二、深更のタクシー
二
明くる日は散々だった。始業三十分前に出社して喫煙ルームで同僚と談笑しつつ軽く打ち合わせをしていると、堺の支店のネットワークのシステムにトラブルが発生したと突然一報が入り、ぼくは本部長の指示で一月ほど前に中途採用で入社した無愛想な研修期間中の新入社員を社用車の助手席に乗せて現場に急行したのだが、この新人が見事にへまをしでかしてくれた。出向先のルーターが不具合を起こしていたのだが、彼が勝手にケーブルをむやみやたらと引っこ抜いて破損させたのだ。お蔭でこっちはルーターの修復だけでは収まらず、ケーブルの差込口の修繕のために業者に工事を依頼する羽目となり、まさに天手古舞だった。何とか作業を完全に終えるころには、外の太陽は我関せずと足早に傾いて、向かいの豪奢なビルディングの陰に没していた。
宵闇の中、支店から本社に向けて戻る途中の車中で、後輩(火に油を注ぐだけで、他は何もしなかった)は助手席で退屈そうに窓の外をじっと見ていた。どうやらふてくされた様子である。ふてくされたいんはこっちや、とハンドルを握りながらぼくは思った。阪神高速道路を降りて中央大通りに出ると、それまでずっと顔を背けたまま一言も発さなかった後輩が突然「あ」と声を洩らした。そしてやっとぼくのほうに顔を向けた。
「先輩、昼飯抜きやなんてどんだけブラックなんすか」不機嫌極まりないといった風に後輩は言った。「めっちゃ腹へりましたわ。あっこの焼肉屋よりましょおよ」
悪びれないどころかすこぶる利己的な態度に唖然とさせられ、ぼくは冗談を言っているのかと思った。でも彼の表情は真剣そのものだった。
「昼にクラッカーわけてやったろ?」ぼくは前方を見据えながら溜息まじりに言った。
「あんな味のせえへんもん数枚、食うたうちに入りませんよ」
「なあ、マスダ」
「マスタっす」マスタは即座に指摘した。そしてぼくの顔を指さした。「人の名前間違えるなんて失礼っすよ、せんぱい」
「そうか、悪かったわ、マスタ」ぼくは辟易とする心情にぐっと耐えた。「でもな、もし先輩として注意させてもらえるんやったら——無理に愛想ようせえとは言わんけど、せめてその慇懃無礼な態度はどうにかならんか?」
「いんぎん——?」
「敬語やったら何言うても許されるわけちゃう」
「何すか?」マスタは傲然と眉をしかめた。「説教っすか?」
「マスタ、うちの製薬会社が何で国内でも有数のシェアを誇る大手企業にまで成長したかわかるか?」
おそらくこれまで幾度となく名前を間違えられてきたであろう坊ちゃんは口をつぐんでいた。それどころか運転するぼくの左頬を烈火のごとく睨みつけている。そういえば、この後輩は関西ではけっこう名の通った大手ゼネコンの重役の三男坊で、彼の父親はうちの会社の偉いさんと懇意にしているらしく、実はコネ入社ではないかと社内ではまことしやかに囁かれていたのをぼくは思い出した。でもかまわずつづけた。
「それはな、うちの会社が創業時から一貫して信用第一に仕事をしてきたからや。もちろん研究開発も大事やけど、いい薬つくるだけやったらすぐにお客さんに選んでもらえるかどうかわからへん。新薬だって売れて二三年もしたらすぐにまがいもんがぎょうさん市場に出回るしな。肝心なんはうちの製品と人材とブランドを人びとに信用して応援してもらうこと。そういった『ファン』が日本中にたくさんおる限り、うちの会社も看板が守られ、それなりに収益も得て、開発に費用だってまわせて、社員にボーナスまできっちり払える。ただそこには否応なく相対的に責任も発生するけどな。もちろん色んな仕事のやり方があるんは進んで認める。でもおれはこういった会社の方針に今のところ大方賛同はしてる。それでな、大事なんは別にお客さんに限ったことちゃうで。大事なんは仕事に関わる人すべてや。たとえ一度しか顔を合わさん人やったとしてもな。そういった姿勢の普段からの積み重ねがいつかは様々な形をとって財産となっていく。一生もんのな。だからほんまに会社に仕事しにきてるんやったら、業務上関わる相手くらいには多少なりとも『この人とまた仕事がしたい』と思ってもらえるように、最低限のマナーは身につけろ」
話しているうちに少々熱が入った。ちょっと言い過ぎたかもしれんとぼくが思っていると、マスタはすぐに反応を示してくれた。
「何すかそれ? 自分がすげー下手に出てるみたいやないっすか。ださいっすよ。慈善事業やないねんから。大体おれ『お客様は神様』みたいなん嫌いなんすよね。何つーか、そういう考え方ってもう古い、時代遅れっすよ」大きなお世話とでも言わんばかりだった。
「いずれ命取りになんで」ぼくは横目に言った。
「へえへえ」彼はまた退屈そうに身をのけ反らせた。「そんな真面目くさったこと言うてたら一生『社畜』のまんまっすよ、せんぱい」
本社に到着するなりマスタはさっさと帰宅した。お詫びも、礼のひとことも、挨拶すらなく。
時刻は夜の六時半をまわっていた。残っていた社員も仕事を終えると身支度をして次から次へと帰っていく。オフィスで上司に件の顛末を端的に報告したあと、残業中の同僚にねぎらわれた。
「聞いたで、今日はえらい大変やったみたいやな」
「社畜やからな」
「は?」
「いや、何でもない」
太陽はすっかり沈んで窓の外は明かりが灯り、白んだ月が鋭い刃のように夜空の一部分を小さく切り取っていた。向かいのビルディングの窓には楽しそうに会話を交わす男女の姿が見えた。ぼくは給湯室でカップラーメンに湯を注ぐとそれを手にオフィスに戻って自分のデスク上のパソコンの画面を確認した。メールボックスにメールが四十二件溜まっている。終電に間に合えばええけど。カップラーメンを準備したそばから胃がもたれそうになった。ぼくは腹を括って椅子に座り、軽食をすすりながら、自分宛に届いたメールを夜更けまでひたすらに処理していった。
会社を出るときには、正面玄関はすでに閉まっていたので、裏口に回った。裏口では紺色の制服を着た、顔の四角い警備員の男性がびしっと敬礼をしてぼくを見送ってくれた。
「夜分までお疲れ様です」
「お互いに、お疲れ様です」
ぼくは遅くまで残業をすることが多いので顔を覚えられているのだろう。ひょっとしたら名前まで覚えられているかもしれない。
外は深い闇が下り、辺りは静まり返っていた。空気が冷たく、まるで初冬みたいな寒さでぼくは着ていたコートの襟を立てた。風に飛ばされたのか、傍らに落ちていたごみ袋を一羽の烏が闇にまぎれて懸命に啄んでいる。少しばかり本社のビルディングの壁に沿って歩き、大通りまで抜けると、途端に強い風が吹きつけて、沿道の梧桐の葉は抗議するかのように激しくざわめいていた。でも一葉、風に舞ってはらりとぼくの足もとで力尽きた。見上げると依然として空には鋭利な月が浮かんでいて、ぼくはコートの襟を掴んだまま寂寥の思いでそれを眺めたら、うまく言い表せないようなごつごつとした感情をぐっと呑み込んだ。そのあと深更のタクシーを拾うべく何かの到来を待ち受けていた。
少しすると一台のタクシーが通りがかった。ぼくは手を上げてそれを停車させた。
「どちらまで?」後部座席に乗り込んだぼくに、運転手が尋ねた。
ぼくは自宅の住所を告げた。
運転手はわずかに頷き、車はゆっくりと走り出した。
深夜だというのに道路上はけっこう混み合っていた。車は幾度となく減速や停止を余儀なくされ、そのたびに前方にはびこるテールランプの赤い光が、ぼくの瞳孔を問答無用に刺激した。ぼくはたまらず目を閉じた。そしてシートに深く身を預けた。長い一日や、いや、もう次の日なんか。どうやらおれはくたびれてる。ぼくは思考を切った。疲れすぎていると、ろくな考えが及ばない。
車は振動もなく、終始緩やかに進んでいる。海底の潜水艦みたいに。車内にはずっとエリック・サティの「ジムノペディ第一番」がほどよい音量でかかっていた。それはやわらかく、深みがあり、ときに微妙に不吉な旋律を奏でている。ぼくはその優しくも秘密めいた音色に、ただ漠然と耳を澄ませていた。しばらくすると脳裏に引っかかるものがある。何かがおかしい。ぼくは目を開けて車内を見回した。車内は整然としていて、無駄な装飾は一切ない。シートは座り心地がよく、窓も艶やかである。今気がついたのだが、ここは個人タクシーのようだ。でも違和感の原因は結局突き止められなかった。ピアノは我関せずといった具合に、愁いを帯びたメロディーを簡素に演奏しつづけていた。
運転手は白髪の老人だが、姿勢がしっかりとしていて、落ち着き払っているのが後部座席からでも見て取れる。運転に荒っぽいところはなく、むしろ用心深げで、そつがない。彼はバックミラー越しにちらりとぼくを見やった。
「どうされました?」
「ああ、いや、今どの辺かなと思って」ぼくはとっさに適当な返事をした。
「心配しなくてももうすぐ到着します。混み合うところはすでに通過しました」
「ならよかった」ぼくは多少の安堵を覚えつつも、会話のついでに尋ねてみた。「ジムノペディ、お好きなんですか?」
「はい」少し間を置いて、運転手は頷いた。「特に第一番が」
「不思議と落ち着く曲ですね」
「もっともです」運転手はまた頷いた。「なのでこの時間帯はずっとこの曲をかけています」
そこでぼくははっとした。タクシーに乗って十五分も経過するのに、曲が一度も切り替わっていないことに。エンドレスで、「ジムノペディ第一番」が車中を包み込んでいるのだ。その上演奏に切れ目がない。どういうことだろうか?
運転手はまたバックミラーをちらりと見た。表情からぼくの動揺を察したようだ。
「コンピューターのソフトを使って、曲のつなぎ目をうまく編集しました」彼は言った。「曲が途切れると、気が散っていけません。それに物哀しい気持ちにもなります」
「なるほど」
窓の外は、いつしか寝静まった街並みがスムーズに流れている。立ち並んだ街灯や建物の窓に映されたまばらな明かりが、次から次へと遠ざかっていく。まるで我々の背後で煌々と輝くビルディング街の放つ光に惹き込まれるみたいに。
「どうしてこの曲なんですか?」ぼくは思い切って訊いてみた。
運転手は前を向いたまましばらく黙っていた。そして厳重に守られてきた秘密を今から公開するといった風に口を開いた。
「エリック・サティの作品と言えば、今かかっている『ジムノペディ第一番』がとりわけ広く人びとに親しまれております。ですが、あまり認知されてはおりませんが、実は『ジムノペディ』は第三番まで存在し、構成されているのです。そしてそれぞれに実に的確な指示がなされている。その中でも自分が第一番ばかりを特別に傾聴しているのは、まさにこの第一番の指示が己の魂にぴったりと呼応してくれるからなのです。いつしか我が生涯に重ね合わせ、テーマとして常日頃より心に据えるようになりました。シンプルながら、人の世の道行きに対する在り方をひたむきに追求した、とても優れた指示と言えましょう」
「その『指示』というのはいったいどういったものなんですか?」ぼくは感心して尋ねた。
「ゆっくりと苦しみをもって」一呼吸置いてから、彼は厳粛に言った。「どうぞ、ゆっくりと苦しみをもって、あなたも生きてください」
それを聞いて、ぼくは言葉を失った。より正確にいえば、言葉を返そうと試みてはみたものの、結局は語られるべき言葉は胸につかえ、何かを言おうとして開いた口を塞ぐのも忘れて、ただ静かに呼吸していた。ゆっくりと苦しみをもって。