一、サトリという男
一
そのアルバムを開くといくつもの写真が目に飛び込んでくる。写真の中に収まるぼくたちは、今でも永遠に大学生のままだ。しかし時の流れは儚くも無常であり、捉え方次第によっては極めて無情である。あまりにも惨いと感ずることだってあることだろう。
ぼくらは色んなものを——その中にはかつてかけがえのなかったものだってある——遥か彼方に置き去りにしていってしまった。過去は過去のままに、陳腐な(あえて陳腐と形容させていただく)SF映画みたいに時間を遡ったりして、改ざんすることも取り戻すことも現段階では叶わない(遠い未来はさておいて)。今この瞳に映っている写真でさえ、いくらかは擦り切れて、かなり色褪せてしまった。それはもうほとんど誰も見向きもしない古ぼけた暗喩だ。はたまたとうに錆びついてしまった暗示だ。折に触れて懐かしむくらいのことしか、今となってはできそうもない。
一枚の写真に目を留める。サークル活動の合間に大学の敷地内で三人の男女が撮影されたものだ。左端から気障っぽい笑みを見せる青年、晴れ晴れしい笑顔でピースサインをする娘、そして無表情にぼんやりとカメラを見つめている自分。三人ともまだどこか顔つきが硬くておぼつかない。そしてあどけない。今思い返してみても当時のぼくら三人の結びつきようは、軌道上を運行する惑星がぴったりと重なりあう現象のように奇跡的な、まさに生命のほとばしりだった。心地よく、華麗で、愉快で、苛烈で、物哀しい。何だかまるで束の間の夢物語のようだった。
実際ぼくは夢でも見ていたのかもしれない。
実のところ当時の生活は、何とも初々しいまぼろしのような日々で、今となっては現実とは程遠いような、どうにも然るべく腑に落ちないような感覚が、今でも余韻としてしっかりと脳裏にこびりついているのだから。
いずれにせよ、かつてそこには魂の在り様が確実に存在していた。身を焦がすほどの熱を発し、外壁を変容させるくらいの純粋な想いに充ち溢れていた。その揺らぎを大切に胸の内の台座に据えおいたまま、ぼくはアルバムを閉じて本棚に仕舞う。ベッドに入ると、明かりを消し、瞼を閉じる。明日も、明後日も、いつか途切れるその瞬間さえも、煌々と光り輝く「何か」を守護するために——
さあ恐れず安らかな夢を見よう。
目を覚ますと朝になっていた。搾りたてのグレープフルーツジュースのような日差しがカーテンの隙間から仄かに滲み、窓の外では雀が愛を囁き合うかのようにさえずり合っていた。ぼくはのっそりとベッドから這い出て、わずか一メートルほど先のガラス戸の前に辿り着くと、儀礼的にカーテンをさっと開いた。ベランダのサンダルを履いたら太陽燦燦この眼に映し、瑞々しい空気を吸いながら両手を上げてうんと背伸びをする。そうして——歯磨きやら朝食やら何やかや——毎朝恒例のセレモニーを半ば機械的にやっつけたら、午前のあいだは温かいコーヒーをすすりつつ、使い道のない文章をノートパソコンの画面に集中して打ち込んで過ごした(とはいっても、その半分の時間は椅子の背にもたれてうんうんと唸りながら煙草を吸っていただけなのだが)。
午後は知人と会う予定だった。ぼくはマウンテンパーカーに身を通して、席に座ることなく地下鉄を乗り継ぎ、若干そわそわしつつも神妙な面持ちで繁華街に向かった。
目的の心斎橋の駅の改札を抜けると、急流のようなすさまじい往来の隅で、見知った顔がウールのバルカラーコートのポケットに両手を突っ込んで、郵便ポストみたいに真っ直ぐ立っていた。彼はぼくを視界の端に収めると、こっちを向いて右手をポケットから出し、その手を挨拶ていどに自らの胸の前に上げた。
「よう、元気だったか?」
「まあ何とか生き延びてるわ」
「こうして会うのも三年ぶりか」
「そうやな」
懐かしい感動的な再会とは程遠く、むしろ淡々とした——まるでふらっと道端で出くわしたかのような——会話のやりとりを手短に済ませただけだったが、それでもぼくは彼に会えたことを喜ばしく思ったし、以前と変わらず元気そうで何よりやとも思った。
近くで若い女をつれた、いきがった男同士が肩をぶつけあい、ひと悶着になった。群衆がうねるように乱れて行き交ったり立ち止まったりする。やがては駅員をも巻き込む乱痴気騒ぎに発展した。
「とりあえず場所を移そう」
ぼくらは百貨店の上層に位置する鰻屋の席に向かい合って座り、うな重とビールを注文した。窓側の席に通されたので十一月の日曜日の街並みを丁度上から見下ろすことができた。窓の外の空気は透き通るようにしてやわらかな陽光をふんだんに纏い、大通りに沿って堂々と立ち並ぶ銀杏の樹は冬の来訪に備えて葉を黄や茶色に染めている。
「しかしどちらかというと大阪のほうが東京よりまだ比較的暖かいな」彼の名前はサトリといった。茨城出身で現在は東京に住んでいる。バルカラーコートはきれいに折り曲げて背もたれにかけられ、コートの下からは滑らかなカシミヤのセーターが姿を現した。
「そんな微妙な違い、わかるん?」
「わかるさ、何しろここのところ出張ばかりだからな」サトリは言った。「たまに自分が火消になったような気分になる」さっきから表情ひとつ変えない。
「火消?」
「どこかで官僚的火の手が上がるたびに駆けつけてそれを沈めるんだよ」サトリは官僚だった。でもそれを鼻にかける様子はない。ただ彼が仕事の話をするのは極めて珍しかった。察するに立場上の守秘義務が多い上に、職業的に自分は世間一般の人たちとは違うと自負しているのだろう。
「へえ」ぼくは曖昧に相槌を打った。
店はそれなりに混雑していた。主に女性の団体が席を埋め、そのもれなく全員が彩り豊かに秋の装いをしていた。でもぼくにはなぜだか店内を締める客一人ひとりの区別があまりつかなかった。皆一様と言ってもいい。要するに、客たちはこの場所に応じて「前にならえ」をしているみたいに——偏見とは承知しているものの——この眼には映るのだ。隣のテーブル席では中年の女性客たちが賑やかに食事をとりながら、熱心なセールスマンのごとく夫や子供の優秀さを荒唐無稽に吹聴したり、対するは世慣れた信徒よろしくひとまず急ぎあつらえた大層なお愛想を取り澄まして盛大に振りまいたりしていた。
「世間なんぞくそくらえだ」サトリは冷淡に言った。
「でも鰻はうまい」
「そうだな、鰻はうまい、ビールもうまい。もし世間が存在しなければこれらだって存在しないわけだ」
「こっちにはいつまで滞在するんや?」ぼくは話題を変えた。
「ざっと三週間だな」
「じゃあそのあいだ、たくさん会おう」
「もちろんだ」サトリは頷いた。
「そういや、話したいことって?」
「ああ」サトリは首を動かさずに視線だけで周囲を観察した。「ここではちょっとな」
ぼくらは食事を終えると昼から営業している近くのバーに移動した。カウンターの中央にはいかめしい顔をした初老の男性が一人座っていて、ぼくらが窓側の席に並んで座り酒を注文してから煙草に火をつけると、初老の男性はいかにもわざとらしく大袈裟に咳を八度してからすっくと立ち上がって店を去った。ぼくは引き続きビールを、サトリはハイボールを呑んでいた。大袈裟に咳をした男の見送りから戻った店の主人——通称は「サクちゃん」という——とぼくは軽く世間話をし、ぼくは東京から来訪した友人を紹介した。その本人も礼儀正しく挨拶をし、サクちゃんがカウンターを離れてトイレを掃除しに行ってから、話は唐突に本題に入った。
「ウミは元気か?」その名前がサトリの口から聞かれたのは実に五年ぶりだった。学生時代、ぼくとサトリとウミの三人は、関西の同じキャンパスに通い、おまけに同じサークルに所属していた。ウミだけがひとつ学年が下だったが、当時我々は毎日兄妹のように親しくしていた。
「ウミ?」ぼくは思わず聞き返した。サトリは真剣な眼差しでこちらの様子を窺っている。どうやら話題を提供するために気まぐれで問いかけているわけではないらしい。ぼくは落ち着いて言った。「特に変わりないで」
「更に美人になったか?」
「ああ、世界中の男がすれ違ったら全員ひざまずいて求婚するほどにな」
「それじゃあ彼女はおいそれと表を歩けないだろう」サトリは苦笑し、ふっと息を漏らした。
「だから誰か——適当な友人とかといつも行動を共にするようにしてるみたいやで」
「なるほど」サトリは腕を組んでこくりと頷くと、次に拳を顎の前まで持ち上げ、人差し指の付け根を唇にあてたら、難解な数式を目の当たりにした学者のごとく黙りこくってしまった。
ぼくは空になったビールの瓶(ぼくは瓶ビールをじかに飲むのがとりわけ好きだった)を、サクちゃんに見えるようにして合図を送り、おかわりを持ってきてもらった。
「何かかけてほしい曲、あるか?」新しいビール瓶をコースターに載せる際、サクちゃんがぼくに尋ねた。
「そうですね」ぼくは束の間首を少し後ろに倒した。太陽はビール一杯分西に傾き、窓からは清々しい日差しを感じられる。長閑な午後だった。そして前を向いた。「ボサ・ノヴァ、ゲッツ/ジルベルト」
ほどなくして店のBGMは過ぎ去りし哀愁を優しく撫でるそよ風のような音色に切り替わった。ぼくは満足して時折目を閉じた。そのやわらかな響きに耳を澄ませ、身を委ねる。やがては麗らかな忘却の彼方で白昼夢を見ているような気分にひたっていた。
「ソウゴ」サトリが言った。
不意に日常に引き戻されて、ぼくは背筋がびくっとした。
「ウミに会いたいんだ。協力してくれないか? お前は今でも彼女と連絡を取っているんだろう?」
ぼくはその言葉にびっくりした。
「ウミとは金輪際会わへんって、五年前に言わんかったか?」
「状況が変わったんだよ」
「どんな風に?」
サトリはハイボールのグラスの縁を、五本の指の置き場と定め、その手元をじっと見つめていた。ハイボールは氷がウィスキーに半分溶け出して淡いグラデーションを描いている。
「妻と別居している。いずれ離縁することになるだろう」
「何やて?」自然と語気が強くなった。「だってあんなに奥さんに惚れ込んでたやん」
「一種の気の迷いだったんだよ」サトリは無表情に言った。彼の台詞に感情が込められているようなふしは微塵も感じ取れなかった。
「何があったん?」
「ただの空中分解さ。飛行に失敗しただけだ」サトリは涼しい顔で——まるでどこか遠くで起きた事故だったかのように——眼前で拳を上に向けて、ぱっと開いた。
「たしか子供は?」
「いない」きっぱりと断定した。
理解が追い付かずぼくは茫然と口を半開きにしたまま、サトリに視線を投げかけていた。彼が何をしたいのか、また、何をしようとしているのかが、まったくと言っていいほど読めなかった。サトリには学生のころから人並外れて超然としたところがある。大学四回生の頃に彼は実に一ダースほどの女とほとんど同時進行的に付き合い、卒業すると共にもれなく全員と一切の波風を立たせずに関係を終わらせた。普通の人間ならそんな真似は到底思いつかないし、たとえ思いついたとしても実行には移さない。あるいは移せない。そういった彼の特性(特殊能力と言ってもいい)は、ときにはぼくを愉しませ、ときにはぼくを困惑させる羽目ともなった。雲行きが怪しくなってきよったな。ぼくは正面を向いて、覚悟を決めたようにビールをひと口喉元へと送り込み、またサトリのほうに向き直った。
「それとウミと、何の関係があるんや?」
「そこなんだよな」サトリは独り言のようにそう言って、微妙に目を細めた。「何から説明すればいいのか——」
ぼくはビール瓶を握りしめたまま、相手の話の続きをじっと待った。
バーの重い扉が圧し飛ばされるように開いた。入り口からは恰幅のいい、縞のスーツを着た中年男性が入ってきた。髪は短く、肌はこんがりと焼けている。それほど若くはなさそうな、真っピンクのラメ入りのミニスカートをはいた細長い女を伴っている。彼らは——ついさっき初老の男性が座っていた——カウンターの中央の席にどかっと腰を落として、周囲を占拠した。
「おい、サクー」縞のスーツがどなった。「お前全然電話でえへんやないけ」
「営業中の連絡はラインにしてくれって、いつも言うてるやないですか」トイレ掃除から戻っていたサクちゃんはしれっと嘯いた。
「んなもん知るかあ」その声はスピーカーから流れる音楽を、問答無用にかき消した。
「この人もう酔っぱらってんねん」すかさずラメ入りのミニスカートが嬉々として言った。「まだお昼すぎやのに日本酒飲みすぎてもうて——仕方のない人やわあ」そしてさりげなさそうに付け加えた。「わたしらさっきまでカウンターのお寿司食べてたんよお。ミシュラン一つ星のお」
とりあえず乾杯じゃ、サク、じゃんじゃん飲めと店内を怒号が飛ぶ。ほないただきますと主人は要求にさらりと応じる。バーはさっきまでのほのぼのとしたムードを、壁一面に作りつけられた棚(酒のボトルがショーケースのように几帳面に顔を向けて並べられている)の奥に跡形もなく瞬時に仕舞い込んでしまった。今や安息地には粗野な笑い声が轟いている。
サトリは優雅に左手を胸の前にかざしてシルバーの腕時計を眺めた。
「悪い、夜に接待があるんだ」サトリは横柄な二人組なんて初めから存在しないみたいに平然と言った。「一旦ホテルに帰ってシャワーを浴びたい。少しベッドにも横になるだろう」
「酔ってるんか?」ぼくは少し心配して訊いた。
「なあに、どうせ四時間後にはまた吞まされるんだ。それにどんなに酩酊していようが、正直なところ抜かりなくこなす自信はある」サトリはそう言って煌びやかに微笑んだ。もしぼくが年若い娘だったならば思わず卒倒するくらい素敵な笑みだった。
バーの勘定を済ますと、我々は無言のままに並んで歩き、御堂筋に出た。早速サトリは沿道に停車しているタクシーを吟味し、やがては艶のある光輪車で手を打った。後方の窓が開いてサトリが手を上げる。「また連絡する」。ぼくは頷いて手を振った。そして彼を乗せた黒いトヨタのプリウスの背が、このあまねく希求で濁り切った雑多な都会のサーキットに吸い込まれていく様を、しばらくぼくは上着のポケットに両手を突っ込んだまま、うすぼんやりと目撃していた。