生存戦略、始めます 後
「私は、おにいさまと帰ります」
そう、声に出した途端。
硝子がひび割れたかのような甲高い音が弾ける。
同時に、ローザリンデの周囲で光の、鎖のようなものが原型を留めることもできずに飛び散っていった。
――これから長く、アーデルハイトになっただろう自分を操ってしまう、聖母を関した忌まわしき鎖である。
この光景もまたゲームで見たことがあった。
鎖に拘束された対象者は強烈な呪詛によって洗脳され。
人ならざる者と交わってきた魔性たちがその身に宿すエネルギー、すなわち魔力を縛り意のままに操ってしまうもの。
ローザリンデには必要のない戒めが消し飛び、ローザリンデになった自分へと、体のコントロール権が戻ったようだった。
「……ロゼ、おまえ……」
どこまでも深く、青い。
けれども夜明けを告げるような、黎明の色に星々の輝きを散りばめた兄の瞳が呆然と見開かれる。
その美しさはかつて、画面の向こう側にいた自分が。
まだ幼いローザリンデが、そのそば近くで見ていたもの。
竜の血を引くツェントルム――すなわちエーデルヴァルトを治めてきた一族は、守るべき宝物と定めたとき。
それに執着し、守り、慈しみ、独占しようとする。
物語の最中にあったアーデルハイトは、ツェントルム特有のその性質に苛まされ、けれども兄を討たねばならぬと二律背反の想いによって心身を疲弊させていた。
(……もう。そんな必要はないのだと言ってあげたい……自己満足でしかないけれど)
たたらを踏むように、エルンストがゆっくりとローザリンデとの距離を詰め、そっとその腕の中へと抱きあげられていた。
何かを確かめるような強さで、ローザリンデへとまわされた腕の力が強まる。
それを拒むには、あまりのあたたかさに思わず涙が滲みそうなほど安堵を覚えてできそうにない――。
「ローザリンデ……まさか、破ってくれるとは……」
万感の思いが込められているかのような、安堵の滲む、かすかに震えた声で告げられる。
そうさせたのは間違いなく、ローザリンデが打ち破った術が強力無比なものであるからだ。
ひとの命さえ使われた術式が、数世にわたる策謀の叡智が。
たったひとつ。
予期せぬローザリンデの前世を思い出したが故のイレギュラーにうち崩されたのだ。
それ以外に、あの術を破る術はなかったのかもしれない。
魔性たちの頂点に経つとは言え、エーデルヴァルトも一枚岩で固められているわけではない。
代替わりの余波は激しく、未だに軌道に乗ったとは言えない時分。
だからこそ、マリーア教団は絶好の機会を逃さぬようにと水面下から身を乗り出し、ローザリンデを引きずり込もうと画策したのだ。
「おにいさま……わたしは、いままで……」
「……何も言うな、ロゼ。ローザリンデ。おまえさえ戻ってきてくれるならば、なんだって良い」
冷たく凍てつき、心さえもが氷に閉ざされた皇帝陛下。
ローザリンデがよく知っていたはずのその人はいま、どこにもいない。
子供でしかないローザリンデの姿と比べればひとまわりは歳が離れているはずであるのに。
迷子のような、どこか頼りなく眉尻を下げて微苦笑を浮かべるエルンストが見ていられない。
もう二度と、どこにも行ったりはしない。それがどの自分が思った感情であるのかは考えない。
過ったものは本物で、作られたものではないとわかっていたから。
そっと腕を伸ばして、エルンストの首筋に抱きつく。
決して、このひとを一人にしたりはしない。
傍にいるのだと告げるように。
「っロゼ……!」
「アーデルハイト様を放せっ……!」
けれども、穏やかな瞬間は長くは続かない。
突如として放たれた閃光が二人の間を裂こうとし――だが、エルンストの強大な魔力によって編まれた防護壁が甲高い破裂音を立てながらも相殺する。
力の強さを誇示するかのように、奇襲を受けたにもかかわらず防護壁は威容を保ったまま健在であった。
その結果に一瞬呆然としたようだったが、乱入者――ランベルトはすぐさま立て直しを図り、「アーデルハイト様!」とローザリンデを再び洗脳の鎖に絡めとろうとしていた。
「……ランベルト、あなた……」
「その男が何をしたか、お判りでしょう! 行ってはなりませんっ……!」
慟哭のような叫びがローザリンデに浴びせかけられる。
鎖に繋がれたままであったのならば容易く信じていただろう言葉であった。
だが、もう、ローザリンデは知らなかったはずのものを知っている。
エルンストの足元に築かれてしまった死の丘は、彼がやりたくてやったわけではないこと。
おぞましい教団の実験の結果、人間であったはずの彼らは人間に戻ることもできず、肉体を朽ちさせて尚も生き続けなければならなくなっていただろうことを。
いずれは周辺の領地に住まう者らに仇名す怪物と成り果ててしまう――そうなる前に、エルンストはまだ『人』であった彼らに慈悲という名の眠りを与えたに過ぎない。
それこそが一介の司祭でしかなかったランベルト・ダールマンに与えられた命令の果てであった。
無辜なる民らがいたひとつの村を犠牲にし、魔性の王を引きずり下ろす術を手にいれた功績が、ランベルトを枢機卿候補、という地位にまで進ませたのだった。
同じ人の姿をしたもの同士であるというのに――。
あまりの嫌悪感に吐き気がする。
忌避感が勝ってエルンストに身を寄せれば、心得たと言うようにエルンストが身につけていたマントの中へと抱き込まれ、幾らかランベルトから距離を取ってくれた。
「……おにいさま」
「大丈夫だ、すぐに終わらせる」
「何故っ……アーデルハイト様!」
「……なぜ、ではなかろう。貴殿らは我らとの約定を破った。故に我らの薔薇を然るべき元へと返して頂く、それだけであろう?」
エルンストが腕を横薙ぎに一閃する。
それだけで暴風のような圧力がランベルトをエルンストとローザリンデから遠ざける。
瞬きも許さぬ間隙をついて、敵との防壁であるかのように。
ローザリンデは精緻なる紋様越しにランベルトを見ることになった。
その美しくも幾何学的な。中空に浮かぶ其れ等はいくつもの形を成し、やがては歯車のように連結してその全容を浮かび上がらせる――。
「ヒィ!」
引き連れたようなランベルトの悲鳴すらどこか遠く、ローザリンデは光り輝く魔力を帯びた結晶。
魔法を発動させしその方陣に目を奪われた。
方陣を構成するひとつひとつが意味ある文字、形をし。
それらの複雑性こそが極致にいたる魔法の発動を意味し、予兆であるかのように読めぬ文字が、図形が光の粒子をまとわせながら踊っている。
その幻想的な光景が魔力の叡智。
魔法であることを、ローザリンデは知っていた――。
天へと向けられていたエルンストの腕が上から下へと振り下ろされた刹那。
美しき数式たちが解を見せるように弾け飛び、あたり一帯へと夥しい数のいかずちを降らせて雷光をもって敵という敵を貫かんとする。
視界を焼く光に遅れてがなり立てるような雷鳴が響き渡ってようやく、光と音を急激に収束していった。
大いなる力の発現は凄まじく、辺りは雪原から焼け野原となさしめたようだった。
「……逃げ足の早い男だ」
「おにいさま……ランベルトは……」
「逃げたようだ。けれども諦めないだろう、あれは……」
ゆっくりと地面に降ろされ、あたりを見渡す。
先ほどまであった人たちの亡骸さえも消し飛んでいる。
それに思うことがないわけではないが、土葬が基本のこの世界では彼らを綺麗に埋葬してやることもできない。
彼らの遺体が残されて、野生動物が万一にも食料としてしまうことがあれば。
間違いなく、二次感染の被害にあうのだと目に見えていた。
だからこそ、この村は焼き放たれたのだと、ゲームのシナリオを覚えているローザリンデには知っていたことだ。
「今は帰ろう。我らの家へ……」
「……はい、おにいさま」
ローザリンデが何を思ったのか、悟ったのだろう。
見上げたエルンストの表情は何も浮かべてはいない。
けれども、どこか痛そうに瞳を揺らめかせていればそれ以上に何かを告げたり問うことは憚られた。
差し出された手を握った途端に、安堵から腰が抜けたように膝から崩れ落ちる。
そのまま気を失ってしまったのだと気づいたのは。
エーデルヴァルトの首都にある居城に戻ってきて、何日も経過した後であった。