北風と遭遇したようです
皇太子が住まう皇城の東宮の奥、婚約者であり、いずれ皇太子妃になるローザリンデが居住している離宮がある。
東宮の一角に離宮とは別に賜った建物があるのであるが。
皇城全体の規模となると一つの大きな町をすっぽり収めても足りないほどの規模で、端から端まで歩くのに一日はかかると言われるほど大変なせいか、宮と宮の移動に馬を常備していたりする。
そのため、皇城に務める者たちの選抜には馬が扱えること、健脚であること、などといった条件があるとまことしやかに市井の間で噂されているらしい。
何代か前。
かつてのエーデルヴァルト皇帝のひとりに、大規模な後宮を築き上げるほど精力的な人物がいた。
その皇帝は細く長く生きてきたツェントルムを増強しようと、十や二十では足りぬと長い生を持ち出し、それこそ数百人だかの寵姫を設け――けれどもその数に比例することはついぞなく。
胤は広がらないまま、無駄に広い建造物が乱立された後宮のみが残されるという逸話がある。
後宮帝と揶揄された形で民草に語り継がれるほどの、皇族としては隠しておきたい醜聞であるのだが。
帝国どころか人界にまで手を伸ばしてしまったツケは重く、公然とした歴史として刻まれてしまっているせいもあり。
皇史に記すにしても表には載せたくない、情けない歴史を消すことはできなくなってしまったらしい。
だが、その醜聞も益がなかった訳ではない。
それまで漠然としか知られていなかった皇族の血脈の対する疑問の幾つかを、彼の皇帝は周囲の嘲笑と共に多大な犠牲をなして証明したのだから。
ツェントルムの血に宿る竜の魔力は生半可な血では受け止めきれず、結果として精を受け止め芽吹かせた者は。
ツェントルムにごく近いものでなければ、悉くが根腐りを起こしたように。
果実を熟れさせることなく、実らないまま母体ごと枯れさせる。
それ以来。
ツェントルムは細く長いまま、極力ツェントルムの中だけで血を残すようにと定められている。
エルンストとローザリンデ、従兄妹同士ではあるが二人の母親が一卵性の双子という、殆ど異父兄妹と変わらぬ出自であるに関わらず、婚姻を結ぶことになったのはそう言った事情から来るものだ。
でなければ余りに血が近すぎる。だが、他に人選はない。
エルンストの父である皇帝陛下はもはや表には出てこれない。
延命治療を施し、隠れる都合の良い日を待っているような状態だ。
皇族は現在認定されている数だけで言えば現皇帝陛下を除いて四人。
エルンストとローザリンデを更に除けば二人しかおらず、どちらも男性だ。
それ以外となると精々がツェントルムに近い筆頭公家の西を除く三家になる。
だがそれも近いうちに二家は撤廃されるだろうほど、血は薄まってきている。
西の領地を治めるヴェステンシュテルンはオステンヴァルトに次ぐ歴史を持つが、彼らの血にツェントルムはあまり注がれていない。
長い歴史から見ても数人ばかりが降嫁したぐらいで、皇史上でヴェステンシュテルンからツェントルムに入ったことは一切ないのだ。
血が薄まってきている二家にあたるノルデンベルクとズューデンブルグはそれぞれの事情で一族の数が激減しているため、立て直しが急務で皇族に差し出す余裕がない。
ツェントルムに数があればツェントルムから降嫁させるべきだが、肝心のツェントルムにも女性皇族はことごとく早世を期してしまい、次代を成すためにエルンストとローザリンデの婚約は覆せないのだ。
残ったオステンヴァルトはその家の在り方からツェントルムに来やすく降嫁しやすい血筋であるが、エルンストとローザリンデの間に成した子のためにあてがわれるかどうか、と言ったところだ。
とかく。そういった経緯で帝都にそびえるヴェルトラオム城は権威を維持する目的もあって縮小することなく、拡張されたそのままの威容を保っている。
もちろん内部は古くなった建物類を整理はしているのだが、それでも数を減らした皇族の数にあっていないことは確かだ。
並の国力では維持すらできないだろう城ではあるが。
歴代の皇帝たちは上手く政治を回しているらしく、取り潰して皇城を縮小させた、という話は今のところ聞いた覚えがない。
「……君が、ローザリンデ姫かな?」
ぼんやりとしていたからだろうか。
声を掛けられるまでその人に気が付かなかった。
いや、傍に控えていたディアナも気が付かなかったようで、思わず、と言ったように息を詰めていた。
気の乗らない作業を忌避して離宮から離宮へ移動していた時だ。
あまりにも広い皇城に増やせる人は多くない。
そのため人気の無い場所は多々あり、目につかない場所も多い。
そこを狙われたのは明白で、護衛もできるディアナがいるからと横着したのも悪かったのだろう。
西日がやけにきつい。
まるで、あのとき。
扉を開いて見てしまった夕陽の色みたいに――。
逆光に立つその人はがっちりとした体つきであるのに。
相反するやわらかな語調がどこか圧倒されるような忌避感を呼ぶ。
「初めまして……でもないか。姫が生まれたときぶり、かな」
「ノルデンベルク公……」
ディアナが口にしたその名前に思わず目を見開いてしまう。
暫くは会いたくないと思っていた人物であり、とても厄介な人であることを、ローザリンデは知っている。
夕陽に染まってもなお艶やかな橙色の髪。
ツェントルムの血脈を感じさせるほの青い瞳には薄っすらと銀星が散っていて、見る角度によって色味を変えていた。
温度のないその瞳のまま微笑まれているからだろうか。
思わずローザリンデの足をわずかに後退させてしまう。
「あれ……怖がらせてしまったかな?」
「い、いえ……失礼いたしました。ローザリンデです、公」
「うん。よろしくね」
逆光からゆっくりと姿を現したのは、ゲーム内でよく見かけた姿の彼。
やわらかな印象を与える幼さを滲ませた顔立ち、話し方ですら温和な印象を植え付けるのに。
そこに不似合いに思える鍛えられたのだろう体つき。
いまだ終わらぬ水面下の戦争を続けるそのひと。
――アウグスト・フォン・ヴァーツェル・ノルデンベルク。
彼は人界と対峙する絶対なる険山の守護者にして、エルンストを神が如く信奉せし者。
ツェントルムの血が流れている定めであるのか。
彼はエルンストに対して並々ならぬ入れ込み方をしている。
それこそ、いずれ露見しようともエルンストの見えない場所で、エルンストに外あるものを排除しようとするくらいには。
「……まあ、顔見せはこれくらいかなぁ。今度はきちんとした場所で逢おうね」
軽い調子でそう告げて、あまりのプレッシャーに動けずにいるローザリンデとディアナに関心を持つことなくアウグストがその場を辞す。
彼が去るその時まで動くどころか、言葉すら発せられなかった。
そうして思い出してしまう。
ゲームでの彼がどう立ち回っていたのか。漠然と感じていた恐怖の理由までを。
かつて、人に組して魔性と矛を構えた『アーデルハイト』を皇族すら認めないとまで言い、破棄されることなく残っていたエルンストと『アーデルハイト』の婚約の異議を立て続けていたのは彼だ。
そして、エルンストから遠ざけるためだけに、『アーデルハイト』を二度と覚めぬ夢へと誘うことさえ辞さなかったのも、また彼だった。
プレイヤーの選択の末とは言え。ローザリンデが本能的に恐怖を抱く相手。
そう、つまりは。
ローザリンデに先のない未来を確定させる相手。
まだひと月にもならない前に思い出してしまった、夕陽の中の狂騒と同様のもの。
ローザリンデにとっての死の具現が、そこにいた。
エルンストの害になれば排除する。
その警告を伝えに、わざわざ、エルンストが見えていないだろう時を見計らって接触にきたのだろう。
どこかで揺れていた心がいつになく軋む。
まるで、迷っていたのを見透かされたような気になって。
試されているのは間違いない。
エルンストに相応しいのか――それを、彼は突きつけにきたのだ。