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燦燦  作者: Kesuyu
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四、アラベスク




   四



 珍しく定時で仕事が終わったので、会社の近くにある〈アラベスク〉で夕食をとることにした。テーブルにつくと、さっそくメニューを眺めながらウェイターに尋ねた。

「今日のおすすめは何ですか?」

「仔牛のグリルになります」

「他にもおすすめはありますか?」

「新鮮な帆立を仕入れてございます。本日は貝柱をバターで焼いて提供させていただいております」

「じゃあその両方をお願いします」ぼくはメニューを閉じた。「あと季節のサラダ、バゲットを二つ、ハイネケンもください」

「かしこまりました」ウェイターは仰々しく礼をした。そしてつづけて尋ねた。「ハイネケンはすぐにお持ちしたほうがよろしいでしょうか?」

「是非」

「かしこまりました」ウェイターは再び一礼をして、静かに厨房へと去っていった。

 テーブルに食事が置かれるのを待つあいだ、ぼくはビールを飲みながら読みかけの小説を開いた。フィッツジェラルドの短編集だ。学生の頃から繰り返し何度も読んだが、また急に恋しくなって家の本棚から引っ張り出してきた。さながらフィッツジェラルド中毒なのだ。

「あの、すみません」しばらくすると頭上から声がした。「もしかしてカシマ先輩じゃありませんか?」

 読書に集中していたので、突然自分の苗字を耳にしてぼくははっとした。顔を上げると、うちの会社の受付カウンターでフロント係をしている女の子二人組が目の前に立っていた。どちらも栗毛色のロングヘアーを首の後ろでまとめ、同じようなメイクをし、同じような色合いのオーバーコートを着ている。まるでどこへ行くにも一緒の仲のいい双子みたいに。

「やっぱり、カシマ先輩や」受付嬢の二人はそわそわしつつも顔を見合わせ、更にその表情をほころばせた。「奇遇ですね。ここにはよくいらっしゃるんですか?」

「うん、まあ」ぼくは曖昧に返事をした。

「よかったら、私たち、隣のテーブルに座ってもかまいませんか?」

「ああ、うん、もちろん」

 参ったな。ぼくは内心そう思った。会社の人間に会いたないから、いつもここに通ってんのに……。あえて弁解をさせてもらえるなら、ぼくは決して人付き合いの悪い人間ではない。ただ仕事関係の人たちと会話をしていると、話を聞いているうちに相手の政治的意図がやはり否応なく浮上してくるし、そういった事柄に付随するべく他人の反応を試し、胸裏を探るような押し引きに、こちらとしても次第に食傷してしまう。それは深刻な問題だった。ぼくにだって滋養が必要なのだ。〈アラベスク〉は通りの外れにある小さな建物の二階に店をかまえている。入り口に行きつくには狭くて暗くて傾斜のきつい階段を上がらなくてはいけない。職場の連中といえば大抵外食チェーン店かラーメン屋か、あるいは焼肉店など、ある程度ポピュラーな看板を求めて食事をしているのをぼくは知っている。だからわざわざ好き好んでこの少しばかり辺鄙な場所にある——ほとんど常連客しか顔を出さないような——レストランにはまず訪れはしないだろうと想定していたのだ。でもそうではなかった。何事にも例外はある。また自分の配属されている部署が八割方男所帯ということもあり、女性の趣向を念頭に加えるのをどうにも失念していたらしい。特に女の子の二人組というのは結構普段とは違うところに行きたがるものなのだ。たとえば非日常的な雰囲気のレストランなんかに。

 二人はバッグを椅子の背に置き、オーバーコートを脱いで畳んだらしわにならないように椅子の背もたれにかけた。そして隣のテーブルに向かい合って座った。どちらとも上品に。そのあとすぐにやってきたウェイターを前にして、長いあいだメニューを検分し、議論を重ねた。

 ぼくは片手で本を開いたままウェイターの持ってきたサラダとバゲットに手をつけていた。でも開いている本の中身はもう読んではいない。ただページを睨みつけているだけ。というのは、読書に集中しているふりをすると話しかけられにくいのをよく知っているから。

「カシマ先輩、ちょっとよろしいでしょうか?」

 でもさっきも述べたようにもちろん何事にも例外はある。ぼくの築いたささやかな防壁はあっけなく打ち破られ、こちらには明瞭な意識が注がれていた。まあ人を無下に扱うのは本意やない。ぼくは本を閉じ、思考を切り換えた。

「何でしょう?」ぼくは穏やかに振り向いた。

「貴重な修文のお時間を邪魔立てしてしまい申し訳ありません」すかさず二人組の女の子の片方が眉の端を下げて謝った。ぼくの斜め向かいの席に座っている子だ。名前はミヤマエさん。いつも目の奥が強気で、溌溂とした印象がある。彼女は言った。「ここでお会いしたのも何かの縁ですし、もしカシマ先輩さえよろしければ食事をご一緒しませんか?」そうしてもう片方の女の子の方を見て「ソナもそう思うやんね?」と同意を求めた。

 ソナと呼ばれた娘はやや顔を赤らめて「うん」と頷いた。席はぼくの隣。苗字はサカシタさん。何かにつけて目を細めがちで、おっとりとした雰囲気がある。

 ぼくは本をテーブルの脇に大事に寄せてから微笑んだ。

「実は僕も同じことを考えていたところなんです」

「ええ? そうだったんですか?」ミヤマエさんは指先を顎の先で重ね合わせて感嘆の声を上げた。「これは単なる偶然なんかじゃありませんね。きっと気が合いますよ、私たち」実は前々からそう感じていたという風に口もとに微笑を浮かべながら。

 そのあいだサカシタさんは膝の上に拳を載せ、緊張したような面持ちでずっと成り行きを見守っていた。

 ぼくが快い反応を示すと、二つのテーブル席は見る見るうちに隙間なく連結された。そして三人でグラスを合わせた。あたかも仕切りなおすかのように。窓の外に目をやると、さっきまでの薄闇の上にはいつしか分厚い夜のカーテンが然るべく強引に覆い被さっており、その濃密な暗がりに棲まう静けさを茫然と感じ取っては、ぼくの本当の一日は、どうにもまだ始まったばかりだという予感が拭えなかった。

 でも実はこのあとのことをぼくはあまりよく覚えていない。三人のあいだでささやかな饗宴が催され、場の空気は次第に熱気を帯び、しまいにはテーブル上をグラスやシャンパンが目まぐるしく行き交ったからだ。途中で店も変えたかもしれない。二軒か三軒か――おそらくそれくらい。ぼくがかろうじて記憶しているのは、大量の空になったグラス、生ハムやチーズの盛られた皿、天井に充満する煙草の煙、これまで幾度となく経験したような会話、そして絶え間のない女の笑い声——それだけだった。

 翌朝ぼくは人生で初めて宿酔(ふつかよ)いというものを経験する羽目になる。

 おぼろげな夢を見ていると急に喉元まで異物が込み上げてきて、目が覚めると同時にトイレへと駆け込んだ。ひとしきり便器に顔を突っ伏したあと、便座にへばりつくように顔を上げ、潤んだ目でその狭い空間を茫漠と眺め回した。ぼくは口を開いたまましばらく絶句してしまった。挙句に当然の疑問が声となってやっと洩れた。

「どこや? ここ?」

 めまいを覚えるくらい耐えがたい頭痛と耳鳴りがしていた。まるで頭の中に住み着いた無数の小人たちが、鉱石でも採掘するべく、つるはしを手に洞窟の壁を賑やかに打ちつづけているみたいに。

 洗面台にはおびただしい数の化粧品がところせましと並んでいた。ぼくは顔を洗い、鏡を見た。ひどくくたびれた——昨日よりも一回り老けたような顔が映っていた。

 ぼくの服と鞄はベッドルームにあった。拾い上げてそっとドアの方に戻る。部屋を埋め尽くすほど巨大なベッドに眠る二人を起こさぬように。

「ソウくん、荷物持ってどこ行くん? こんな明け方に」

 ドアノブに手をかけると、カーテンの隙間から差し込む白んだ明かりの中で、サカシタさんが身を起こして不安げに目を細めながらじっとこちらを見つめていた。毛布の下の素肌が露わになっている。右手で髪を直し、左手は毛布の首もとをきつく握っていた。

「ちょっとな。帰って着替えへんと」

「今日土曜日やのに? 私、朝ごはん作るよ?」

「ごめんな」

 ぼくは玄関の前で素早く身支度をして、半狂乱の跡がむっと立ち籠める部屋を後にした。




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