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燦燦  作者: Kesuyu
3/14

三、灯




   三



「ソウちゃん、今から迎えにこられへん?」

「急にどないしたん?」

「それがな、さっきから後つけられてんねん、男の人に」

「もしかして、それってストーカー?」

「わからへん、でも正直めっちゃ怖い」

「今どこにおるん?」

「居酒屋」

「居酒屋?」

「たまたま目の前にお店があったんやもん。それに人も多そうやったから避難してん」

「なるほど——それで、その男は諦めてどっか行かんかったん?」

「それが入り口のすぐ前の席におる」

「入り口塞がれたんや」

「どうしようもないやろ?」

「もう店員に相談したら?」

「それは無理」

「何で?」

「心臓バクバクしてよう話さへん」

「今どこの居酒屋におるん?」

「えっとな」ウミは言った。「中崎町」

 ウミに突然電話で呼び出されることは過去にも何度か経験している。この手の内容も一度や二度ではない。実際、出会った当初から彼女は、外見が美しく、人当たりも良くて、誰からも——まさに年齢や性別を超えて——人気があったし、異性にしつこく付きまとわれることもとりたてて珍しいことではなかった。その度にぼくはウミに同情しないわけにはいかなかった。ときには彼女に頼まれて、この眩い女の子に光を求める虫のごとく群がる男たちを、ぼくが追い払う任を負わされる羽目にもなった。

 時刻は夜の七時半だった。ぼくはオフィスで明日の仕事の準備を入念に行っていたが、それを即座に完結させた。そのあとコートと鞄を小脇に抱えたまま、すれ違う社員に挨拶をしつつ、そそくさと社外へとすり抜けた——ウミのもとへ駆け付けるために。彼女は電話を切るとすぐに、ぼくのスマートフォンに自身の現在地の情報を転送してくれた。路肩のタクシーに飛び込むなり運転手に行き先を告げる。「すみません、急ぎで」ぼくは言った。

 指定された居酒屋は、ヘアサロンとギャラリーのあいだに頑として奇妙に挟まれていた。というのは、近年モダンに変容を遂げつつある街の一角の中で、突如として見える立派な古民家が、提灯をぶら下げてその明かりを暗がりに解き放っていたから。たしかに人目につく。だからウミは――陽が落ちたせいで人通りがあまり多いとはいえない――この場所で、提灯の赤い灯に、すがる気持ちで自ずと吸い寄せられたのだろう。

 入り口の引き戸を引いて居酒屋の中に足を踏み出すと、店内の明かりと賑やかな話し声が大波のように押し寄せてきた。それとほぼ同時に、いらっしゃい、と威勢のいい声が飛び交う。学校の教室くらいはあろうかという店の中は大いに繁盛していた。席は大方埋まっている。赤いタオルを首に巻いた店員が急ぎ足でやってきて、おひとり様ですか? と尋ねてきたので、いや、連れが先に来てるはずで、と答えた。今一度店内をよく観察すると、店の一番奥のテーブル席でこちらに手を振っている女がいた。縁の大きなサングラス、淡いベージュのトレンチコート。一目見てウミだとわかった。というのは、本人は探偵でも演じているつもりなのかもしれないが、服装では隠し切れない彼女の華やかで洗練された雰囲気は、返ってモデルみたいだったから。

「ソウちゃん、急に呼び出してごめんな」テーブルの向かいに座ったぼくに、ウミはサングラスを外してそう言った。

「ええよ、仕事も終わっとったし」

 店員が注文を訊きにきたので、ぼくはメニューも見ずにウーロン茶を頼んだ。

「ええ? ソウちゃん呑まへんの?」ウミは抗議するように少し前のめりになった。「付き合わせて悪いから奢るで」

「ボディガードが要人警護中に酒呑んだらあかんやろ」

「乾杯したいのにい」ウミはまるで雨で遠足が中止になった小学生みたいに口をすぼめた。

 そこで彼女の頬がほんのりと紅潮していることにぼくは気がついた。テーブルの上には刺身とおでんの皿、更に透明の液体の入ったグラスが置いてある。その透明の液体の中には氷がぎっしり詰まっており、表面にはカットされたレモンと無数の細かな気泡が浮かんでいた。

「ウミ、もしかして酔ってるんか?」ぼくは訊いた。

 ウミは一呼吸置いてから答えた。

「だって居酒屋で呑まな怪しまれるやん」

「誰に?」

「誰にやろ?」うーんと小首を傾げたあと、彼女はそう言って笑った。

 相変わらずウミの笑顔には一点の曇りもなかった。その笑顔を目の当たりにしてしまうと、こちら側としてもたいていのことは受け入れて許してしまう。もちろん彼女はそんな作為的な意図を持って要領よく表情を変化させているわけではないのだが。彼女はただ自身の無邪気な一面を——大人になった今でも——後生大事に肌身離さず抱え込んでいるのだ。だからこそウミの存在が放つ悪意なき輝きは、ときには誰かの感情を大きく揺さぶり、場合によってはしっかりと捉えて離さない。だが、それ故に、その道行きには一種の危うさも路地裏へとつづく案内板の足もとのように暗い影を落としている(その輝きが強ければ強いほど濃く)。なぜならば、純粋な心というものは、往々にして、付け込もうとする不純な魂をも引き寄せてしまう定めにあるものなのだから。

「それで——」ぼくは背後にある入り口のほうを横目に見た。「ストーカーってあの黒ジャージ?」

 入り口の前の席では、褪せた黒いジャージを着た男が一人で、グラスを片手にどろんとした目つきでぼくを睨みつけていた。目の下には宿命的に刻まれた深いしわがあり、お世辞にも若そうであるとはいえない。顔色も悪く、健康そうであるともいえない。でもぼくに向けられたその淀んだ眼の奥には、今にも弾けそうな怒りが燃え盛っており、たしかな憎悪がたぎるように込められていた。

 ウミは物怖じする様子もなく黒ジャージに視線を向けた。

「そう、あの人。さすがようわかったな」

「だってあいつ、ずっとこっち見てるやん」

 ウミは凛とした顔つきでぼくのほうに視線を戻した。

「ついてこんといてくださいってはっきり言うたんやけどな」

「嘘やろ?」ぼくは仰天して声がうわずった。「話しかけたん?」

「話しかけた」当然のことのようにあっさりとした口調だった。「ぎろっと睨まれただけやったけど。何も言わへん。だから今でもちょっと心臓バクバクしてる」

 ウミは真っ直ぐで、おまけに正義感が人一倍強かった。自分が正しいと信じたら即行動に移さないと気が済まない。そういう性分なのだ。ぶれることのないウミの資質は、昔から彼女の人気を——特に同性からの支持を——不動のものとした。また人望の厚さを一切鼻にかけないどころか、基本的に誰に対しても親切で気さくに接するスタンスは、図らずもその人気に拍車をかけた。だからスコアの測定器も熱気で壊れるくらいに上昇した評判を嫉む者さえいなかった。あるいは最初は嫉んでいた者もいたかもしれない。でもそういった類もいずれは真正の魅力を前に密かに屈服する羽目となるのだ。内心では、彼女にはとうてい敵わない、と思いながら。ウミは天性の努力家である。更にどんな困難にも体当たりでぶつかっていく胆力も持ち合わせている。お蔭でぼくは、彼女と一緒にいるといつも退屈しなかったし、少し誇らしい気持ちにさえなった。またそれと同時に微妙に暗い気持ちにもさせられた。こんな良い子にはこの先もう二度と出逢えへんかもしれん、と。

 だからといって、ウミの先の発言を——さらに突き詰めるならば、ストーカーまがいの見ず知らずの男に声をかけたという突拍子のなさと不用心さを——ぼくは看過するわけにはいかなかった。

「何してるん?」ぼくはテーブルに両肘をつき、右手で頭を抱えた。「相手は異常者かもしれへんねんで? 話、通じるわけないやん」

「そんなん話してみなわかれへんよ」

「危ないって」

「危なない」ウミはきっぱりと断言した。「何かあったらボディガードが助けにきてくれる。映画のワンシーンみたいに」

 ぼくは右手で頭を抱えたまま俯いて、言葉にならない感情を胸の奥底からゆっくりと吐き出した。そのあと再び正面にじっと目をやると、やや上目づかいに彼女を見上げる恰好となった。そして一応訊いてみた。

「どこにおるん? そのボディガードっていうんは?」

 ウミは待ってましたと言わんばかりにテーブルの上に両手をつき、身を乗り出す。そして顔をこちらにぐいと近く突き合わせると、眼をきらきらと輝かせた。彼女は言った。

「あたしの目の前」

 まさしく満面の笑みがぼくの瞳には映っていた。

 外で待たせておいたタクシーにウミ一人を乗っけて家に帰らせた。

 待たせておいたタクシーというのは、ぼくが中崎町にくる際に乗ったタクシーのことだ。なるべくすぐに戻りますと説得した。恐ろしく無愛想な運転手は、少し礼を弾ませると、途端に目の色を変えて上機嫌に了承した。

 ぼくらが早々に解散することに対して、ウミは最初反対した。せっかく久しぶりに会うたんやし、もうちょっと話そうよ、と。ぼくだってもっと一緒にいたかった。でもストーカー(あるいはストーカーまがい)の件がある。まだ安全とはいえない。ぼくは彼女の提案を却下した。

 ウミを連れて居酒屋を出るとき、すれ違いざまに黒ジャージと目が合った。その瞬間をぼくは今でも強烈に記憶している。男はトイレにも立たず、店の入り口の前の席にずっと壁を背にして座り、いつの間にかテーブルに肘をついて口もとを両手で覆い隠していた。男の背中側の壁は、芸能人だか何だかのサインが一面に貼られており、縦横無尽に文字が舞い踊っているみたいだった。その横にある入り口の引き戸の硝子(がらす)は、外の照明を滲ませるように映して、やけに赤く染まっていた。一見男は微動だにしなかった。ただ眼だけは終始ぼくの顔をしっかりと追っている。いつとはなしにすっかり鎮火されたその眼の奥を見て、ぼくは一瞬戦慄し、躊躇(ちゅうちょ)した。深淵とも呼ぶべきそこはかとない「無」がその瞳の奥には宿り、微かに存在した光さえも不気味に吸い尽くしていたから。どす黒い眼の横をかわす際、その持ち主が覆った口もとから——もはや一方的な意趣返しのように——ぶつぶつと何事かが発せられていることに気がついた。最高潮に達していた店内の喧騒の中でも、まるでイヤホンジャックでもされたかのように無機質な声が耳に届いてきたのだ。その不可解で不穏な響きはまぎれもなく呪詛の文言とでも言えよう。

「ここはおれが見張っとく。早く行き」

「一緒にタクシー乗ったほうが安全やん?」

「家、逆方向やろ」

「うち寄っていきいや? お茶くらい出すで?」

「あかん。明日、早出やねん。もう帰る」

 ウミは急にしおらしく口をつぐみ、それからこくりと首を縦に振った。いまだに幼子ばりに表情がころころと変化するのだ。タクシーが出発する際、彼女は窓を開けて小さく手を振った。「今日はありがとう。また改めてお礼させてな」

 サトリに会ったこと、話しそびれてもうたな。ぼくはそう思いながら、ウミを乗せたタクシーが次の角を曲がるまで、しばらく街路上の闇をぼんやりと照らす赤提灯の前で立ち尽くしていた。そのあいだ幸いにも、尋常ならざる気配が引き戸を開けることはなかった。





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