第14話 日常と非日常の境界
「そ、そんなこと……言われましても……」
彩女は情けない声でうめいた。混乱と羞恥で目を回しているようだ。
それもそうだろう。同級生の男子が家を訪れるという慣れない状況から、裸を見られるという予想外のシチュエーション。その上で、司のこの意味のわからない言動なのだ。
だが、たとえ彼女に意味が伝わらないとしても、ちゃんと言っておくべきだと司は思った。
とはいえ、あくまで伝わらないことが前提なので、司は謝ることにした。
「そういうわけだから、俺の不注意が悪いんだ。その……裸を見てしまったわけだし」
そう言って頭を下げる司に、彩女は両手で自らの体をかばうように抱いた。
「でも……。こんな貧相な体、お目汚しです……」
「そんなことない」
彩女は目を丸くして硬直した。
思わず即答してしまったが、言った後から照れ臭くなって、司は赤面した。
「えっと……それはどういう……?」
「あー、その……なんというか……キレイだったよ」
「……っ」
彩女は過呼吸のようにひゅっと息を詰まらせた。湯上がりで火照った体はさらに赤くなり、ほのかに湯気が立ち上っている。
司は先ほどに続いてまたも恥ずかしいことを口走ってしまったが、本心だった。
餅のように白い肌は染み一つなくなめらか。少女らしくくびれた腰。
いくつも傷がついているが、それは彼女がこれまで必死に頑張ってきた証だ。
薄い胸とほのかに肋骨が浮いた脇腹は、彩女の言う通り貧相という表現もできるかもしれない。だが、それもまた味がある。
そして全身に薄くまとったしなやかな筋は、自らを真摯に磨き続けてきた結果だ。
司が思わず見惚れてしまったほどに均整の取れた身体からは、この少女の誠実な生き方が表れていた。それが、とても美しいと思ったのだ。
「いや、今のは別に変な意味じゃなくて……」
「……なんだか」
慌てながら弁明する司と、瞳をうるませながら、ものすごく困った顔をする彩女。
熱いような寒いような、甘酸っぱいような微妙な空気が二人を包む。
やがて、彩女はキッと――少し震えながらも――いつものように力強い瞳を司に向けた。
「……だんだん、司さんを……その……引っぱたきたくなってきました」
「……ああ……甘んじて受け入れる」
そう。今の司は、どこか変なテンションになっていた。いっそ一発殴ってもらったほうがいいかもしれない。
彩女はバスタオルを身体にまいた状態で、細くしなやかな美脚を肩幅に開く。
そして、ふぅと息を吐き、ぐっと丹田に力を込めた。
「司さんの――ばかーっ!!」
ぱしーん、みたいな軽い音ではなく、バコッという鈍い音が轟く。
重心移動を利用した彩女のビンタは想像以上に重く、司は一瞬意識を手放しそうになったのだった。
司の頬に新たに刻まれた痣を、彩女が用意した氷袋を当てて冷やしながら、食事の席についた。
食事が並べられたちゃぶ台を挟んで反対側には、申し訳なさそうにしゅんとした面持ちで彩女が正座している。
「……ごめんなさい。やりすぎました……」
「いや、いいって……俺がやれって言ったんだし」
彩女は軽く膝立ちになりながら、司の方にすり寄った。
湯上がりの少女は心配そうに司の顔を見上げると、頬の怪我にそっと手で触れた。
緩めの襟元から、素肌が覗いた。
「本当に……? 大丈夫ですか?」
「は、はひっ――!」
彩女の様子にドギマギしてしまい、答える司の声が裏返った。
風呂上がりのしっとりとした襦袢姿――その端の裾から覗く白い素肌。
そっと頬に触れる彼女の手と、儚げな表情。
いま彼女の華奢な身体を包んでいるのは白い襦袢だけで、どうやら下着は着けていないらしい。
同い年の少女にそのような姿でそんなふうに詰め寄られたら、司といえど緊張しないわけがなかった。
「わかった。わかったから、いったん離れてくれ……。
これ以上はまずい。いろいろと堪えきれなくなる」
「え……? はい。わかりました……」
彩女は素直にもとの位置に戻ったが、いまだに司のことを心配そうな面持ちで見つめている。
司は照れ隠しに、机の上のおひたしを箸でつまんで口に運んだ。
猛烈に苦かった。
「う……あ、彩女、これは……?」
「”ふきのとう”です。先月、裏で採れたものなのですが、多すぎて余ってしまって……」
たくさん食べてくれると嬉しい、と彩女は微笑みながら言った。――残すわけにはいかなくなった。
他にも、なめこや里芋、ふきなどの山菜が並べられていて、まさに精進料理というべき品揃えだ。
そして、そのどれもがかなりインパクトのある――人生の厳しさを感じさせるような苦い味がした。
「あ、彩女……あのさ」
「あの、司さん……」
司がこれらの味についてやんわり言及してみようとしたところで、彩女が真剣で、少し悲しげな表情で言葉を発した。
そのため、司は口の中に残る里芋の生臭さを堪えながら、彼女に続きを促した。
「――な、なに?」
「なんと言えばいいのか……その、先ほどのことなのですが……」
「お、おう……」
「……私が女だからといって、殿方を傷つけてもいいというのは、やはり間違っていると思うのです……」
彩女がおずおずと語り始める。
司は灰汁の取れていないまま胃に入った山菜をリバースしないよう必死だったため、なかなか彩女の言葉にあまり集中できなかった。
「そ、そうかも……」
「だから、司さん……代わりに、もし私が道を間違えたときは……。
私を、叩いてください。殴ったって構いません。
あなたなら、私を正しい道へと導いてくれると信じています」
とても――そう、とても大切な話をされた気がする。
だが肝心の司はというと、つい口直しにとすすってしまった汁物の力強くも奥深い雑味に悶絶寸前になっていたせいで、彩女の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。
「ああ……ゴホッ。それよりもさ、彩女……」
「ええ。あの話の、続き……ですね」
「――。そうだな。その話のほうが大事だ」
彩女が表情を引き締めるのを見て、司は今度こそ話題を挟むタイミングを完全に逃したことを悟った。
だがまあ、確かに先ほどの話――無貌の狩人についての話のほうがずっと大事だ。当然、目の前の少女が心を込めて作ってくれた料理に対する小さな不満などよりも重要な話だ。比ぶべくもない。
「無貌の狩人が――”グラーキの黙示録”とかいう魔導書の力で生み出されたっていう話だったよな」
「ええ。全9冊からなる魔導書には、合わせて9体の災いを呼ぶ魔物について言及されていて、かの亡霊はその魔物の力を――」
「待ってくれ……亡霊? 無貌の狩人は亡霊の一種なのか?」
司の追及に、彩女ははっとした表情で口元を抑えた。
「いえ。……かの者は悪霊たちを使役していたためそう呼んでしまったのですが、たしかに早計でした」
すみません、と彩女は姿勢を正して頭を下げた。
神出鬼没に現れる無貌の狩人は確かに幽霊の如しだが、司はどうにもそれは違うのではないかという気がした。
あれは、幽霊とはもっと違う、こちら側に近いもの――例えば、司が以前から頻繁に見ていた悪夢の中にいる自分自身のような――
もちろんこれは、あくまで司の勘にすぎない。
だが、それでも司には一つシンプルな考えが芽生えていた。
「無貌の狩人が魔導書の力で生み出されたっていうなら……どちらかというと、その”災いの魔物”ってやつに近い存在なんじゃないか?」
「……的を得ていると思います。私も、亡霊というより、そういった類のものなのではないかと考えていたところでした」
彩女は自らの胸を、襦袢の襟の交差したあたりをなでながら、ぶるっと震えた。
「私の穢払いの力も、まったく歯が立たなかった……。なら、いずれにせよアレを普通の亡霊だと考えないほうがよいでしょう」
「そうだな。でも、少しは効果があったんじゃないか……?
現にこの神社の境内には入ってこようとしなかったわけだしさ。
彩女の力は、幽霊以外にも効果があるのか?」
小さな顎に細い指を当て、首をかしげる彩女。普段とは違う服装なのもあって、司の目には彼女の姿が、まるで妖精か何かのように映った。
「実は、私も私の力についてよく存じているわけではないのですが……。
この力は穢れを祓うものであって、陰陽道のように霊魂を消し去るようなものではないのです。
なので、罪であれ呪いであれ、悪意であれ、穢れと認められるものは浄化することができます。ですが……」
彩女はそこまで一気に語ったのち、言葉を詰まらせてしまった。
何を言い淀んでいるのか気になった司は、彼女に先を促す。
「何か、気になることがあるのか?」
「……はい。少し……。そもそも私の家系の持つ力は、このような魔物に対抗することを想定してのものかと……そう、思えるのです」
「それは……」
机の上の山菜をなんとか胃に押し込めて、司は一息ついた。苦味の中になぜか山椒のような刺激とパクチーのような強い香りを混ざっている。
そんな今まで食べたことのない味に、目の前の少女の作家性をどことなく感じた。
「……? どうしました、司さん?」
「いや。――なんというか……それは、ただの悪さをする幽霊を相手にするにしては、強すぎる力だからか?」
惑いのない口調で言う司に、彩女は驚きの表情を浮かべた。
「……司さんは、本当に聡明なのですね」
「よしてくれ。なんとなくそう思っただけだ」
彩女が穏やかな――どことなく尊敬を含んだような眼差しを司に向ける。
薄々感じていたが、彩女は司のことをどことなく心酔し始めているような気がして危うい。
そういう面も含めて、良くも悪くもまっすぐなのだろう。
「……それに、悪霊が実在すると言っても、今までそれで困らされたことなんてなかったからさ。それこそ、神職さんのお祓いで十分なはずだ」
「そうなのです。特に母さん……私の母は、悪霊の浄化をするだけにしては、あまりにも強い力を持っていました。
そして……そんな母を、この神社の関係者はとても重要視していて、保護を……いえ、保護という名目で境内に押し込めていたようなのです」
「……大事にされていたってことか」
「はい。よいことばかりでは、なかったのだと思いますが……」
たしか、彩女の母親はかつて、その命を賭して無貌の狩人を封印したのだったか。
つまり、そのような災が起こることが予想されていたからこそ大事に守られていたということだろうか。
だが、それは――
「……今考えても、仕方ないことかもしれないな」
「ええ。そうですね。まずは目の前の驚異に集中しましょう」
彩女はいろいろなことを考え込んでしまうタイプなのかもしれない、と司は思った。
きっと悩みも尽きないのだろう。
いつかそんな相談にも乗れたらいい。なんて思ったが、それを言葉にすると悪いものを引き寄せそうな気がしたので黙っていた。
代わりに、司はふと浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「なあ、ところで魔導書の話なんだが、なんで無貌の狩人がそれを持っているってわかったんだ?」
先ほどまでは、知らないことが多すぎてそういうものかと流していた。
だが、状況がつかめてきた司は、だんだんとその経緯も気になってきた。
司のその疑問の答えが重要な意味を持っているのだろうか。彩女は再び表情を引き締めて、神妙にうなずいた。
「はい。それは……かつて、無貌の狩人が所持している”グラーキの黙示録”の一部を奪い取ることができたからです」
「奪い取る……確かなのか?」
彩女は再度うなずく。
「ええ。奪った魔導書は、この神社に保管してあります」
その答えに、司は驚いた。
災いを呼ぶという恐ろしい魔導書・グラーキの黙示録がこの境内にあるというのだ。
司は思わず、目元を隠しながら天を仰いだ。
「……マジかよ」
「私も一度だけ、現物を見たことがあります」
彩女は自らの肩を抱きながら言った。
「……それだけでも、恐ろしい力を持つ書物だということがわかりました……」
「それは、今も見ることができるのか?」
「いえ。その本を保管している場所は、結界が張られた上で鍵がかけられています」
結界というのは、その魔導書の発する邪悪な力が外にもれないため。結界そのものは彩女なら解除できるらしい。だが、鍵は彼女の父親が所持しているため、彩女には開けることができないという。
いくら超能力のような人智を超えた力を持っているとはいえ、物理的な鍵を開ける魔法のような芸当ができるわけではないらしい。
思えば――彩女の持つ超常的な力は、彼女の人生を楽にすることはなく、使命や責任ばかりを背負わされているのではないかと司は思った。
そうだとしたら、なんと辛い宿命なのだろうか。
司がそんなことを考えて空になった皿を見つめていると、彩女が表情を変えずに口を開いた。
「……ここの書斎を漁ってみませんか?」
「書斎を?」
「はい。グラーキの黙示録を読むことはできませんが、何か手がかりが見つかるかもしれません」
はっと顔を上げた司に対し、彩女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「ここの蔵書の数はとても多くて、私はそのすべてを把握していません。
……また、私一人ではとても探しきれないので」
「わかった。もちろん手伝うよ」
「ああ――ありがとうございます!」
彩女は心から嬉しそうに笑顔を浮かべた。
司は彩女のこのような笑顔は初めて見た気がした。
今まで、頼れる人はほとんどいなかったのだろう。最も親しいと思われる、くるみ先生にすら、彼女はどこか少し距離を置いているように見えた。
そんな彩女に信頼を置いてもらえていることを、司は素直に嬉しいと思った。
「じ、じゃあ早速、案内してもらえるか?」
彩女の笑顔をなぜか眩しく感じて、司は少ししどろもどろになりながら言った。
「はい。それでは――」
彩女はちゃぶ台に乗った食器を一瞥した。
司の前にある皿や茶碗は、すでに空になっていた。ここは諸々を我慢して完食した司を、褒めるべきだろう。
「食事も済んだようなので、ご案内します。……えっと、その……」
彩女は机の上の食器を片付けながらも、何か言いたそうに口ごもっている。
司は首をかしげた。
「どうした?」
「その……どうでしたか?」
彩女は、おずおずと司に問いかけた。
「……料理」
「ああ」
いまさらかと思いつつも、司はどう答えたものか迷った。
当然、本当のことを言えば彼女を傷つけてしまうだろう。だが、ここで誤魔化すことが本当に彩女のためなのだろうか。
司はこの不思議な少女に、これから他人ともっと関われるようになってほしいと密かに思い始めていた。
ならば、真っ直ぐな彼女のためにも、ここで偽りの言葉をかけるのはよくない。
もちろん、極力は傷つけないように。
司はどう答えるべきか考えた結果。
「……正直イマイチだった」
「ひぅっ」
彩女はショックを受けたようで、愕然としながら硬直した。
正直すぎるのも考えものだと、言いながら思った。
だが、司はもともとストレートにものを言ってしまうタイプなのだ。そこまで器用なことはできなかった。
致し方なく、司はこのまま正直に話すことにした。
悪意のない言葉なら、彩女には伝わるはずだ。
「いや、こういう味には慣れてなくてさ」
「す、すみません……私、普通の学生がどんな味付けを好むものなのか、ぜんぜん分からず……」
「でも、盛り付けもよかったし、健康にもよさそうだったな。
彩女は普段、ああいう食事をしているのか?」
少女はしゅんとしながらうなずいた。
その様子を見て、司は微笑みながら言った。
「そっか。なら今度、学校のみんなにどんな味付けがいいかアドバイスもらおうぜ。
この苦い精進料理を食べた、みんなの反応も見てみたいしな」
司はくくっと喉の奥から声を出した。
特に美波なんかは、あれで意外と料理をするほうらしい。
玲二は彩女とは相性が悪そうだが、大輔は喜んで協力してくれるだろう。
そういえば、体育館を出たところではぐれてしまった大輔と玲二は無事だろうか――無貌の狩人に見つかっていなければいいのだが。
二人のことが少し心配になった司だが、今は考えても仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら、さて、と立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ書斎に案内を……どうした、彩女?」
気づけば、彩女は何かを堪えるように、襦袢のスカートの裾を強く握っていた。
司は彼女のほうへと近づくと、その顔を覗き込んだ。
「あの……司さん……本当に、ありがとうございます。」
「なんだよ、改まって。俺だって彩女にお礼を言わなくちゃいけないこと、たくさんあるんだ」
「でも……なんだか、嬉しいような不思議な気持ちで……どうしても」
彩女は心境を上手く言葉にできないようで、もどかしそうに言った。
「私しかいない、私がやらなきゃいけないって――ずっと、思っていました。
だから、私に普通の暮らしなんかできないって」
司は、無言で続きを促した。
胸の中に、温かい気持ちが広がった。
「なので、こうして司さんが協力してくれて、クラスの皆に相談してくれると言ってくれて……なんだか、そんな当たり前のことが、今までできなかったのかと……。
なら私も、普通の――」
「……ああ」
司はうなずいた。ずっと胸のどこかに引っかかっていたことが、今、少しだけ解決の糸口が見えた気がする。
雲から月が顔を覗かせるように、彩女は儚くも眩しい笑顔を浮かべた。
「普通の女子高生みたいに、過ごすこともできるのかもしれない……そう、思えました」
司はつられて微笑みながら、もう一度うなずいた。
「なら……そうしよう。これから、二人でこの事件を解決して、生き延びて、そうしたら――」
それを言葉にしたとき、ふと司の脳裏に嫌な予感が浮かんだ。
それは、危うげな約束だった。蜃気楼のように、追いかけたところで手の届くことのない願い。これは、そういう願いなのではないか。
そう感じた理由は、わかりきっている。
目をそむけているからだ。
この学校を覆う怪異の恐ろしさと、白山彩女という少女の背負う宿命の重さから。
「……それでは、書斎に案内します。行きましょう司さん。」
そんな司の想いも知らず、彩女は晴れやかな顔でそう言った。