幕間:北風の憂鬱
星を、見た。
あるいは太陽のような、誰にでも目に映る極星であったろう。
天に輝きあまねく地上を照らす、ある種の暴力と言っても過言ではない。
これは、裁きの光だ。
誰の目に記憶されることはなくとも。
いずれ振り返った己の記憶でしか存在しえないもの。
一歩間違えばアウグストですら死へと誘う圧倒的な力であるのに。
そのきらめきは尚も衰えず、遮ることもできずにこの身の深くまで貫いたのだ。
冷酷にして苛烈。
しかし、慈悲深ささえ覚えた。
これ以上に先はない絶望よりもずっと。
これよりも先に苦痛がないことを、暴虐の力を振るったひとからの褒美として受け止めるに易い。
背筋を震わせるのは畏怖だ。
手が揺れるのは賛美で。
処理が追い付かない感情が何を示すのか、今この時に理解できなくとも。
まだノルデンベルクではなかった時の、領主の息子でしかなかったアウグスト・フォン・ヴァーツェルであったのだから。
その上に立つ皇帝がこのひとであるのだと、そう刻まれたのは仕方のないことだった。
(エーカーくんは信奉され慣れてて気づいていないだろうけど……)
アウグストが生涯をかけて仕えると決めた主。
エーデルヴァルトの称号を得る前のエルンスト・フォン・ツェントルムに出会ったのは、彼が国中を旅していたころ。
ノルデンベルクを繋いできたヴァーツェル家をはじめとして、北の大地に凶事が訪れていた時であった。
流行り病と言う名の人界からの呪いがノルデンベルクを水面下から躍り出し、北の地には夥しい血が海を作り出すのではないかと揶揄されるほど吹きあふれた。
その被害は尋常ではなく、断絶による取り潰しになった家は数知れず。
その中で失われてはならない古い血脈が幾つも潰え、ノルデンベルクはそのまま人界からの兵力を持った侵略を受ける寸前の、危うい拮抗の上に立たせられていた。
それを押し留めるどころか奸計を打ち返したのが、遊学中だったエルンストだ。
呪いに侵されていた北の民たちは魔法を扱うこともできず、蹂躙されるのを待つだけになっていた。
それらすべてを救い上げ、病魔すらも退けたエルンストの魔法は神の御業と称しても足りぬほど、あの困難と絶望の中にあったノルデンベルクに住まう者たちは盲信して余りある。
天は。
永遠なる青き森におわす中央に君臨せし者は北の地を見捨てなかったのだから。
北を支える大樹の根でありながら、不甲斐なくも北を人間たちから守ることが叶わなかったアウグストに、エルンストは乗り切ったことを次代のノルデンベルクとして褒め称えた。
それがどんなにアウグストを守ったのか。
我が皇帝陛下は知らないだろう。知らせる気もなかったが。
そう。だからこそ。
もう二度と、彼の不利益になることをしたくはない。
彼を煩わすものすべてを遠ざけて、彼の安寧を願ってやまない――。
それを脅かすものが彼が手中の宝玉として慈しむものがそうでなくなるならば、どれほど彼に恨まれようとも排除することも辞さない。
(……だからこそ、彼女を見過ごすことはできない。上手く逃げたとしても……)
ヴェルトラオムの西側にあたる宮は、エーデルヴァルトを回す執務の場として使用されている。
その中のヴァーツェルに割り当てられた滞在用の離宮で思索にふけりながら、顔を合わせた少女をどうすべきか、と結論の出ないことを考えては溜息を落とす。
考えても仕方のないことではあるが、エルンストに害あることを察知できなかったことの方が失敗だったかもしれない。
しかも自分の守護する領域に近しい場所で起きてしまった出来事だ。
ここ数日は帝都での仕事をすると決めてはいたことであるが、乗り気でなくともそろそろ一度は領地に戻るべきだろう。
いつ御前を辞すかに憂鬱さを覚えていた時だ。
「兄さま!」
突如として居室の扉が開け放たれ、思わず手にしていたカップを落としそうになった。
聞き覚えのありすぎる声に違っていてほしいと思いつつも恐る恐る視線を向けるが、アウグストの希望は叶えられることはない。
「……ヴィルヘルミーネ? どうしてここに……」
「アウグスト兄さまがいつまでも戻らないからですわ」
「……あー……うん」
胸を張るように腰に手を当てて答える、アウグストの婚約者――ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴァーツェルに、思わず引きつったような声音で回答を返してしまうのは。
アウグストが彼女を最も苦手な人物としているからである。
領地に戻るのを取りやめようとしていたのも、ノルデンベルクに戻ればヴィルヘルミーネと顔をあわす頻度が高くなるのを懸念してのことだ。
ヴィルヘルミーネはヴァーツェルではあるが、分家の出で兄妹同然に育った仲だ。
昔は良かったのだが、いつの間にやらアウグストに恋をしたらしく。
アウグストの後を追い、アウグストの関心を買おうとあれこれすることに従事している。
その中にはアウグストが係わった女性に対しての嫌がらせなども含んでいる。
注意をしても一向にやめようとしない。
けれども、彼女を心底嫌いになるには情が勝ってうまくいかない。
幼い日の綺麗な記憶に住まう彼女を覚えているせいで、強く言い聞かせられないでいる。
「兄さまが戻られるまで、またお世話させてくださいませ」
花が咲いたように可憐に笑う彼女は、歳を重ねるごとに綺麗に、美しくなっていく。
先祖返りでもしたかのような、ノルデンベルクに混ざるツェントルムの血脈を感じさせてならない。
あいにくとその瞳は皇族の瞳ではないが、青い瞳と夕陽を宿したと言われるノルデンベルクの血筋に珍しい白金に近い金髪が合わさって、精巧に造られた人形のようとさえ思わせるのだ。
はっとさせるように美しいヴィルヘルミーネ。彼女を大切にして、素直に婚姻できるならそれでよかった。
けれども、優しくて思慮深かった彼女は。北の地に吹き荒れた凶事と共にどこかへ行ってしまった。
そう思わせてならないのは、それ以来の彼女が変質してしまったせいだ。
北の守護者と言われているはずのアウグストであるが。
たった一人の女性に振り回されているだなどと。
吐き出したくなる溜息を押し留めて、あいまいに笑うことしかできなかった。