼくはスマートフォンを取り出すべくズボンのポケットに手を入れた。

 だがそのあとの彼の反応は、まったくもって理解不能で予想だにせぬものだった。

「いや、もういい……もういいんだ……どうせ人に話したところでな——」サトリは口籠り、前かがみにプラスチックのカレー皿をひたすらに見つめていた。何も載ってはいない、空っぽの皿の上を。そこに何かを——自分にとって希望か、それとも慰めか、どうにか正解らしきものを探し求めるかのように彼はうなだれて小さく呻くような声をこぼした。「いや……でも……しかし……あれ? 何で? ああ——」

 彼はさめざめと泣いた。

 惨状を目の当たりにして、あまりの滑稽さに普段なら吹き出していたことだろう。でもぼくはそうしなかった。それどころか何か気の利いた言葉でもかけられやしないかと思案したりさえもした。でもどこを捜したって痛々しいまでに重く変質した空気に爽やかな風を呼び込むような台詞はとんと見つけられやしなかった。結局のところ、今我々のあいだには大きな隔たりが存在している。ぼくは対岸で火事を目撃している傍観者にすぎないのだ。いったい何が言えよう? ましてや普通の大人であれば誰もまともに取り合わないであろうセンチメンタリズムさえも凌駕する薄ら寒い光景を目前にして、何だかむずむずと後ろ暗い——見てはいけないものを見てしまっているような気分が込み上げてきたし、当然目のやり場にも困り、ただ居心地悪くその場に留まっていることだけが、ぼくの方から提示できる唯一にして最大の約束だった。

 どれほど待ったかはどうしても思い出せない。長かったような、短かったような(そこに関しては未だに記憶がふわふわとして定まっていない)——まるで白昼夢のごとく。あの空間においては、時間よりも先立つものがあったから。

 一種異様な空気を辺りに充満させたあと、サトリは唐突にトレイを掴んですっくと立ち上がった。

「別にたいしたことじゃないんだ。忘れてくれ」彼は言った。

 その表情は、雨の跡も、湿り気すらも、その気配さえも、きれいさっぱり消失し、見違えるように眩しく晴れ渡っていた。頬には温かみまで帯びている。いつの間にか男は見事に復活を遂げたのだ——もはや生まれ変わったと言っても過言ではないのだと。身のこなしまで洗練されていて、彼は優雅に椅子を直すと、さっと身を引くようにしてその場から去っていった。

 サトリが派手な女遊びに興じるようになったのはこの日を境にしてからだとぼくは確信している。




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