悪役令嬢とトラベル・トラブル・ツアー (1)
穏やかな気持ちでカップを傾け、そろそろお開きにしようかという頃合い。
風にささめく樹々の他には静寂さで構成された庭を壊すように。足早な様子でこちらへと向かってくる気配がする。
どこか言い争いのような、けれどもそこまでではないような。
騒がしい様子にディアナの気配が少しだけ剣呑さを含んだ気がした。
明らかなトラブルの匂いに、巻き込まれることを予見して早々にここから立ち去りたい気になるのだが。
わざわざこちらがこそこそとする意味もないし、護衛の都合上、ぞろぞろと人を引き連れては喧騒と鉢あってしまうだろう。
どうすべきか、と思いつつも喧騒は真っ直ぐこちらに向かってきているようで、思わずディアナと顔を見合わせてしまった。
一体何が――そう考える間もなく、静止の声を振り切ってきたらしい一人の少女がローザリンデたちの前に姿を現したのだった。
「……貴方がローザリンデ姫?」
じろじろと遠慮のない値踏みの視線が、ローザリンデの上から下まで容赦なく機械のようにスキャンされた気がした。
ディアナも美女であるが、この少女は趣きの違う美がある。
見事な金髪は長く伸ばされ、ハーフアップをベルベットのような青地に銀のレースがたっぶりと使われた大きなリボンで括られている。
そのリボンの豪奢さに負けず劣らず、白金のようにも見える金髪は丁寧に手入れされているようで艶やかさを示すように光を弾いていた。
鮮明な色を宿した碧眼。白磁の肌。人間味を感じさせない、人形のように整った顔の造形。
どこか、既視感を覚える。
それこそ、ツェントルムに連なる何者かであるような――。
「……ええと、そうですが」
「では。兄さまとお二人になったとのこと……本当でしょうか?」
憎悪さえ覚えるような。底冷えした目で、彼女が言う。
何を問われたのかが不明で首を傾げてしまった。兄と言われて思い浮かべるのはエルンストであるだが、流石にそれは違うだろう。
エルンストに直接的な妹はいない。母親のことを踏まえても一番近い妹、と言えばローザリンデだけだ。
そも。皇族は四人だけでローザリンデ以外にはいない。他の女性皇族は軒並み流行り病で眠りから覚めなくなってしまったはず。
「……失礼ですが、姫殿下がどなたかとお一人でお会いになることはございませんが」
「アウグスト兄さまとお会いしていたのでは? お一人だったとわたくしは聞き及んでおります」
知っていますわ!、といった感じでより鋭く睨みつけられて、その冷たさと皇族に連なる容姿でローザリンデは彼女がどこの誰かを漸く思い出せた。
既視感の正体はなんてことない。彼女がゲームの登場人物であるからだ。
彼女はノルデンベルク公攻略ルートやエーデルヴァルト帝国の主要エピソードに登場する重要キャラの一人。
――悪役令嬢にしてヒロイン、ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴァーツェル。
ノルデンベルク公の婚約者であり、妹分であるヴァーツェルの分家筋にあたる姫君。
そしてノルデンベルク公が慄くほどのヤンデレを患っている人となりであり……ローザリンデにとって朗報であるのは、ヴィルヘルミーネとの関係によってはノルデンベルク公を軟化させる人物でもあることだろう。
ゲーム内では主に彼女は二通りの立ち位置になる。ノルデンベルク公を攻略するか否かによってどこに立つのかが決まるのだ。
ゲームの主人公であれば、と枕詞がつくが。その中で選ぶにローザリンデは実質一択になる。
ノルデンベルク公を攻略せず、ヴィルヘルミーネをノルデンベルク公とくっつけるキューピットルートだ。
「あの……ディアナの言う通り、わたしは皇太子殿下の婚約者です。基本的に殿方と二人きりにはならないようにしていますので……」
「……そうなのですか?」
それまでの剣呑な雰囲気が少しだけ弱まり、不思議そうにヴィルヘルミーネが首を傾げる。
あまりの無防備な様は、普段エルンストと鏡に映る自分を見慣れつつあるローザリンデの目を引いた。
(……面食いだったなぁ、わたし。今更だけど)
こんな時に強くツェントルムの遺伝を感じてしまう。
気に入ったものにとことん執着するという、竜の習性とでも呼ぶべきもの。
お兄様の瞳に特別入れ込んでいる自覚はあるが、ローザリンデは主にきれいなものに対して発揮されているらしい。
攻略云々を抜きにしても、ヴィルヘルミーネに肩入れする理由にはなるだろう。
「……お名前をお聞きしても?」
「! 失礼を、姫殿下。ヴィルヘルミーネ。ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴァーツェルです」
「ああ、それでは、ノルデンベルク公の。でしたらやはり、このディアナと共にお会いはしましたが、二人きりではないですね」
ローザリンデの弁明に何か考えた様子ではあったが、納得はしてくれたらしい。
「……申し訳ありません。こちらの事情で先走ってしまいました」
「いえ。誤解が解けたようで何よりです」
「お時間を取らせました。御前、失礼いたします」
丁寧に頭を下げて謝罪するヴィルヘルミーネにディアナもほっとしたのだろう。
張り詰められていた空気が霧散したこともあり、頷きをもって返礼にする。
廊下の奥からかけよってくる喧騒は騒動の原因であったヴィルヘルミーネが対処するだろう。
けれども証人が必要だろうかと思い至って、茶席から離れてヴィルヘルミーネの後を追おうとし。
――聞き馴染み始めた音が、弾け飛んだ。
何がきっかけであったのか。
足の裏から背筋を悪寒が走り抜けていく。
驚いたように振り返るヴィルヘルミーネも、当事者になろうとしていたローザリンデにも事態の把握は出来なかった。
「姫様っ! ヴィルヘルミーネ様!」
ディアナの決死の呼びかけはもう、遠い。
ローザリンデとヴィルヘルミーネを覆うように銀の光芒が円を描き切る。
中心点には十二の円が時計のように浮かび上がり、それを追うように二本の長短を示す針のような文様が浮かび上がる。
唐草のようなものが装飾された途端に、魔法特有の発動音がかき鳴らされ――。
東宮の庭から、二人の少女は忽然と姿を消したのだった。