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金さえあれば幸せになれる!

作者: 渡辺哲

第一章 幼なじみとのデート


 十二月二十四日の夕方だった。

品川区に建設中のビルの五十七階を北風が吹き抜けて行った。

 佐倉健一は、肩に担いでいたセメント袋を床に降ろした。健一は腕時計を見て、つぶやいた。

「よし。もう五時だ。・・・。今日はこれであがらせてもらうぞ」

 そして、ヘルメットを脱いで、腰のベルトから汚いタオルを取り、顔と首の汗をぬぐった。自慢の花髭が汗でベトベトになっていた。薄緑色の作業服も汗でびしょ濡れだった。健一は思った、「デートの前に風呂に入らないといけないな」と・・・。

 それから、健一は労働者用エレベーターで一階まで降り、現場監督の笹ヶ迫のところに行った。

 健一はヘルメットを脱いだ。

「笹ヶ迫さん。すみませんが、今日はもうあがらせてもらいます」

 笹ヶ迫が振り返って、健一を見た。笹ヶ迫は還暦を迎えたベテラン現場監督だ。笹ヶ迫は白い歯を見せながら、健一に言った。

「おう、佐倉。お疲れ」

「それじゃあ、また、明日」

 健一は頭を下げた。

 笹ヶ迫が右手を上げた。

「佐倉。実は明日の朝から俺はいないんだ。新しい現場監督が来る。歳はお前と同じらしい」

「そうですか。三十三歳なのに現場監督ですか。すごいですね」

「うん。お偉いさんみたいだから、気をつけろよ」

「わかりました。笹ヶ迫さん、長い間、お世話になりました。ありがとうございました」

「こちらこそ、ありががとう。じゃあ、体に気をつけて、頑張れよ」

「ありがとうございました」

 健一は頭を深く下げた。

 それから、健一は自転車に乗って、川谷に向かった。日雇い労働者たちが路上で将棋をしている通りを抜け、いつもの簡易宿泊所に入っていった。

 健一は風呂に入ってから、着古したジーパンをはいて、紺色のトレーナーの上にヨレヨレのジャンバーを羽織った。そして、薄汚れた靴下をはいた。右足の親指の部分に穴がポコッと開いていた。

 健一は鏡を見た。そして、髪の毛を手でなでつけた。相変わらず、目が細くて、つり上がっている。高校時代にボクシングを始めてからずっと体は痩せて引き締まったままだ。

それから、健一はズボンのポケットから財布を取り出して、中を確認した。千円札が四枚。

「これだけあれば、二人分の食事代くらい、大丈夫だろう」

 健一はつぶやいた。

それから、机の引き出しからプレゼントの入った包みを取り出し、上着のポケットに入れた。

 そして、宿泊所を出て、近所のいろほ商店街の中の喫茶店「サンピエール」に入っていった。その店に入ると、汗の臭いが鼻にツンと来た。イスもテーブルもボロボロだった。

 健一が見回すと、片隅のテーブルに古賀恵子が座って、右手を振っていた。健一は笑顔になる。そして、右手を振りながら、近寄って行った。

「待たせたね。ごめんね」

「ううん。今、着いたところ」

 健一は椅子に座ると、恵子の顔をみつめた。

 恵子は健一の幼なじみだ。二人は同じ小学校と中学校を出ていた。

 健一は恵子を見た。化粧を全くしていないが、目がクリッと大きく、いつもニコニコと笑っている。背は低くて、太っている。川谷にある病院で清掃員をしていて、近所のボロアパートに住んでいる。しかし、健一にとってそんなことはどうでも良かった。健一は恵子の汚れていない、心の美しさが好きだった。

 恵子は言った。

「今日も仕事、忙しかった?」

「うん。まあな」

「そう。風邪、ひかないようにね。段々、寒くなって来たから」

 健一はうなずいてから、メニューをつかんで、恵子に渡した。

「恵子。何、食べる?」

 恵子は目を大きく開いた。

「いいの? 食事なんかして? お金あるの?」

「大丈夫だよ。今日はクリスマスイブだし・・・」

「そう?」

 恵子はそう言うと、メニューの中からナポリタンを見つけて、指さした。

「健一。じゃあ、これにするわ」

「いいのか? もっと高い奴でもいいんだぞ」

「いいの。私、ナポリタンが好きなの」

 健一はうなずき、店員にナポリタン二つを注文した。

 二人はお互いの目を見つめあいながら、食事を楽しんだ。

 食事のあと、健一はポケットからプレゼントを出し、恵子の胸の前に差し出した。

「恵子。お金がなくて、まがい物だけど・・・、クリスマスプレゼントだ」

「まあ。うれしい! ありがとう!」

 恵子は手を叩いて喜んだ。そして、それを受け取った。

 健一はニコッと笑った。

「開けてみて」

 恵子は包みを開き、蓋を開けた。それは、指輪だった。

「わーっ。指輪だ。うれしい・・・。私、ほしかったんよ」

 小さな声で恵子がつぶやいた。消え入りそうな、そのつぶやきに健一は目を閉じ、体が震え、熱くなった。

 健一は目を開いた。

「恵子。今は金がないから、まがい物の指輪しかあげられない。でも、いつか金を貯めて、本物の指輪をプレゼントしたい。その時が来るまで、あと少し、待っていてほしい」

 恵子は黙ったまま、コクンとうなずいた。

 健一は右手で指輪を手に取り、左手で恵子の左手をそっと包み、その薬指に指輪を通した。

 恵子は左手を自分の目の前に持ち上げ、クルクルと手首を回して指を見た。

「うれしい・・・」

 恵子がそっとつぶやいた。

 二人は店を出た。

 健一は恵子の肩を抱き寄せた。

「今晩、お前のアパートに泊っていいかい?」

 恵子が小さくうなずいた。

 二人は恵子の住んでいるボロアパートに入って行った。


第二章 同級生との再会


 翌日はクリスマスだった。

 雀の鳴き声が聞こえてきた。薄っぺらの布団の中で健一は目を覚ました。そして、ゆっくりと左横を見た。恵子が「ス~、ス~」と寝息をしながら、眠っていた。健一は恵子の白い肩を抱きしめながら、思った、「ずっとこのままでいられたら・・・」と。

健一は腕時計を見た。六時だった。

「もう起きなくては。仕事に遅れてしまう」

健一はそっと布団から出た。しかし、目を覚ました恵子が健一の腕をつかんだ。

「行かないで」

 健一は思った、「俺だって行きたくない」と。

 しかし、健一は恵子の額に顔を近づけ、やさしくキスをした。

「ごめん。仕事にいかなくちゃいけないんだ」

 健一は布団から出て、服を着た。そして、恵子にもう一度キスをした。

「じゃあ、また」

「うん」

 恵子が微笑んで、右手を振った。

 健一は部屋のドアを閉め、簡易宿泊所へ向かった。健一は部屋に入り、作業服に着替え、自転車に乗って、現場に向かった。

 朝九時。建設中の高層ビルの一階広場に日雇い労働者たちがすべて集まった。

 紺色のピンストライプのスーツを来た男が腰を使ってノシノシとゆっくりと歩いて、全員の前に立った。そして、コホンと咳をして、しゃべり始めた。

「私は、新しく現場監督になった林岳美です。よろしくおねがいします」

 そう言って、頭をちょこんと下げた。

 健一はその男の顔を見た。そして、思った、「たぶん、幼なじみの岳美だ。久しぶりだ」と。健一は岳美の顔を見て、ニコッと微笑んだ。しかし、岳美はこちらに気付きもしなかった。

 朝会が終わって、健一は岳美に近寄って行った。岳美に近づくと、体からコロンの香りがプンと漂ってきた。髪の毛は整髪料できちんと撫でつけられていた。左腕にはロレックスの腕時計がキラリと輝いていた。

健一は岳美に向かって頭をペコリと下げた。

「おはようございます。私、作業員の佐倉健一ですが・・・」

 岳美が健一を睨みつけた。

「何の用事だ? 俺は忙しいんだ。何か要件があるのなら、各作業班の長に言ってくれ」

 健一は体がビクッと震えた。しかし、唾をゴクンと飲み込んでから、言った。

「いえ。仕事のことではなく、個人的なことで・・・」

「何だ?」

「私は佐倉健一です。福岡県の西九州市の出身です。もしかしたら監督さんは同級生だった林君じゃないかと思いまして・・・」

 岳美が目を大きく開いて、右手で健一の肩をバンバンと叩いた。

「えーっ。健一か?」

「そうです。英猫丸小学校出身の佐倉です」

「健一。なつかしいなあ。ひさしぶりだなあ。元気か?」

 健一は心の中で思った、「俺のこと、憶えてくれていたんだ」と。

 健一はニコッと笑った。

「おう。元気だったよ」

「そうか、そうか。それじゃあ、今日、仕事があがったら、食事に行こう。仕事の後、俺のところに来てくれよ。待ってるから」

 そう言って、岳美はヒラリと振り返って、歩き去った。

 健一は思った、「現場監督は忙しそうだな」と。

 それから、健一は五十七階まで上がり、仕事に取りかかった。

 そして、健一はいつものように重い荷物を運び、汗水たらして働き、一日の仕事を終えた。そして、一階に行き、岳美のいる事務所のドアを叩いた。

 健一は岳美を見つけた。健一は岳美の背中に向かって声をかけた。

「林君!」

 岳美は振り返ると、大声で言った。

「おう! 健一。本当に来たのかい? いや、まあいいや。それじゃあ、ちょっと食事に行こう」

 岳美は健一の肩をバンと叩いた。

「それじゃあ、俺は忙しいから、近くで少し食事しよう」

 そう言って、岳美は健一を近くの回転寿司の店まで連れて行った。

 店の中に入り、椅子に座った。健一は内心、思った、「財布の中に二千円はあるはずだ。少しくらい食べられるだろう。少し食べたら、帰らせてもらおう」と。

岳美はおしぼりで手を拭いた。

「なんでも食べていいぞ。俺のおごりだ」

 健一は顔を上げて、岳美の顔を見た。

「いや。割り勘にしよう。俺たち、同級生だからな」

 岳美は右の口角をピクリと上げて、静かに言った。

「いいって、いいって。俺は金があまってるから、こんな時くらい、腹一杯食べとけよ。腹、へってるんだろ? 回転寿司なんて安いもんだし・・・」

 健一は立ち上がって、岳美を見下ろした。

「おい、今、何て言ったんだ?」

 岳美が手に持っていたおしぼりをテーブルの上にポイと投げ捨てた。そして、顔を上げて、健一を見上げて、「フン」と鼻先で笑った。

「健一。お前、日雇いで働いてるんだろ? 金に困ってるんだろう? 昔のよしみだ。俺が全部払うから、食って行けよ。正直言って、助かるだろ?」

 健一は右手の拳を握りしめた。その拳がワナワナと震えるのを止めることができなかった。

「おい。岳美。確かに俺は貧乏だ。金に困ってる。だけどな、お前にバカにされる謂れはない!」

 岳美が両手でテーブルをバンと叩きつけた。店にいた客と店員がこちらを黙って注目した。

「おい、健一。貴様、何様のつもりだ! 幼なじみだからって、つけあがるなよ。こちとら、忙しいのに都合つけて来てやったんだ。そしてご丁寧におごってやろうっていうのに、素直に受け取ることもできねえのか? どうせその日に食う金もなくて困ってるんだろ? 最初からおごってもらうつもりで、俺に声かけてきたんだろ! この貧乏人の屑野郎が!」

 健一の左手が勝手に動き、岳美のスーツの襟をつかんでねじり上げていた。そして、健一の右手が高く振り上げられた。健一の目は充血し、震えながら、岳美の目を睨みつけていた。テーブルの上の皿が床に落ち、割れた。

 岳美の目に恐れが見えた。

「ひええ~。助けてくれ」

 岳美が両手を頭の上に上げ、泣き崩れた。

 健一は左手で岳美を引っ張り上げた。

「おい。俺はな、久しぶりにお前に会えて、昔話をしたかっただけだ。それだけなのに・・・おめえは!」

 健一は右手のこぶしを岳美の顔に向かって振り下ろした。

 その時、岳美が叫んだ。

「仕事がなくなるぞ!」

 健一の手が止まった。

 岳美は両手で頭を覆いながら、叫んだ。

「俺を殴ったら、明日から食えなくなるぞ! それでもいいのか?」

 健一の頭の中に恵子の笑顔がふと浮かんだ。

 健一は「フーッ」と息を吐いて、右手を下した。そして、左手も岳美のスーツから離した。岳美を見下ろすと、全身を震わせながら「ヒッ、ヒッ」と泣いていた。

 健一は何も言わず、ゆっくりと歩き始め、店から出て行った。


 



第三章 不思議な爺さん


 健一は回転寿司の店を出て、現場に戻った。そして、自分の自転車にまたがり、川谷に向かった。健一は力いっぱい自転車を漕いだ。汗が噴き出た。しかし、健一の体の中にある熱は治まることはなかった。

 健一はいろほ商店街にたどり着き、居酒屋「韋駄天」の前に立った。

「少しなら飲める」

 そう呟いて、健一は引き戸をガラガラと開けた。

「いらっしゃい!」

 店の中から威勢のいい声が聞こえた。店長の亮平の声だった。

 亮平は健一の方を見て、笑った。

「よう、健一さん。久しぶり! 座って、座って」

 健一は椅子に座った。

「今晩は。亮平さん、冷酒一杯、くれる?」

 亮平が一升瓶をかかえ、ガラスコップに冷酒をあふれるほど注いで、健一の前に置いた。そして、亮平は自分にも酒を注ぎ、右手でコップを健一の胸の前に突き出した。

「乾杯!」

「乾杯!」 

 二人はコップをカチンとぶつけると、口元に持っていき、グイッと酒を喉に流し込んだ。そして、健一は空になったコップをテーブルの上にカツンと置いた。

 亮平さんが笑った。

「おいおい。ペース早すぎるぞ。何があったんだい?」

 健一は手を左右に振った。

「いいから、いいから。もう一杯だけ、頂戴」

 そう言うと、健一はコップに酒をついでもらい、グイッと飲み干した。そして、健一はテーブルの上に両手と頭を乗せて眠り始めた。

 どれくらいの時間が経っただろうか? 健一は目を覚まして、辺りを見まわした。店長の良平さんが椅子に座って、眠っていた。

 左側から声が聞こえた。

「目が覚めたようだな」

 健一の左側に爺さんが座っていた。その爺さんは髪の毛が真っ白で、長かった。そして、白いあご髭をはやしていた。顔だけ見ると、魔法使いのようだった。しかし、服は黒いジャージで、サンダル履きだった。健一は思った、「こんな爺さん、見たことないな。まあ、でも、この付近の簡易宿泊所で生活している日雇い労働者だろう」と。

 爺さんは健一を見て、言った。

「どうしたんだ?」

 健一はフーッと息を吐いてから、爺さんを見た。

「見ればわかるだろ? 酒を飲んで、そして、気持ちよく寝てたのさ」

 爺さんが健一を見た。

「話せば、気分が楽になるかもしれない」

 健一は笑った。

「話したって仕方ない。金さえあればいいんだよ」

 爺さんの目がキラリと光った。

「今、何と言った?」

 健一は爺さんの顔をもう一度見た。

「聞こえなかったのか? 『金さえあれば幸せになれるのに』って言ったんだよ」

 爺さんがイスから立ち上がり、健一に近づいて来て、横の席に座った。

「お前。今言った言葉に嘘はないか?」

「嘘? 俺がなぜ嘘つかなくちゃいけないんだ?」

「じゃあ、お前は思うんだな、『金さえあれば幸せになれる』と。間違いないんだな」

 健一は爺さんをジロリと見つめた。

「間違いないよ」

「よし、それじゃあ、お前さんに提案があるんだ」

「提案? なんだ、それは?」

「提案の前に自己紹介をさせてくれ。ワシの名前は白波幸之助だ。歳は今、九十八歳」

「九十八歳? 嘘だろ? 本当はもっと若いんじゃないか?」

 爺さんは首を左右に振った。

「もうすぐ、死ぬんだ」

「おい、おい・・・」

「いやいや、もういつ死んでもおかしくない。わしは天涯孤独の身じゃ。お前さんも、自己紹介をしてくれんか」

「俺の名前は佐倉健一だ」

 健一はしゃべり始めた、自分が建設現場で日雇い労働者として働いていること、金に困っていること、そして、貧乏していることで幼なじみにバカにされたことを・・・

爺さんが静かに言った。

「金持ちになりたいか?」

「もちろんだ。金さえあれば幸せになれる。結婚だってできる」

 爺さんは「フン」と鼻で笑った。

「金さえあれば幸せになれるだって? そんなの、嘘だろ!」

 健一は爺さんを睨みつけた。

「爺さん。あんた、金に困った経験、ないだろ? だから、わからないんだ!」

 爺さんは体を半回転させて、健一に向かい合った。

「よし、ワシがお前に金をくれてやる。それで証明してみろ、『金さえあれば幸せになれる』ということを・・・」

 健一は大声で笑った。

「金をくれる? ありがとう。見知らぬ赤の他人に金をくれるなんて、酔っ払ってるな、爺さん。サッサと家に帰って寝ろよ」

 爺さんはニヤリと笑った。

「冗談なものか! わしはもうじき死んでいくんじゃ。棺桶の中に金を入れていくことはできない。もう金など、必要ない。ワシには莫大なお金がある。お前にくれてやる」

 健一は爺さんの言葉がカチンと来た。

「じいさん。爺さんも俺をバカにしてるのか? 俺が貧乏人だからと言って、バカにするんじゃねえぞ」

 爺さんは目をつりあげて、静かに言った。

「おい。お前は言ったな、『金さえあれば幸せになれる』と。お前はそれを証明できるか? 実験だ。明日の午後一時、印鑑を持って、令和銀行の川谷支店前の公園に来い。お前名義の銀行口座を作ってやる。そして、大金をお前の口座に振り込んでやるから」

 健一は笑いながら「はい、はい」と言った。

「爺さん。酔ってるんだろ? たわごとはもういいから、早く帰って寝ろよ。おっと! この店の酒代は置いていかなくちゃ駄目だぜ」

 爺さんは立ち上がり、ズボンのポケットから一万円札を取り出すと、カウンターの上にポンと置いた。

「じゃあ、佐倉君。明日の午後一時。公園で待ってるよ」

 そう言うと、爺さんは居酒屋の戸を開けて出て行った。

 健一はフーッと息を吐き出した。

 


第四章 預金口座の開設


 十二月二十六日。

 健一は布団から飛び起きて、時計を見た。午前九時だった。

「あーあ。寝過ごした」

 健一は頭を押さえた。頭の中がガンガンと痛んだ。蛇口まで行き、コップに水を汲んで、ゴクゴクと飲んだ。

「ほとんど飲んでないのになあ。久しぶりに飲んだせいか? 仕方ない。今日は仕事を休ませてもらおう」 

 健一は再び布団に入って横になった。

 しばらく寝て、健一は目を覚まして、時計を見た。午前十一時だった。健一は財布を握って、いろほ商店街に向かった。パンと牛乳を買い、簡易宿泊所に戻って食事をした。

 健一は時計を見た。十二時三十分だった。健一は思い出した、「爺さんが午後一時に印鑑持って銀行前の公園に来いって言ってたなあ。あの爺さん、酔ってたからなあ。暇だし、行ってみるか」と・・・。

 健一は立ち上がり、公園に向かった。

 公園に近づくと、健一は目を凝らして見た。ベンチに長い白髪の爺さんが座っていた。爺さんは洒落たセーターを着て、その上に温かそうなジャンバーを羽織っていた。

 健一が近づくと、爺さんが手を振った。

「おい、佐倉君。こっちだ!」

 健一は爺さんの横に座った。

「おう。爺さん、生きてたか? 二日酔いじゃないのか?」

「おい。ワシの名前は『爺さん』じゃない。昨日教えただろう、『白波幸之助』だ。忘れたのか?」

「そうだったな。白波の爺さんだったな」

「健一。『爺さん』は余計だ。『白波さん』と呼んでくれ。それで、印鑑は持ってきたのか?」

「ああ、持ってきたよ。宿泊所の近くの銀行に口座を持っておくのもいいと思ってな」 

 爺さんは「フフフ」と笑ってから、地面に向かって唾をペッと吐いた。

「佐倉君。お前、明日になって驚くなよ」

「爺さん。御託はいらないから、さっさと口座を作っちまおう」

 それから二人は令和銀行に行き、佐倉健一名義の口座を開設した。

 銀行から出て、爺さんは通帳を健一の胸の前に差し出した。

「明日の午後に記帳してみるんだな。いくら振り込まれたか、確かめてみろ」

 健一は通帳を受け取って、爺さんの顔を見た。

「爺さん、助かったよ。通帳があるだけで、本当に助かる」

「オイオイ。通帳だけじゃないぞ。中身を明日確認しろ。午前中に入金しておくからな」

「じいさん。口座を作ってもらっただけでけっこうだよ。ありがとう」

 健一は頭を下げた。爺さんは健一の肩をポンポンと叩いた。

「そう言うな。正直に言ってみろ。どのくらいの金があれば、お前は幸せになれるんだ?」

健一は思った、「金をやるなんて、どうせ嘘に決まってるんだから。まあ、適当に言っておこう」と。

 健一は腕を組んで笑いながらつぶやいた。

「そうだな。一千万円くらいあれば、幸せになれるかな~」

 爺さんは右目だけ大きく開けて、ジロリと健一を見た。

「一千万? 一千万で幸せになれるんだな?」

「ああ。一千万円もあれば、遊んで暮らせるよ」 

そう言って、健一は笑った。

 幸之助は右手の人差し指を健一の目の前に突き出した。

「もし、明日、本当に一千万円振り込まれていたら、お前はどうする?」

「どうするって、そんなこと急に言われてもわかんないよ」

「そうか。それで、もし、一千万円入金されていたら・・・、午後三時、この公園に来い。その時、・・・」

「その時?」

「お前さんの影をもらいたい」

「影? 一体、何のことを言っているんだ?」

「影だよ、影。知らないのか? 太陽や電灯の光がお前の体に当たった時、地面に現れるだろう、黒い形が。そいつが影だよ。それをもらいたいんだ」

「他人の影なんて、取ったりできないだろう?」

「いいや、それが取れるんだよ。特別な薬を使うと、他人の影をもらうことができる。何もお前の影を全部くれなんて、言わない。五分の一でいいんだ」

「俺の影の五分の一? そんなものを手に入れて、一体、何になるというんだ?」

 その時、爺さんは右側の口角をわずかに上げて、白い歯を一瞬見せた。そして、「ヒヒヒ」と小さくつぶやいた。

「白波さん、何か言った?」

「いいや、なあんにも! それで佐倉君。お前、ワシに影をくれるのか?」

「もし本当に一千万もらえたら、あげるよ。影なんか、あってもなくてもかまやしないんだから」

「約束だぞ。よし、約束のあかしに、指切りげんまんをしよう」

 健一は目を丸くして、爺さんを見た。

「指切りげんまん?! 何だ、それは、爺さん?」

「健一。お前、指切りげんまんも知らないのか?」

 健一は苦笑しながら言った。

「いや。指切りげんまんくらい知ってるけど、大のおとなが指切りげんまんをやるなんて、おかしくないか?」

 爺さんは首を左右に振った。

「とにかく、やるんだ。さあ、急げ」

 そう言うと、爺さんは右手の小指を立てて、健一の顔の前に出した。仕方なく健一も右手の小指を立てて、爺さんの方へ出し、爺さんの小指と自分の小指をからませた。

 爺さんは言った。

「よし、ワシが歌うから、指を上下に振るんだ」

 爺さんは右手を上下に大きく振りながら、歌い始めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます。指、切った!」

 歌の終了と同時に、爺さんは指を離した。

 健一は頭を傾げて爺さんを見つめながら思っていた、「この爺さん。もしかしたら、もう認知症がかなり進んでいるのかもしれないな」と。

 健一はフーッと息を吐きだして、爺さんに言った。

「じゃあ、白波さん。もう会うこともないと思いますけど、お元気で」

 爺さんは右手を振り上げた。

「おい、健一。冗談じゃねえぞ。明日、入金を確かめろ。そして、入金されていたら、ここに来るんだぞ。必ず来るんだぞ。三時だ。待ってるぞ」

「はい、わかりました、白波さん」

 そう言うと、健一は右手を左右に振りながら、公園から出て行った。そして、簡易宿泊所に向かって歩き始めた。

 

 


第五章 一千万円で買ったもの

 

翌日の十二月二十七日、健一は早起きして、自転車に乗り、現場に向かった。

いつも通りに朝会に参加した。ビルの一階に労働者が全員並び、その前に現場監督の林岳美が立った。

「みなさん、おはよう。毎日寒い日が続いていますが、風邪をひかないように注意してください。それから、安全確認をよろしくお願いします。工期を守ることも大事ですが、第一に優先されるのは、みなさんの安全ですから」

 そう言うと、岳美は礼をした。

 朝会が終わって、健一はいつも通り五十七階へ上がろうとしたが、後ろから呼び止められた。

「おい、健一」

 岳美の声だった。健一は振り返った。

 岳美が両腕を組んで、顎を上げながらニヤニヤと笑いながら言った。

「昨日は無断欠勤で、今日はお詫びもなしか? けっこうな身分だな、健一!」

 健一はフーッと息を吐きだして、頭を下げた。

「昨日はすみません。体調が悪くて、休ませてもらいました」

「そうか。しかしな、健一。お前、いつまでもここで働けると思うなよ。俺の一言で、お前なんかいつでも辞めさせられるんだからな」

 そう言うと、岳美はプイと後ろを向き、歩き去って行った。

 健一は下唇を噛んで、階段へと向かった。そして、一歩ずつ階段を上り始めた。

 そして、健一は十二時まで働いた。

休憩時間が来て、健一は通帳の入ったカバンを取り出した。そして、現場近くの令和銀行へと向かった。

健一はカバンを握りしめたまま、岳美の顔を思い出していた。ニヤニヤと笑っていた顔を・・・

健一は、銀行に入った。通帳をキャッシュコーナーの機械に入れて、記帳ボタンを押した。飛び出て来た通帳をつかみ、のぞき込んだ。

「ウオオ~」

野獣のようなうめき声が健一の口から飛び出した。周りにいた人々が一斉に健一を見た

 健一は通帳をのぞき込んだ。そこには、「1」という数字が一つ、そして、「0」という数字がたくさん並んでいた。

 健一の足がブルブルと震え始めた。汗が額から流れ出し、首筋を流れていく。心臓がドキンドキンと大きな音を立てて、脈打っていた。健一は走り出していた。走って、銀行を飛び出した。そして、歩道に立ち、もう一度、通帳を開いてみた。そして、「0」の数を右手の人差し指を当てながら数えてみた。

「イチ! ニー! サン! ヨン! ゴー! ロク! シチ!」

「0」が七つ並んでいた。

 健一は思わずその場に立ちつくした。

 もう一度、通帳を見た。そして、「0」の数をもう一度数えてみた。数え終わった健一はその場に口を開けたまま、ボーッと立ち尽くしていた。

 それからどれくらいの時が経ったか、わからない。健一は頭を左右に振った。そして、意識を取り戻した。

 健一は通帳の入ったカバンを強く握って、現場に戻った。そして、一階の事務所の建物に入って行った。

 健一は岳美を見つけて、ツカツカと歩いて行った。そして、低い声で言った。

「おい、岳美!」

 岳美は健一のつり上がった目を見て、震え始めた。上ずった声で言った。

「お・・・、おい。健一。落ち着け・・・」

「うるせえんだよ!」

 健一はゆっくりと怒鳴りあげた。岳美の体がブルッと震えた。

 健一は岳美の目を睨みつけながら言った。

「お前、俺に言ったな、『いつまでもここで働けるわけじゃないぞ』ってな。わかったよ。こっちから辞めてやるよ」

 そう言い捨てると、健一は事務所から出て行った。

 健一は自転車にまたがり、川谷に向かった。

 健一は川谷の令和銀行前の公園に着いた。時計を見た。ちょうど三時だった。

 ベンチに白波幸之助が座っていた。健一は爺さんの背中に向かって叫んだ。

「白波さん!」

 健一は息を弾ませながら爺さんの前に立った。そして、通帳を爺さんに見せた。

爺さんは目を細めて健一を見上げた

「入金を確認したのか?」

 健一は大きくうなずいた。

「あの話、本当だったんですね?」

「もちろんじゃ」

「白波さん。この金、本当にもらっていいんですか? 本当に本当にもらっていいですか?」

「ああ! 何度も言っただろう。だが、約束通り、お前の影を五分の一、もらうぞ」

 健一はフーッと息を吐きだした。

「俺の影なんて、いくらでもどうぞ。そんなもの、なくったって、生きていけますから」

 そう言うと、爺さんが「ホッホッホッ」と笑った。

「それじゃあ、指切りげんまんをやるぞ」

「え?」

「指切りげんまんをやることで、お前の影をワシに吸い込むことができるんだ。ワシの小指とお前の小指をからませる。そして、ワシが薬を飲む。それから二人とも指を上下に大きく振りながら、『指切りげんまん』の歌を一緒に歌うんじゃ。ただし・・・!」

 健一は口の中の唾液をゴクンと飲み込んだ。

「だだし・・・? 何ですか?」

「ただし・・・、歌の最後の部分、『指切った』の部分は歌うなよ。指をつないだまま、待つんだ」

「なんだ、そんなことですか。了解しました」

 爺さんは上着のポケットの中からガラス瓶を取り出した。その中には、虹色の錠剤が入っていた。爺さんは、左手の手のひらの上にその錠剤を一錠乗せた。そして、自分の右手の小指を立てて、健一の胸の前に差し出した。健一は自分の右手の小指を立てて、爺さんの小指とからませた。爺さんが左手を口に持っていき、薬を口の中に放り込んだ。

 爺さんが健一の目をのぞき込んだ。

「じゃあ、歌うぞ。せーの!」

 爺さんの合図をもとに、二人はつないだ小指を振りながら、歌い始めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 すると、次の瞬間、健一の胸の奥が燃えるように熱くなった。体の中に高熱のストーブが投げ込まれたようだった。健一の体が勝手にブルブルと震え始めた。健一の体の中心にある高熱の塊が上へ上へと移動していく。胸の奥から、右の肩の辺りに移動していき、続いて、その熱の塊は右の肘、右の腕、右の手のひら、そして、小指に移動していく。そして、最後に熱の塊は爺さんの小指に吸い取られていく。

 健一の意識が失われていく。健一はベンチに倒れるように座り込んだ。

 爺さんが小指を離した。

「よし。終了だ」

 健一は空を見上げた。太陽が僕の頭の上で、燦々と照りつけていた。健一は視線を地面に落とした。地面には健一の影がくっきりと映っていた。健一の影がブルッと震えた。その瞬間、その影が少し縮んだような気がした。健一は右手で目をこすった。

 爺さんがベンチから立ち上がった。

「じゃあ、新年明けて、一月十日、ここで会おう」

 健一は頭を傾げた。

「わかりました。十日ですね」

 爺さんが汚い歯茎を見せて笑った。

「お前が何に金を使ったのか、報告するんだ。そして、それで、お前は幸せになれたのかどうか、報告するんだ。わかったか?」

 健一はうなずいた。

 爺さんもうなずいた。

「何時がいい?」

「そうだな。今日と同じ、三時でどうだ?」

「では、一月十日の午後三時、ここで待ってるぞ。必ず来いよ」

「はい」

 健一はうなずくと、ゆっくりと宿泊所へ向かって歩き始めた。



 その夜、健一は恵子のアパートを訪ねた。

 健一はドアを開けると、恵子に言った。

「恵子。金が入ったんだ。『サンピエール』に行って、食事をしよう」

 恵子は大きな目を開けて、首を左右に振った。

「そんな贅沢するくらいなら、私、今からスーパーに行って何か買って来る。そして、何か作るわ」

 健一は首を横に振り、恵子の腕を掴み、喫茶店まで引っ張って行った。

 健一はサンピエールの椅子に座るなり、店員に焼肉定食二人前とビールを注文した。

 恵子は大きな声を出した。

「健一。お金、大丈夫なの!」

健一は右手の人差し指を立てて、自分の口に当てた。そして、小さな声で恵子に言った。

「静かにして、恵子。俺、金が手に入ったんだ」

「えっ!」

「それもなんと、一千万だぜ!」

 健一はニコニコしながら、こっそりと財布を広げ、恵子に見せた。財布の中には一万円札の束が入っていた。

 恵子は目を曇らせた。

「健一。そんな大金、一体誰にもらったの?」

 健一は恵子に話して聞かせた、不思議な老人に会ったこと、老人はもうすぐ死ぬため遺産を健一に残していくこと、そして、健一が老人に対して「金さえあれば幸せになれること」を証明しなければならないことを・・・

 店員が二人のテーブルにビールと焼肉定食を運んできた。健一はコップを恵子に渡して、ビールをつごうとした。しかし、恵子は首を横に振って、コップを裏に伏せた。

 健一はニコニコしながら、ビールを飲み、焼き肉を食べた。

「恵子。俺にもついに運が巡って来たんだ。恵子、俺たち、幸せになるんだ。これから美味しいものを食べたり、綺麗な服を着たりするんだ。そして、一緒にこんな町を早く出よう」

「健ちゃん。あんた、騙されているのと違う?」

 健一は顔を上げて、声を荒げた。

「騙されているって? そんなことない! 大丈夫だ。その爺さんは九十八歳で、もうすぐ死ぬんだ。お金なんか必要ないんだよ」

「そう? あんた、犯罪に巻き込まれているんじゃないの? 何か悪いことをさせられるんじゃないの?」

「恵子。大丈夫だって! そんなこと心配するより、せっかくの焼肉定食だぜ。早く食べろよ。冷えてしまうよ」

「ううん。私、食欲ないの。健ちゃん、食べて」

「大丈夫か? お腹を壊しているんじゃないか?」

「ううん。食べて、食べて」

 健一は焼肉定食を二人前食べてから、言った。

「恵子。これからコーヒーでも飲んで、お前のアパートに行っていいかい?」

 恵子は視線を落とし、長い間、床を見ていた。

 そして、顔を上げて、言った。

「健ちゃん。こんなこと言ったら、健ちゃん、怒るとわかっているけど、でも言うよ。健ちゃん。そのお金、返した方がいいよ」

「なぜなんだ!」

 健一は怒鳴った。

「なんてこと言うんだよ、恵子。やっと俺にも運が巡って来たんだ。この幸運を掴まなくっちゃ、いつ幸せになれるっていうんだ。爺さんはもうすぐ死ぬんだ。大丈夫だ。犯罪なんかに巻き込まれたりしない。これからは二人で裕福に暮らしていくんだ。イヤな奴にペコペコ頭を下げて、きつい仕事をしなくても済むんだ。実は日雇いの仕事も、今日、辞めて来たんだ」

「えっ! 健ちゃん、仕事、辞めたの?」

「ああ。バカにされてまで働く必要なんてないんだ」

「健ちゃん・・・」

 食事を終え、健一は金を払って喫茶店を出た。

 健一は左手で恵子の肩を抱いた。

「アパートまで送るよ」

 恵子は右手で健一の手を肩から振り払った。

「ごめんなさい。今日は私、体調が悪いの」

 そう言うと、恵子はアパートの方へ向かって走って行った。

 健一は暗い街に立ち、小さくなっていく恵子の後姿を見送った。

 冷たい風が吹き抜け、空き缶がカンカンという音を立てながら転がって行った。



 新年が明けて、一月十日が来た。健一はいろほ食堂でビールを飲んでラーメン定食を食べてから、銀行前の公園に歩いて行った。

 爺さんがベンチに座っていた。健一は爺さんに近寄って行った。

 爺さんが右手を上げた。

「よう、健一。元気か」

 健一はニコニコしながら言った。

「はい。もちろんです」

「それで、この二週間、お前は金を何に使ったんだ?」

 健一は即答した。

「はい。まず、食い物と飲み物を買いました」

「食い物と飲み物?」

「はい。近くのコンビニやスーパーに行って、出来合いの食材やジュースのペットボトルを買ったんです。そのうち、食堂やレストランに行くようになりました。やっぱり腹が減っては生きていけませんから」

「ふーん。そして、最近は外食するようになったってわけか」

「ええ。今まで外食なんて、ほとんどできませんでしたけど」

「そうか」

「俺、白浜さんから金をもらってから、日雇いの仕事、やめたんです」

「なに? 本当か?」

「はい。なぜなら、一千万円もあったら、しばらく働かなくても食っていけると思ったからです」

 爺さんが健一を上目使いに見た。

「まあ、それはともかく、健一。それで、食い物と飲み物を買ったり外食したりして、食欲を満足させたら、お前はそれで幸せになれたのか?」

 健一はおおきくうなずき、叫んだ。

「もちろんです! 今日も、そして明日も、間違いなく食えるという安心感。これが幸福でなくて、他に何と言ったらいいでしょうか? 今まで俺はその日暮らしだったです。日雇いで給料をもらい、それで一日一日を食いつないで来たんです。雨が続いて仕事がない時、俺は何も食わず、ただ水を飲んできたんです。わかりますか? 」

 爺さんは右の口角を上げて、ニヤリと笑った。

「そうかい、そうかい。お前さんは食欲を満足させれば、それで満足できるんだな」

「うーん。正直に言うと、食材や外食以外のものにもお金を使いました」

「何だ? 何にお金を使ったんだ?」

「そのうち、酒やタバコを買うようになりました」

「酒とタバコ・・・」

「そして、やがて居酒屋やカラオケにも行くようになりました」

 爺さんはフーッと長く息を吐き出した。

「そうか、そうか。それで・・・お前は幸せになれたのか?」

 健一はうなずいた。

「はい。ハッピーです、白波さん。ありがとうございます。ただ・・・」

 爺さんは右の眉をグリッと上げて、健一を睨みつけた。

「ただ・・・、それから、何なんだ?」

 健一はコホンと咳をしてから、爺さんの目を見上げた。

「ただ、仕事をしていないから、もう少し金があると、助かるんですが・・・」

 爺さんは黙ったまま、健一を睨みつけた。

 健一の首筋がブルブルッと震えた。

 爺さんが左目だけ細めた。

「それで? いくら欲しいんだ?」

 健一は舌で下唇をペロッと舐めた。

「そうですね・・・。できたら、二千万円・・・」

「二千万!」

 爺さんが叫んだ。健一は目をつむり、両肩をビクッと上げた。

「健一。お前、調子に乗っているんじゃないのか?」

 健一は黙ったまま、地面に視線を落とした。心の中で思った、「やはり二千万は無理か」と。

 爺さんがゴホンと咳込んで、うなずいた。

「いいだろう、健一。しかし、もう一度、影をもらうぞ」

 健一はパッと顔を上げて、微笑み、そして何度もうなずいた。

「本当に、二千万くれるんですか? 本当にそうなら、俺の影なんかいくらでもあげます。どうぞ、どうぞ!」

「よし! 交渉成立だ。健一、明日の午前中にお前の口座に二千万振り込んでおく。お前は通帳に記帳して確認しろ。そして、金がきちんと振り込まれていたら、十日後の一月二十日の午後三時にここに来るんだ! いいか! そして、約束通り、金の使い道とその結果を報告する、そして、俺にお前の影をよこすんだ。いいか、わかったか?」

「はい。わかりました」 

「それじゃあ、十日後にまた会おう。待っているからな。必ず来いよ」

「はい、わかりました」

 健一は去っていく爺さんの背中に深く頭を下げた。


第六章 二千万円で買ったもの


 翌日の一月十一日、健一は銀行に行った。そして、キャッシュコーナーの機械に通帳を差し込んで、記帳した。

 健一は機械から通帳が滑り出してくるのを今か今かと待った。通帳が出て来ると、健一は急いで引っ張り出し、貪るように見た。「2」という数字と、それから「0」という数字が七つ並んでいた。健一は目をつむり、通帳を抱きしめた。体が勝手にブルブルと震え始めた。後ろに並んでいる人が「ゴホン」と咳をした。健一は我に返り、急いで通帳をカバンに入れた。そして、カバンを両手でしっかりとつかみ、銀行を出た。

 健一はそれから辺りを見回して、足早に簡易宿泊所に向かった。



 翌日の土曜日の午前中、健一は恵子のアパートを訪ねた。

 健一は恵子に言った。

「恵子。今からデパートに行こう」

「え? デパート? 一体、何のために?」

「うん。お前にプレゼントを買いたいんだ」

 恵子は目を細めて健一を見た。

「お金はどうするの?」

「うん。また爺さんからもらったんだ」

「そうなの・・・。健一、私、欲しいものなんか何もないの」

 健一は下唇を噛んだ。

「そんなこと、言うな。お金はたくさんあるんだ。お金のことなんか心配しなくていいんだ」

「私、お金のことを心配しているんじゃないわ」

 健一の頭の中で何かがプチンと切れた。

「とにかく、来てくれ。お前が何も欲しくなくても、俺がお前に買ってあげたいんだ」

 健一は恵子の腕を掴み、強引にデパートまで引っ張って行った。

 健一はまず衣料品のフロアに恵子を連れて行った。

 しかし、恵子はエレベーターから出た所で立ち止まった。

 健一が手を掴んで引っ張った。しかし、恵子は動かない。

「恵子。お願いだ。俺に服をプレゼントさせてくれよ」

「健一。お金はどうするの?」

「恵子。白波の爺さんがまた追加して俺に恵んでくれたんだ。けっして汚い金なんかじゃない」

「だけど、あなたが稼いだ金でもないわ」

 健一は爪を噛み、目をつむって頭を左右に振った。

「じゃあ、服じゃなくて、化粧品はいらないか?」

 恵子は目を閉じて首を横に振った。

 健一は恵子の手を両手で包んだ。

「それじゃあ、携帯電話は?」

「いらないわ」

「じゃあ、何が欲しいんだ?」

 恵子は黙ったまま、目を閉じていた。そして、しばらくして目を開けた。

「何も欲しくないわ」

「嘘だ!」

 健一は恵子の右腕を掴んで引っ張っていく。

 恵子が叫んだ。

「どこに行くの!」

「食事だよ。何も欲しくないのなら、美味しいものを食べよう!何がいい? フランス料理? 中華料理? イタリア料理? なんでもいい! 金はいくらでもあるから!」

「それなら、私は『サンピエール』がいいわ!」

「『サンピエール』!? あんな安い店のどこがいいんだ。金さえ出せば、綺麗で美味しい店でいくらでも食べられるのに!」

「私は『サンピエール』がいいの! 『サンピエール』じゃなきゃあ、嫌なの!」

 健一はフーッと息を吐き、黙って恵子を見た。恵子が泣いていた。健一は歩き始めた、「サンピエール」に向かって・・・

 しばらくして、二人は「サンピエール」に着いた。

 健一と恵子はいつものテーブルに座った。健一はメニューを恵子に差し出した。

「恵子。何が食べたい? 食べたいもの、何でも注文していいんだ。お金ならたくさんあるんだから・・・」

「私、何も食べたくないわ」

「恵子。俺はただお前が欲しいものを買ってあげたかっただけなんだ」

「私が欲しいもの?」

「お前だって、他の女の子と同じように欲しいだろう、おしゃれな服や可愛い化粧品、携帯電話などが。それから、ディズニーランドに行ったり、美味しいお店で食事をしたりしたいだろう?」

 恵子は答えない。

 恵子は立ち上がり、走って店から出た。健一は恵子を追いかけて、恵子を捕まえた。

「どこに行くんだ?」

「アパートに帰るのよ」

 健一は恵子を抱きしめた。

「恵子。お前を抱きたいんだ」

「いやよ」

「なぜだ? 俺のこと、好きじゃないのか?」

「好きよ。でも、あなたは変わってしまったわ。私が本当に欲しいものが何なのかもわからないじゃないの!」

「本当に欲しいもの・・・? 服や化粧品や食事じゃないのか?」

「ふざけないで。私を金で買おうっていう気なの? 私、そんな女じゃないわ!」

 恵子は目を押さえながら走り去った。

 健一は一人、路上にたたずんでいた。



 一月二十日になった。

 午後三時、健一は令和銀行川谷支店前の公園へと急いだ。

 健一は辺りを見渡したが、爺さんはまだ来ていなかった。

 健一がベンチで座っていると、遠くから爺さんが杖をついてゆっくりと近づいて来た。健一は立ち上がって、手を振った。

「白波さん! こっちです」

 爺さんがベンチの近くに立った。

「おう、健一。久しぶりだ」

「ご無沙汰しています。先日はありがとうございました。銀行に行って、記帳しました。きちんと二千万円、入金されていました」

「そうか、そうか。とにかく、座ろう」

 二人は座った。

「健一。約束通り、お前の影をもらうぞ」

 そう言うと、爺さんはまずカバンから瓶を取り出し、虹色の錠剤を一つ、左手の上に乗せた。そして次に、右手の小指を健一の胸の前に差し出した。

「じゃあ、健一。始めるぞ」

「はい」

 健一も右手の小指を差し出し、爺さんの小指と絡めた。そして、爺さんは左手を口に持って行き、薬を口の中へ放り込んで、ゴックンと飲み干した。

 それから、爺さんは指を振り始めると同時に、歌い始めた。

「指切りげんまん。嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 その瞬間、健一の体が熱くなり始めた。頭がクラクラする。体の中の熱の塊は、胸から右腕、そして、右手の小指を通り過ぎ、爺さんの指の中へと移動していった。心臓がバクバクと音を立て、健一は頭がボーッとして今にも倒れてしまいそうだった。

 その時、爺さんの声が聞こえた。

「よし、もういいぞ、健一」

 爺さんが絡めていた小指を解き、健一も右手をベンチの上に戻した。

 爺さんが首をグルグルと回し、右腕もグルグルと回してから、叫んだ。

「う~ん。調子、いいぞ!」

 爺さんは健一の方に向き直った。

「それで、健一。お前は二千万を何に使ったんだ?」

「はい。食欲を満たした後は、次は・・・私も男ですから・・・」

 爺さんがギロリと健一を睨んだ。

「性欲を満たしたっていうことか?」

「そうです」

 健一はうなずいた。

「私は、歌舞伎町に行きました。バーに通って、若くてきれいな女の子と一緒に酒を飲んだり、それから、性欲を処理してもらったりしたんです」

「そうか。お前も男だからなあ」

「はい」

「それで?」

「それで・・・というのは、どういうことですか?」

「健一。それで、女と抱き合って、溜まった精子を女の体の中に放出して、お前は幸せになれたのか?」

 健一はうなずいた。

「ええ、まあ、そうです。スッキリしました」

「つまり、性欲を満たすことがお前の幸せっていうことだな?」

「やっぱり、食欲とか睡眠欲とか性欲とか、人間の本能を満たすことが人間の幸せと違いますか?」

 爺さんが頭を上下にコクンと振った。

「そうかもしれないな。つまり、金さえあれば、人間の本能的欲望を満足させることができ、そして、幸せにもなれるというわけだな」

「はい」

「だけど、お前、いつか言っていたな、『金さえあれば、結婚もできる』と・・・」

「俺、そんなこと、言いましたか?」

 爺さんはうなずいた。

「ああ。確かにお前さん、そう言ったぞ。ということは、お前には結婚したい女がいるということだよな」

「はい」

 健一は小さくうなずいた。頭の中に恵子の顔が浮かんだ。

 爺さんは健一の目を見据えて言った。

「好きな女がいるのに、お前はなぜ歌舞伎町に行って、性欲を処理したんだ? 好きな女を抱けばいいじゃないか・・・」

 健一は黙り込み、下を向いた。

「それは・・・」

「何だ?」

「その理由は言えません。ただ性欲を処理したいと思った時、金があったから、歌舞伎町に行った。ただ、それだけです」

 爺さんは目を細めた。

「そうか。しかし、好きな女がいるなら、そいつと愛を交歓するというのが幸せだと思うがな・・・」 

 健一は返答せず、黙ったまま、地面を見つめた。

 爺さんはベンチから立ち上がった。

「じゃあ、健一。元気でな」

 健一は爺さんの左腕を掴み、そして、引っ張った。

 爺さんはベンチに腰を下ろした。

「何だ?」

「白波さん。ちょっと待ってください。まだ、話しがあります」

「何だよ!」

 健一は爺さんの腕をつかんだまま、言った。

「私は今、無職です。次の仕事に就くまで、もう一度だけ入金をお願いします」

 健一は頭を下げた。

 爺さんは「ハア」とため息をついた。

「いくらほしいんだ?」

 健一はしばらく黙っていたが、意を決して言った。

「これが最後です。すみませんが、一億お願いします」

「一億!?」

「はい。一億です」

「ふ~む~」

 爺さんは両腕を胸の前で組んで、目を閉じた。

 そして、目を開けた。

「健一。これが最後だぞ」

「はい! ありがとうございます」

 健一は深く頭を下げた。

 爺さんは右手で眉毛の辺りをボリボリと掻いた。

「明日の午前中に入金しておく。午後には銀行に行って確認するんだ。そして、一月三十日の午後三時、またここに来い。そして、俺にお前の影を寄こすんだ。そして、金を何に使ったのかを報告し、金で幸せになれたかどうかを教えろ。それが条件だ。いいか? 約束できるか?」

「もちろんです。白浜さん!」

 健一は両手で爺さんの右手を包み込み、頭を下げた。

「本当にありがとうございます」

「これが最後だからな」

 そう言うと、爺さんは立ち上がって、杖を突きながらゆっくりと遠ざかって行った。




第七章 一億円で買ったもの


 翌日、一月二十一日。

 午後になり、健一は銀行へと走って行った。銀行の前に来ると、健一の心臓がドキンドキンと鳴り始めた。健一は思った、「心臓の音が周りの人にも聞こえるのではないか」と。それで、健一は辺りを見回した。

「とにかく、記帳だ」

 健一はカバンの中から通帳を取り出した。通帳を掴み手が汗でべっとりと濡れていた。

 キャッシュコーナーの機械の前で健一は辺りをキョロキョロと見渡してから、通帳を機械に入れた。そして、ボタンを押した。

 やがて機械から通帳が出て来た。通帳を掴む手が震えていた。

 健一は「イチ、二―、サン」と心の中で数えてから、目を開けて、通帳を見た。そこには、「0」という数字がたくさん印刷されていた。健一はゴクンと唾を飲み込んで、「0」を数え始めた。「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク、シチ、ハチ」。

 健一の体がビクンと震えて、固まった。しばらくして、健一は頭を左右にブルブルッと振り、歩き始めた。こめかみの血管がバクンバクンと鳴り響いた。

 健一は銀行から出ると、通帳をカバンの中に入れ、そして、カバンを両手で強く抱きしめて、簡易宿泊所に向けて歩き始めた。



 それから二日後のお昼前、健一の簡易宿泊所のドアを誰かがコンコンと叩いた。

 健一はドアを開けた。そこに立っていたのは、同級生の林岳美だった。

「おはようございます」

 健一は黙ったまま、岳美を見た。健一は思った、「こいつ、俺に対して『おはようございます』って言ったな。一体、何のつもりだ」と・・・。

 岳美は頭を深く下げて、ニッコリと笑った。

「佐倉君。突然伺ってすみません。今、良かったかな?」

 健一はじっと岳美の目を見つめた。

「何だ、用事は?」

 岳美は両手の手の平を胸の前で合わせて言った。

「お願いがあるんだ」

「お願い? 一体、何だ?」

「少しお金を貸してほしいんだ」

「お金を貸せ? なぜ俺にそんなこと、言ってくるんだ?」

 岳美はニヤッと笑った。

「噂で聞いたぜ。近頃、すごく羽振りがいいんだってな。聞くこところによると、大金がころがりこんで来たってことじゃないか。なあ、少し金を貸してほしいんだ」

「金なんかない。俺が貧乏人だってこと、お前が誰よりも知ってるだろ!」

 岳美は両腕を胸の前で組んだ。

「正直に言えよ、『あぶく銭を手に入れた』って。黙っといてやるから、俺に少し融通してほしいんだ。そうだな、百万。いや、できたら二百万、貸してほしいんだ。『貸してほしい』っていうのは、つまり、『無担保・無利子で、それから返済期限なし』っていうことだけどな」

 健一は「へへへ」と笑った。

「『同級生だからなあ、貸してやるよ』・・・とでも言うと思ったか? このバカ野郎! とっとと消え失せろ。お前なんかにやる金なんか一銭たりともありゃしねえ! 消えろ!」

 岳美はギロッと健一を睨みつけた。

「覚えてろよ。せいぜい気をつけるんだな。また一文無しにならないように・・・な」

 そう言うと、岳美はペッと唾を玄関に吐き捨てて、歩き去った。

 健一はドアノブを掴み、力任せに閉めた。



 翌日、健一は簡易宿泊所を出た。玄関を出て、辺りをキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認して、歩き始めた。通帳が入っているカバンを握りしめている手に力が入った。

 健一はまずデパートに向かった。まず、宝石売り場で行き、指輪を購入した。一つは恵子のために、そして、もう一つは自分のために・・・。次に、スーツや腕時計を購入した。さらに、健一は携帯ショップに行き、スマホも購入した。

 その後、健一は不動産屋を尋ねた。

 そして、夕方、健一は買ったばかりのスーツを着て、恵子のアパートを訪れた。

 健一はドアをノックした。

「俺だ。健一だ。開けてくれ」

 中から恵子の声が聞こえた。

「何の用?」

「恵子。お願いだ。『サンピエール』で食事をしよう」

「帰って。私、お腹、すいてないの」

「なあ。恵子、お願いだ。顔だけでも見せてくれ」

 長い沈黙の後、ガチャガチャという音がして、ドアが開いた。

 恵子がドアの隙間から顔を見せた。その目は細く、健一を睨みつけていた。

 健一はドアを押さえて、閉めないようにした。

「やあ、恵子」

「何の用?」

「お前に渡したいものがあるんだ」

 そう言うと、健一はポケットから指輪のケースを取り出した。そして、蓋を開けて、中を恵子に見せた。本物のダイヤの指輪だった。

「受け取ってほしいんだ」

 恵子は黙ったまま、指輪を見つめている。

 健一は言った。

「恵子。マンションも購入する予定だ。一緒に住もう。俺と結婚してほしい」

 健一はドアを押さえていた手をはずし、ケースから指輪をはずし、左手で恵子の左手を掴もうとした。

 恵子は左手をサッと後ろへ引いた。そして、顔を上げて、健一の目を見た。健一の目がブルッと揺れた。

 恵子は「フッ」と小さく笑った。

「健一。あなたはもう以前のあなたじゃないわ」

 そう言うと、恵子はドアを閉め、鍵をかけた。

 健一はドアを叩き続けた。

「恵子! 恵子! 開けてくれ!」

 中から返事はなかった。

 長い間、健一はドアの前にたたずんでいたが、健一はクルリと反転し、歩き去った。



 それから月日が経ち、一月三十日になった。

 健一は紺色のスーツを着ていた。袖をめくって、左腕にはめているロレックスで時間を確認した。午後二時四十五分だった。健一は銀行前の公園に向かった。

 爺さんがベンチに座っていた。健一は爺さんに近づいた。

「爺さん。こんにちは」

 爺さんが振り返って、健一を見た。爺さんが目を細めて、健一と睨みつけた。

「お前、誰だ?」

 健一は頭を下げた。

「俺ですよ、俺。佐倉健一です」

「佐倉? 本当に佐倉か?」

 健一はうつろなまなざしで爺さんを見た。

「そうだよ。これ見てよ」

 そう言って、健一は自分の着ているおしゃれな洋服をポンポンと叩いた。

 爺さんが目を丸くして、叫んだ。

「お前、何だ、その服は? いつもの汚いトレーナーと古いジーパンはどうしたんだ?」

「そんなの、捨てたよ」。

「ふーん」

爺さんは黙ったまま健一の頭から足の先まで舐めまわすように見た。

「新しい服を買ったんだ。どうだい、爺さん?」

「なに! 爺さん? 健一。お前、ワシのこと、ずっと『白波さん』と呼んできたのに、なぜいきなり『爺さん』と呼ぶんだ?」

 健一は「ククク」と声を出して笑った。

「もう九十八歳だろ? 爺さんに『爺さん』と言って、何がいけないんだ? それに、爺さん。あんたもう、俺に金を残す気、ないだろう? そんな奴にオベンチャラ使っても意味ないと思って・・・」

「フン。そうか。ところで、健一。入金確認の連絡をしろ!」

 健一は右手で頭の天辺をボリボリと掻いた。

「爺さん。わかったよ。一億円、確かに受け取ったよ」

「そうか。それなら、まず、お前の影をもらうぞ」

「ああ、わかってるよ。めんどくさいな」

 健一はゴソゴソと右手の小指を爺さんの胸の前に差し出した。

 爺さんは上着のポケットからガラス瓶を取り出し、虹色の薬を左手の上に一つ乗せた。そして、右手の小指を健一の小指と絡めてから言った。

 爺さんが顎を下げた。

「じゃあ、始めるぞ!」

 爺さんは右手を上下に振り始めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 健一の下腹部が痛み始め、そして、ゴロゴロと音を立て始めた。やがて、下腹部にある塊がガクンと上昇を始めた。喉を圧迫し、胃の中にあるものをすべて吐き出してしまいそうだった。健一は左手で口を押さえて、なんとか戻すのを我慢した。やがて、健一の体の中の熱い塊は右手を通り過ぎ、爺さんの小指へと入って行った。ビリビリと右腕が震えていた。

 健一はチラリと地面を見て、自分の影を確かめた。影はブルブルッと震えた。健一はふと思った、「影が少し小さくなった気がする」と・・・。健一は顎を上げて、太陽を見た。眩しくて、目を開けていられなかった。健一は思った、「太陽が高いせいで、影が小さくなっているんだろうか」と・・・。

 爺さんが怒鳴った。

「健一!」

 健一は怒鳴られて、体がビクンと震えた。

「金は何に使ったんだ?」

「爺さん。叫ばなくても聞こえてるよ」

「何だ? その言いぐさは・・・」

「わかったよ。さっさと言えばいいんだろう。金はまず服を買ったよ。それから、これだ」

 健一は左腕の袖をめくって、腕時計を見せた。ロレックスだった。

「それから、これとこれ」

 健一は内ポケットからスマホを取り出した。指に()めている指輪も爺さんに見せた。

 爺さんは右手を顎に当ててゴシゴシこすった。

「性欲を満足させた後は、物欲というわけか?」

 健一は口を閉じたまま、「フフフ」と笑った。

「ここには持って来れないものも買ったよ。何しろ、一億あったからなあ」

 爺さんは右の眉毛をギッと吊り上げた。

「何だ? 何を買ったんだ?」

「マンションだ。この近くにいい物件があったからな。もちろん、いろんな家具や電化製品も同時に購入したけどな」

「マンション?」

「うん。それから、女を一人。バーで仲良くなった女の子と同棲を始めたんだ」

 爺さんは両腕を胸の前で組んで健一を黙って見つめていた。しばらくして、爺さんが尋ねた。

「健一。お前、一体、いくら使ったんだ!」

「おっと、爺さん。金の使い道については報告する約束だったけれど、金額まで報告しろという話にはなっていなかっただろう?」

 爺さんが「チッ」と舌打ちして、ペッと唾を地面に吐き捨てた。

「それで、健一。お前はハッピーになれたのか?」

 健一はパチリと瞬きをした。

「そうだな。幸せだよ。ひもじい思いをせずに食べたいものを食べたいだけ食べて、そして、性欲も満足させて、それから、我が家を持てて、言うことないでしょう」

「ふ~ん。なるほどな。金さえあれば、お前の欲望は満足させられたんだな。良かったな。じゃあな」

 爺さんはベンチから立ち上がり、プイと後ろを向いて歩き始めた。

 健一はサッと立ち上がり、爺さんの肩をつかんだ。

「ちょっと待ってよ、爺さん!」

「何だ?」

 爺さんは振り返って、健一を睨みつけた。

 健一は右眼をパチリとつむった。

「爺さん、最後のお願いだ」

「最後のお願い? 冗談じゃない。こないだ、そう言っただろう?」

 健一は両手の手の平をペタリと合わせて、爺さんに頭を下げた。

「爺さん。あんたも承知しているように俺は仕事を辞めちまったばかりだ。そして、頑張って仕事を探したんだけど、まだ適当な仕事が見つからないんだよ。だから・・・」

「だから?」

「最後にもう一度だけ、金を振り込んでくれよ」

「いやだよ」

 爺さんは右手の人差し指を健一の眉間に着き当てた。

「調子に乗るんじゃねえよ、この貧乏人が!」

 健一の中でブチンと何かが切れる音がした。

 健一は右手で爺さんの服の襟をつかんで、締め上げた。

 爺さんが両手を健一の顔を押し当てながら、「やめろ」と叫んでもがいていた。

 健一は低い声でつぶやいた。

「金を棺桶の中に入れて、あの世に持っていくことはできないって言ったのは、あんただろう?」

 爺さんが白目を見せながら、バタバタと腕を振り回した。

「く・・・苦しい。は・・・離してくれ、け・・ん・・・いち・・・」

 健一は腕を放した。

 爺さんは右手で喉を押さえながら、ゼエゼエと酸素を吸い込んでいた。

「じいさん。最後に十億ほしいんだ」

「十億? そんな金、あるわけないだろう?」

 健一の目がキラリと光った。

「爺さん。俺の影が欲しいんだろう? 俺の影も残りわずかだ。お前にやるよ。だから、爺さん。お願いだから、死ぬ前に残りの金を俺に置いて行けよ。お前が死んで、銀行に金を残しても何もならんだろう?」

 爺さんは黙ったまま、健一をじっと見ていた。

 そして、しばらくして爺さんは口をゆっくりと開いた。

「健一。お前、なぜそんなに金が欲しいんだ? 一体、何に使うつもりだ? 一億では足りないのか?」

「うるせえ爺さんだな。金はアッという間になくなっちまうもんなんだよ。それに、一億じゃあ、足りない。俺よりも多くの金を持っている奴が世の中にはウジャウジャといるんだよ。奴らに比べると、俺の持っている分ははした金だ。もっともっと金がほしいんだ」

「しかし、健一。使い切れないほどの金をもって、どうする?』

 健一の足がブルブルと震え始めた。健一は右手で足を押さえたが、震えを止めることはできなかった。

「金があれば、株やギャンブルで増やすこともできる。日本一の大金持ちになれば、有名になれるんだ」

「ふん。世間の奴らからちやほやされて、いい気分になりたいってことか? それとも、金が少しずつ減っていって、不安になっているのか? また貧乏人の生活に逆戻りするという心配で夜も寝むれないんだろう、健一? それとも、金持ちになって、『金をくれ』と言ってすり寄って来る奴に困っているのか?」

「うるせえ! この、クソジジイ!」

 健一は怒鳴り上げた。そして、右手のコブシを振り上げて、爺さんに殴りかかろうとした。しかし、その時、ズキンと頭痛が健一を襲い、健一はその場に座り込んだ。健一はその場に「オエー」と言いながら、胃の中のものを吐き散らした。

 爺さんが健一を見下ろしながら言った。

「よし。お前がそれほど言うのなら、こちらも考えてみよう。気が向いたら、明日の午前中にいくらか入金しておく。明日の午後、銀行に行って通帳をチェックしてみろ。そしてもし金が入金されていたら、二月の十日、ここに来い。そして、いつもどおりにするんだ」

「いつもどおり・・・って言うことは、つまり、金を何に使ったのかを報告して、そしてそれでハッピーになれたかどうかを連絡しろということか?」

「バカ! お前の影を寄こすんだ。お前の影の残った部分をすべてを俺に寄こすんだよ! それをもらわなきゃあ、誰が金なんか渡すかよ」

「爺さん。影って、そんなに高価なものなのか?」

 爺さんは返事をしない。地面を向いて、右手を口に当てた。しばらくして、「ヒヒヒ」という爺さんの声が聞こえてきた。健一は思った、「爺さん、笑ってるのか。なぜ? 影ってそんなに重要なものなのか? 一体、なぜ笑う?」と。

 爺さんは顔を上げた。その顔は能面のように無表情だった。健一は思った、「爺さんが笑っていたのは、気のせいか?」と。

 爺さんは右手で鼻の下をゴシゴシとこすりながら言った。

「それじゃあ、健一。明日、入金を確認しろ。そして、十日後の二月十日の午後三時、ここへ来るんだ。いいか!」

 健一は右手をチラッと上げた。

「ああ、わかったよ。うるせえジジイだな。じゃあ、あばよ」

 爺さんは後ろとプイと向いて、足早に歩き去った。

第八章 十億円で買えなかったもの


 翌日の一月三十一日。健一は午後十時過ぎ、自宅マンションを出た。自分の部屋を出る時、健一は通帳をショルダーバックに入れ、チャックを閉めた。しかし、何度もバックを開けては閉め、中身を確認した。また、マンション一階の自動ドアを出る時、キョロキョロと辺りを見回し、バックを両手で握って離さなかった。バックを持つ手が汗でベタベタになっていた。

 健一は誰かに追われているような気がして、何度も後ろを振り返った。ビクビクしながら、ようやく令和銀行川谷支店のキャッシュコーナーに到着した。

 健一は入り口に入ると、客が三人いるのを確認した。目つきの悪そうな中年男性が一人いた。健一はその男から離れている機械を選び、通帳を広げて挿入した。そして、ボタンを押した。

 機械がジージーと鳴り始めた。恐ろしいほど長い時間が流れていく。健一は貧乏ゆすりを止められない。通帳が出て来るのが、あまりに遅すぎる! 健一は「ウォオー」と叫び、機械を右手で殴りつけた。周りにいる客が一斉にこちらを見た。

「うるせえ。こっちを見るんじゃねえ!」

 健一は思わず叫んでいた。

 健一は出て来た通帳を掴むと、店外に走っていく。そして、通帳を広げた。そして、印刷された「0」という数を数え始めた。

「イチ、二―、サン、シー、ゴー、ロク、シチ、ハチ、キュー」

 健一の手がブルブルと震え始めた。

「じゅ・・・、じゅ・・・、じゅう・・・おく・・・えん・・・」

 健一は右手で目をこすって、もう一度通帳を除きこんだ。しかし、十億が振り込まれていることに間違いはなかった。

「爺さんはもうじき死ぬんだ。どうせ必要ないんだからな」

 健一は通帳をカバンに仕舞うと、銀行を出て、自宅マンションに向かった。 



 それから十日後・・・二月二十日の午後の三時。健一は令和銀行川谷支店近くの公園に行った。その日は日差しが強かった。健一は少し歩いただけで、生汗が出てきた。体がだるく、息が上がり、健一は時々立ち止まった。

公園のベンチに爺さんが座っているのを見つけた。しかし、健一は思った、「爺さん。以前と雰囲気が違うな」と。爺さんは以前より髪が少し黒くなったようで、髪の毛が増えたような気がした。また、背筋がピンと伸びているようだった。

健一はベンチに近寄っていって、ベンチに座っている人を近くから見た。やはり、白波幸之助に違いなかった。

健一は話しかけた。

「し・・・、白波の爺さん・・・だろ?」

 爺さんが健一の方を見て、右手をサッと上げた。

「ワシだよ。白波だ。待ってたぞ」

 爺さんの目がキラリと光った。

 健一はフーッとため息をついた。

「じ・・・、爺さん。見違えたぞ。若作りなんか、するんじゃねえ!」

 爺さんは白い歯を見せながら言った。

「そうかい。若く見えるかい? うれしいねえ。だけど、ワシは若作りなんかしとらんぞ。お前の目の錯覚じゃないのか?」

 健一は右手で目をこすり、もう一度爺さんを見た。健一は思った、「気のせいか、爺さんは以前より若返って見える」と。

 爺さんは目を細めて健一を覗き込んだ。

「お前の方こそ大丈夫か? 顔色は悪いし、それに目が落ちくぼんでいるぞ」

「うるせえ!」

 健一は咳き込んだ。健一は思った、「俺は体調が悪くて、歩くのもやっとというのに、このジジイは若作りなんかして笑ってやがる。」と。

 爺さんは健一に言った。

「それで、入金は確認したのか?」

「ああ、したよ。爺さん、きっかり十億、振り込んでくれたなあ」

「ああ。約束だ。指を出せ、健一。お前に残っている影をすべて寄こすんだ」

 爺さんは上着のポケットから瓶を出し、虹色の薬を一錠、左手の上に乗せた。そして、右手の小指を健一に向けて突き出し、健一の小指と絡み合わせた。

「よし。それじゃあ、いつも通りに歌うぞ」

 爺さんは小指を上下に振りながら歌い始めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 すると、健一のお腹に電流が走って行った。ビリビリと熱い電流。健一の口からうめき声が上がる、「グ・・・グ・・・グギャー」と・・・。

 健一は白目をむき、全身が痙攣し始めた。健一は左手で爺さんを殴りつけ、急いで小指を離した。

 爺さんは左手で顔を押さえながら、「フフフフフ・・・」と笑った。

 健一は口の中がカラカラに交わしていた。目をこすって、爺さんを見た。爺さんは確かに笑っていた。

「健一。ありがとうよ。お前の若さ、そして、いのち・・・、大切にするからなあ」

 健一は唾を吐いて、爺さんに向かってつぶやいた。

「笑っていられるのも、今だけだ

 そして、健一はズボンの右側のポケットの中の物を握りしめた。

 爺さんは健一に向かって言った。

「健一。報告してくれ。お金を何に使ったんだ? 十日前に十億円、銀行口座に振り込んでおいただろう?」

「ああ、それか。それは、『エス』を買ったんだよ」

「『エス』? 何だ、それは?」

「爺さん、『エス』も知らねえのか? 『スピード』とも呼ばれるクスリだよ、クスリ!」

「薬? 一体、どんな病気に効くんだ?」

 健一は両手を肩の高さまで上げて、「フーッ」と息を吐いた。

「『エス』って言ったら、『覚醒剤』のことだよ」

「覚醒剤!?」

 爺さんが大声で叫んだ。健一は右手で爺さんの口を押さえた。

「じ・・・、じいさん、黙れ!」

 爺さんがモグモグ言いながら、つぶやいた。

「どうりでな、お前、さっきからろれつが回ってないと思った」

「黙ってろ! これを体に打つとな、幸せになれるんだよ」

 爺さんが目を細めながら言った。

「幻覚や幻聴がもう始まってるんじゃないか?」

「うるせえって言っただろ!」

 健一は叫ぶと、急に胸やけがした。そして、その場に吐いた。

 そして、顔を上げて、爺さんに向かって言った。

「じ・・・、爺さん。金の使い道はちゃんと報告したぜ」

「ああ。薬物に使ったってことだな。それで? お前は本当に幸せになれたのか?」

「こいつを打つと、何も考えなくて済む。眠気が取れて、スッキリする。とにかく、最高の気分になれるんだよ」

 爺さんが頭を傾げて、健一を見た。

「可哀相に・・・。健一、もうお前はお終いだな」

 健一はうつろな目で爺さんを見た。

「うるせえ、ジジイ! さあ、次は振り込みの件だ。爺さん、悪いが、振込金額をもう少し増やしてくれないか」

 爺さんは目を丸くして、叫んだ。

「おい! ふざけるのもいい加減にしろ。この間、十億、振り込んだだろう? もうワシの財産はゼロだ」

「爺さん。世の中には俺よりも金を持っている奴がまだた~くさんいるんだよ。あいつらに比較したら、まだ足りないんだよ。本当はあいつらを全部殺したいんだけどなあ。本当はまだ持ってるんだろ! 全部、出すんだ!」

「健一。もうワシは一文無しだ」

 健一の頭の中に女の声が聞こえてきた、「そいつは嘘ついてるよ。絞め殺しちゃいなよ」という囁きが・・・

 健一はズボンの右ポケット中にあるナイフを握りしめて、それを取り出し、爺さんの首に当てた。

「おとなしくしな、じいさん」

「何、するんだ!」

 爺さんがブルブルと震えた。

 健一は右の口角を上げた。

「あんた、もうすぐ死ぬって言ってだろう? 金はあの世に持っていけないって言っただろう? 残りの金を全部、俺に渡して、あの世に行くんだよ。さあ、家に案内してもらうぞ」

 爺さんの目が恐怖でひきつっていた。

 それから、健一は袖の下にナイフを隠して、爺さんの背中に当てた。

「逃げたり叫んだら、どうなるかわかってるだろ? さあ、出発だ」

 健一はナイフの先を爺さんの背中に突き立てた。

「アウ!」

 爺さんの顔が痛みでゆがんだ。

 健一は口からよだれを垂らしながら、ヒヒヒと笑った。

「さっさと歩くんだよ!」

 それから、健一と爺さんは連れ立って歩き続けた。

 しばらく歩いてから、健一は爺さんに向かって言った。

「まだ、遠いのか?」

「もうすぐだ。あれがワシの家だ」 

 爺さんが右手を上げた。その人差し指の先には、豪邸が建っていた。

 健一は爺さんから鍵を奪い、豪邸に侵入した。

「ワ・・・、ワシの家に行ってどうするつもりだ?」 

 爺さんの声が震えていた。

「金をすべて出すんだ」

 家の中に侵入すると、健一は爺さんの顔面を殴打した。グシャッという音がした。爺さんが廊下に倒れた。その口から赤黒い血が流れ出た。

「アウウウ・・・」

 爺さんが顎を押さえながら、野獣のようなうめき声を出した。

 健一は右足で爺さんの頭を蹴った。

「ウギャー」

 爺さんが悲鳴を上げ、廊下を転がった。

 健一は爺さんのお腹の上に右足を踏み下ろした。グギッという何かが折れる音がした。健一は小さな声でつぶやいた。

「早く金庫を開けるんだ。さもないと・・・」

 爺さんは腹ばいになりながら、廊下を進んでいく。そして、奥まった部屋の中に入り、金庫の前に到着した。

 健一が右手の手の平で爺さんの頬をペタッと軽く叩いた。

「爺さん。一回目のお願いだ。金庫のドアを開けて頂戴」

 爺さんが頭を上げて、左右に振った。

「中にはもう何も無いんだ。もうすべて、お前に渡したよ」

 健一はポケットから100円ライターを取り出した。そして、右手でカチッとボタンを押した。ポッと小さな炎が灯った。健一はライターを爺さんの目に近づけていく。

「あぢいー」

 爺さんが叶切り声を上げ、床をのた打ち回った。

 健一が腰を下ろし、爺さんを見ながら、うつろな目つきで、優しい声で爺さんに言った。

「大丈夫かい、爺さん? 二回目のお願いだよ。お願いは三界で終りだからね。金庫のドアを開けて頂戴」

 爺さんの目が痙攣していた。

 健一が急に立ち上がった。目がつり上がっていた。

「てめえ! これが最後だ。さっさと開けるんだよ! 」

 爺さんが失禁した。しかし、爺さんはお腹を押さえながら立ち上がり、金庫の鍵を取り出して、金庫を開けた。

 健一が爺さんを押しのけ、金庫を覗いた。そして、札束と通帳を見つけて、取り出した。通帳を開き、パラパラと中を見た。

「嘘つきやがって。まだ金はあるじゃなえか!」

 健一はもう一度、金庫の中に頭を突っ込んで、キョロキョロと見渡した。健一は虹色のカラフルな錠剤の入った瓶を見つけた。そして、右手でつかんで、ポケットの中にそっと忍ばせた。

 健一は金庫から頭を引っこ抜いて、爺さんの前に立った。そして、札束で爺さんの額をパタパタと叩いた。

「ここに札束があるじゃない? なに、嘘ついてるんだよ!」

 爺さんが青ざめて、尻を床に付けたまま、あとずさりした。

 健一はパチパチをせわしく瞬きした。目の中に石があるように痛みを感じた。

「じいさん。もうそろそろ、死んでもらうからね」

 健一はポケットに手を突っ込み、ナイフを取り出した。

 爺さんが右手を突き出し、頭を左右に振った。

「やめてくれ。全財産をお前にやるから。頼む! 命だけは助けてくれ!」

「だーめ!」

 健一は左で頭を押さえながら言った。

「だって、頭が痛くて、たまんねえからな。お前を殺すと、頭もスカッとするはずだ」

 爺さんは悲鳴を上げた。

「健一、待て。お前はもうすぐ死ぬんだ」

「俺が死ぬ? また、そんな嘘、言っちゃっていいの?」

 爺さんが両手の手の平を合わせながら、首を横に振る。

「嘘じゃない。今までお前の影をもらってきただろう。それで、お前はワシにいのちのエネルギーを吸い取られてきたんだ」

「ジジイ! それでお前は若返って、俺は年老いて死んでいくっていう訳か?」

爺さんは、笑いだした。

「お前は俺を殺せない。なぜなら、お前はもうすぐ死ぬ。お前は自分の欲望のために、自分の影をすべて失った。その結果がもうすぐ現れるはずだ」

 その時だった。健一の心臓がドキンという音を立てた。健一は心臓を押さえた。次いで、呼吸ができなくなり、喉がピリピリと痙攣した。健一はその場に倒れていった。

「ウウォー」

 健一の喉から異様な音が漏れてきた。

 健一は右手を爺さんの方に突き出した。

「た・・・、助けてくれ。救急車を・・・頼む・・・」

 爺さんはゆっくりと立ち上がり、両手で体の埃を払った。そして、倒れている健一を一瞥した。

「どうだい、死んでいく気分は?」

 健一は口を開けて空気を吸い込もうとするが、うまく呼吸ができなかった。全身が震え、口から涎が流れ出ていく。

 爺さんは健一を見下ろした。

「お前は金さえあれば幸せになれると言ったな。それで、           どうだったんだ? 今、お前は幸せなのか? 金さえあれば幸せになれたのか?」

 健一は薄れていく意識の中で考えた、「幸せか? 幸せって何なんだろうな。幸せって金で買えるんだろうか?」と。

 健一は顔を上げて、爺さんを見上げて、首を左右に振った。

「じ・・・、爺さん」

 爺さんはうなずいた。

「健一。金はほどほどあるというのが、いいのかもしれないな。あり過ぎてもいけないし、なさ過ぎてもいけない」

 爺さんは顔を上げて天井を見上げながらつぶやいた。

「金は必要だ。金なしでは生きられない。なぜなら。人間は食ったり飲んだりしなければ生きていけないからだ。また、住むところも必要で、着るものも必要だ。とにかく、金は必要だ。しかし・・・、金で買えないものもある」

 健一は目をつむったまま、軽くうなずいた。

 爺さんが両腕を胸の前で組んだ。

「健一。人間は金さえあれば生きていける・・・というわけでもないようだなあ」

 健一はゼエゼエと呼吸しながら、つぶやいた。

「そいつは、むつかしいなあ・・・」

「そうだなあ。人はとかく、『今よりもう少し金があったら、幸せになれるのに』と思ってしまう。そして、自分より多く金を持っている他人を見て、『うらやましい』と思ってしまう。しかし、雨のように大量の金が天から降って来たとしても、人は幸せになれないかもなあ。健一。考えてみるんだな、『幸せとは何なのか、そして、金で買えないものとは何なのか』ということを・・・。そして、自分の欲望をすべて満足させようとするのではなくて、自分の欲望自体を適切なものに変えていった方がいいかもなあ」

 健一は目を閉じてまま、静かにうなずいた。

 健一は思った、「自分の思い通りにならないこともあるということを受け入れた方が良かったかもなあ・・・」と。

 爺さんは口を押さえて、首を左右に振った。

「おっと。こんなこと言って、悪かったな。こんなこと、今更お前に言っても仕方ないな。もうすぐ死んでいくんだから」

 爺さんは健一の鞄の中をあさり、健一名義の通帳を取り出した。そして、両手で通帳の端をつかむと、両手を左右に大きく広げた。通帳がビリビリと音を立てながら、二つに分かれていく。爺さんは何度も通帳を切り裂き、粉々にしていった。

「ウォオー。お・・・、俺の金が、き・・・、消えていく・・・」

 健一は口を開けて息を吸おうとしたが、できなかった。呼吸が停止した。心臓のドクンドクンという音が、ゆっくりと波打つようになり、そして、その音が小さく弱くなっていく。

 健一は薄れ行く意識の中で、思った、「あ~、もうじき俺は死んでいくんだな・・・」と。

健一の頭がガクンと倒れ、床に転がった。

 爺さんは健一が動かないのを見て、つぶやいた。

「くたばったかな?」

 しかし、健一はまだ死んでいなかった。健一はボーッとした意識の中で考えていた、「俺はもうすぐ死んでいくんだろうな」と・・・。

健一は夢を見ていた。夢の中で健一は恵子と一緒にレストランにいた。健一はポケットから小さな箱を取り出し、それを開けて、中から指輪を取り出した。そして、恵子の左手の薬指に指輪をはめようとした。しかし、恵子は椅子から立ち上がった。そして、右手の小指を立てて、健一の顔の前に突き出した。

 恵子の声が聞こえてきた。

「健ちゃん。小指をからめて、薬を飲むのよ」

その瞬間、健一はパッと目が覚めた。

 健一は、最後の力をふりしぼった。右手をポケットに入れ、ナイフを握りしめた。そして、全身に力を入れ、立ち上がった。爺さんが顔をゆがませ、あとずさりした。健一は爺さんに走り寄り、左手で爺さんの首根っこを羽交い絞めにして、右手でナイフを爺さんの首元に当てた。

「右手の小指を出せ」

 爺さんは動き回り、逃げ出そうとする。健一はナイフを一旦、床に置いて、右手で爺さんの腹部を殴りつけた。「グボッ」という鈍い音がした。爺さんは意識を失い、倒れた。

 健一は、ズボンの左ポケットから虹色の錠剤の入った瓶を取り出した。そして、瓶の蓋を開け、瓶を傾けて多くの錠剤を左の手の平に盛り上げた。さらに健一は右手の小指を爺さんの小指と強くからませた。そして、そして、左手の錠剤を自分の口に押し込み、ゴクリと飲み込んだ。錠剤が喉を通り過ぎる時に吐き気が襲ってきたが、健一は無理やり飲み込んだ。

 そして、健一は大声で歌った。

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 健一は歌をうぶやきながら、小指を上下にゆっくりと振った。

しばらくして、爺さんの小指から右手の小指に熱が伝わってきた。全身が震えて始めた。健一は意識が朦朧となり、やがて薄れていった。

健一は、目を大きく開き、辺りを見渡した。爺さんの豪邸だった。爺さんが近くに倒れていた。健一は爺さんに近寄り、自分の顔を爺さんの口元に寄せた。「スーツ、ス~ッ」という呼吸音が聞こえてきた。

 健一は思った、「爺さん、生きてるんだな。それにしても、あっという間に皺くちゃになっている」と。

健一は金庫を見た。金庫の扉は開け放しだった。

しかし、健一は後ろを向いて、歩き始めた。そして、健一は爺さんの豪邸を出て、いろほ商店街に向かって走り始めた。

体中がギリギリと痛んだが、健一は走り続けた。

長い間走り続け、健一はいろほ商店街のボロアパート・かつみ荘に到着した。階段を上り、恵子の部屋の前に立った。

健一はドアをドンドンと叩き続けた。

「恵子! 恵子!」

 健一の目から涙があふれ出ていた。

 恵子がドアを開けた。

 健一は恵子を抱きしめた。


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