燃えてほしかったけど燃えてほしい訳じゃなかった
――熱い。そして痛い。
刺されたのだからそれは当然だろう。
思って、振り絞るように瞼を開ける。もう二度と目が開かないとさえ感じたからだろうか。
思ったよりも簡単に開いたことに驚きながら、どれくらい意識が飛んでしまったのだろうかと考えを巡らそうとして、はくり、と唇が瞬いた。
「え」
奇しくも、よくわからない凶刃に晒されたときと同じ言葉が漏れた。
ところで『ミホちゃん』とやらは誰だ。
もしかして勘違いで刺されたのか、と余計な事に意識をしてしまうのは、目の前の光景が見知った自室や、命が助かったならそこにいるだろうリノリウムに覆われた病院の一室などではなく。
知っているような知らない、場違いにも程がある景色の落差に混乱しているからだろう。
不吉そうな西日の赤さはそこにはない。
けれども別の赤色が揺れ踊り、はらはらと降り注がれるものは灰で、落ちていく端から可燃物を探して燃え広がっていく――。
「燃え……? え、どういうこと……! 本当に燃えてる!? 熱い! 痛いっ!」
座り込んでいたらしい体勢から慌てて立ち上がり、ばさばさとかさばる綺麗な布地と重なるレースに顔を顰める。
動きやすい愛用の黒スウェットはいずこに行ったのか。
ここ何年も着ていないスカートのような、ワンピースのような、けれどもずっと繊細にできているだろう少女めいた服に顔が引き攣ったのだ。
服飾に興味がないわけではないが、そこにお金を注ぎ込み自分磨きをすることに意義を見いだせず、結局はゲームが好きだとそちらにばかり目を向けていた。
そんな自分であっても物の良し悪しはわかる。
人の手がふんだんに掛けられていそうな衣服の修繕にいくら掛かかってしまうのか。
考えただけでも恐ろしい事実で頭が飽和してしまいそうだ。
刺されたときに思いついた、燃やして欲しいとかなんとか冗談のようなものが実現していることに意識を飛ばしかけるが、寸でのところで思いとどまった。
このままでは本当に死んでしまう。刺殺からの焼死とか冗談じゃない!
考えている暇があるかと立ち上がろうとして、失敗してしまう。
想像していたよりもずっと小さい手足に見誤ったせいだった。
呆然と自分の体を見下ろして、ずいぶんと縮んでしまった両手に絶句する。
どうりで、周囲が大きく見える――。
関心しかけて、それどころではないことにまた慌てて、だが今度は慎重に立ち上がる。
そのまま扉のありかを見渡して、見つけた方へと駆け出した。
ほとんど体当たりするような形で扉を開けることはできたが、そのまま何かとぶつかってしまい、小さな体はあっけなく吹き飛ばされて尻もちをついてしまった。
「アディちゃんっ! よかった、君は無事だね……?!」
衝撃と痛みに耐えていれば、声と共に抱き起こされて、燃え盛る小屋から外へと連れ出される。
呆気に取られて、抱き上げた人を見やれば壮年と言うには少しだけ若い男の人であった。
日本人には少ない彫りの深い顔立ちに茶色に近いくすんだ金髪の、聖職者が着るようなカソックを身にまとっていて……どこか、既視感のある。
それよりも、『アディ』……、とはなにか?
そう過った瞬間、静電気みたいな唐突さで激しい頭痛が通り抜けて、何も考えなくさせようとする――。
「ランベル、ト……?」
「ああ……アディちゃん……いえ、姫様。冷静にお聞きください。あなたの兄上様が……」
あまりの痛さに思わず手をやれば、口から意図せぬ言葉が転がり出ていた。
そう、目の前にいるひとはランベルト。ランベルト・ダールマン。
とある、看過しがたい功績により、マリーア教の枢機卿になると目されている人物。
いまこの時はただ一介の司祭でしかないはずであるのにもかかわらず、異様な大抜擢であるのは誰の目から見ても明らかであっただろう。
「おにいさま……? ランベルト、一体おにいさまに何があったの……!?」
脳裏に過っていった、今この時の『わたし』には知らない情報は、ランベルトに告げられた『兄』という言葉であっけなく掻き消えてしまう。
それどころか、先ほどまで動かせていたはずの体の制御が効かず、ゲームのイベントムービーを見ているようにコントローラーの制御を外れたみたいに『わたし』の意識を無視して勝手に動いていた――。
「エルンスト様がご乱心されたのですっ……村だけでなく、村人たちにまでエルンスト様が手をかけられました……!」
「うそ……うそです、おにいさまはっ!」
「事実です! だからあなたをこの小屋に監禁したのですよ、アーデルハイト様!」
「信じません……っ! だっておにいさまは……!」
「っアーデルハイト様! 行ってはなりませんっ」
ランベルトの腕を振りほどいて、アーデルハイトは走り出す。
見渡す限りの雪原と樹氷の木々は見るも無残に、その白さを失い、高温度で急激に熱されて吹き飛ばされたかのようにえぐれている。
こんなことができる人なんて限られている。けれども、そんなはずはない。
あの人が。彼が。『おにいさま』が、こんなことをするはずなんてない!
――嘘だと、思いたかった。
あり得ない。
そんな、漫画みたいなことを。自分ではない自分と混ざる感情に思考が追いつかない。
吐き出す息でさえ重たく、冷たい空気とままならない呼吸に肺が痛む。
それでも、足を止めることはできなかった。
当てもなく走っている最中に、前方から近いところで大気が揺れ、轟音が鳴り響く。
いかずちでも落ちてきたかのようなそれに、否定は徐々に確信へと至ろうとして――。
「おにいさま……っ!」
声の限りに叫ぶ。
今やもう、雪の大地はその白さを踏みにじられ、汚泥に汚れて見るも無残な場所で天を仰ぐひとへ向かって。
はたして、彼は振り返った。
星明かりに染め抜かれた銀色の髪を濁った赤いまだら模様に塗り替えて。
夜空に瞬く光を散らばせた青き瞳は遠く、強大なる力を迸らせた残滓である赤きものへと為さしめながら。
彼の足元に築かれたものらはもう。
予想どおりに、生きた温度をしていなかった。
――そう。
この村に住まう者らとその裏で糸を引いていた者たちが。
兄――エルンストだけではなく、人と魔性とをつなぐ帝国との約定を恥知らずにも踏みにじったからだ。
けれどもそのことを、アーデルハイトはこの時、知る由もなく。
エルンストと対立する者たちの思惑通りに動かされている駒に過ぎなかった。
「っおにいさま、これは、いったい……」
「アーデルハイト……いや、ローザリンデ。おまえの自由な時間は終わった」
戻るぞ、と言外に告げられ、アーデルハイトは目を見開く。
体に走る震えは寒さのせいだけではないのだろう。
見知った顔の、親友とさえ誓い合った少女が兄の足元で無造作に転がっていたのだ。
兄だってそれは承知であっただろうに。
話もした。
手紙にだって書いた。
信頼していたひとが裏切った――そう、思い込まされるには充分な出来事であった。
「ミアは……? どうして……? ミアに何をしたのですか、おにいさまっ!」
「……第一級の罪を犯した。それだけだ」
その罪の詳細がなんであるのか。アーデルハイト、否。
ローザリンデが知るのは彼女がもうすでに、取り返しのつかないところへ行ってしまった後の事だ。
兄と仲違いを仕組まれ、良いように扱われ。
英雄という名の奴隷として。
マリーア教の先兵として人間側の矢面に立ち、役に立たなくなれば教団の敵として追われることになった時だった。
ローザリンデが兄と慕う彼、エルンストはそのことを幼き婚約者へと告げるのは酷だと判じたのだろう。
彼と彼女の運命は、どこで間違えてしまったのか。
「わたしはっ……!」
行きません、と悲鳴に成りかけた言葉を吐き出そうとしていた口元を慌てて抑える。
それだけはしてはいけない。
最終的に向かうことになる、先ほどまで触れていた死に触れたくない一心で。
暴走していたアーデルハイトを。
知らない未来を知る者が止めたのだ。