【第7話】追憶
初対面で「素敵」なぞと言って、気色の悪い女だなと思った。
彼女の家に代々引き継がれるという赤い髪と瞳は目に痛く、瞬時にこれは対象外だと判断した。
政略結婚と言う割に、俺と彼女との身分差は大きい。
王族に連なる公爵家と、たかだか戦時中に武功を立てて爵位と領地を賜った成り上がりの男爵家。
そんな両家を結ぶ縁は、初代男爵家当主と先々代の公爵家当主がかつての盟友だったこと。それだけのことだ。
初めの頃は関係が希薄に過ぎた。
名ばかりの交流会は幾度とあったが、互いに家を自ら行き来することなど一度もなかった。
女の方はともかく、俺自身は億劫で行く気にならなかった。
事態が変わったのはあの女が学院に入学してきて間もない頃だ。
今まで一度も積極的に接触してこなかったというのに、女が学院内で俺の姿を見かけるたびに声を掛けてくるようになった。
親しげに。どこか、媚を売るように。自惚れる女の顔で。
「……おい」
目当ての人間を見つけ、呼び止めた。
すると相手は声を掛けられるのを分かっていたと言わんばかりに、したり顔で振り返った。
「おや、トロキロス先輩。ごきげんよう」
青い髪に青い瞳。
あいつとは正反対だなと、最近脳裏にしつこくこびり付くようになった赤色を思い出して辟易した。
「お前、あいつに何を吹き込んだ?」
「あいつ? はて、誰のことでしょうか」
「とぼけるな。お前とつるむようになってから、あいつの様子がおかしくなった。何か余計なことを言っただろう」
そう追及すると、エラトマとかいうその女は肩を震わせて笑い出した。
「ぷっ……ははははっ! 何を言い出すかと思えば、そんなことですか!」
「……何が可笑しい」
「知らないとは何とも幸福なことだと、今この瞬間に痛感しただけですよ!」
ひぃひぃと可笑しくて堪らないと腹を抱えて笑う。
その様子に苛立ちが更に募った。
「何一つ変わっちゃいませんよ、スィーは」
ようやく落ち着きを取り戻したエラトマが、笑い泣きで溢れた涙を眦に浮かべながら言う。
「ただ、選択肢が無かったから用意してやっただけのことです。あの子には行動力が無かった。だから動けるようにしてやった。それだけです」
クツクツと、俺を嘲笑う。
「貴方からあの子が変わったように見えたのなら、それこそあの子の望んだ結果だ。精々気を付けて、あの子を遠ざけておくことですね」
それからまた笑いながら、エラトマは俺の前から立ち去って行った。
あの女────スィエラ=ヴァルディスティが、変わっていない?
そんなわけがない。何故なら、あの女が俺に好意など抱いているはずがないからだ。
あの女が俺に言った睦言は初対面で口走った「素敵」という言葉だけ。
以降は、汚いものを見るように顔を顰めてこちらを見ては、目を逸らすことしかしなくなった。
俺はもう一度、エラトマが言った言葉を思い返した。
『何一つ変わっちゃいませんよ、スィーは』
────変わっていない。
俺はその部分を自分なりに解釈して────早合点をした。
あの女が俺を好いていないこと。この事実が変わっていないのだと、そう判断を下した。
そうと分かると、あの女がやることなすこと、何もかもが気に食わなくなった。
俺を見上げる赤い目が。
俺に掛ける声が。
いちいちネクタイを直すために伸ばされる手が。
目障りで、耳障りで、煩わしかった。
────話しかけるな! 近付くな! 俺に触るな!
羽虫を払うように、あの女を拒絶した。
ある日のことだ。
公爵家に、あいつの兄が訪ねて来た。
小癪なことに年齢も剣術も俺の上を行き、学院を首席で卒業した実力者を無下に扱うことはできなかった。
「うちの可愛い妹とは上手くやれているか?」
何が可愛い妹だ。
怒りに任せてとんでもないことを口走りそうになったが、何とか堪えた。
「その様子だとまずまずか。あいつ、従順そうで救いようのない嘘つきだから気をつけた方がいいぜ」
溜息交じりに言われたその言葉に目を見張った。
心を読まれている気がしてならない。
「将来の義弟に助言をしてやろう」
何のつもりで教えたのかも分からない、将来義兄となる男から齎された助言。
それが後に、俺を更に苦しめることになる。
────俺の可愛い妹は、嘘をつくときに決まって親指を隠す癖がある。
ああ、どれも。これも!
嘘、嘘、嘘ばかりじゃねぇか!
言動の端々で見つける【嘘】の数々に、すぐにでもその場で女を恫喝してやりたくなった。
何故、笑っていられる。
何故、隠そうとする。
何故、何故、何故!
────なぜ、おれを、きょぜつする?
あんな助言、聞かなければ良かった。
ある日のことだ。
偶然、あいつに見つかる前に、俺が先にあいつを見つけた。
気付かれていないことを良いことに、俺はこっそりとあいつの様子を窺った。
人気のない学院の裏庭でひとり木陰の下を歩いていたあいつは、急にバランスを崩して地面に崩れ落ちた。
きっと石か何かに躓いて転んだのだろうと、その時の俺は影で嗤っていた。
しかし、倒れたまま起き上がる気配が見えない。不審に思い、注意深く慎重に近付いて────俺は全身から血の気が引いた。
ごほごほと苦しげに繰り返される咳。
呼吸をしようと必死に喘ぐ口からヒューヒューと鳴る音。
服の上から強く握りしめられた心臓の位置。
その後のことは、よく覚えていない。
頭が真っ白になって、他に何も考えることができなくなったのだ。
急いで彼女を抱き上げて、がむしゃらに構内を走り、医務室に駆け込んだ。
スィエラが目覚めるまでの間、彼女を見舞いにやって来たエラトマに問い詰めた。
相変わらずの軽薄さで、スィエラの級友たる女は質問に答えた。
「スィーは生まれつき、心臓の病を患っているのです。今回もその発作でしょうね」
「何故お前が知っていて婚約者の俺が知らない!?」
「さあ、どうしてでしょう? 男爵家のご家族は教えてくれなかったのですか?」
面白そうに、可笑しそうに嗤う。
この女は、分かっていて俺を嗤っているのだ。
「教えたくなかったのでしょうねぇ」
分かっていて、その上で俺に毒を吐きかける。
「スィーは貴方に知られたくなかったのですよ、トロキロス先輩。だから家族にさえ根回しして、貴方を【秘密】から遠ざけた。わざわざ嫌がられるように【演技】をしてまで、自分という重荷を背負わせまいと【嘘】をつき続けた! いやぁ、なんて麗しいお話なのでしょうねぇ!」
はははっと嗤い声を立てながら、エラトマは俺を睨みつける。
「私言いましたよね。精々遠ざけておくようにと。あの子をこれ以上苦しめたくなければ、今まで通りを演じ続けなさい。それがあの子の【望み】です」
「し、しかし!」
口ごもりながらも、これだけは言わねばと焦燥に駆られて言葉にする。
「あいつは、俺が嫌いなのだろう? なぜ、わざわざそんな真似を?」
「────さあな、自分で確認しろよ」
冷たく言い放ち、エラトマは俺を置いてスィエラのいる医務室へと入っていく。
その背を見送る俺に、もう一度医務室に入る勇気はなかった。
それからしばしば、スィエラが発作を起こさないか見張ることが多くなった。
見張ると言うよりも、わざと彼女が通る時間を狙って見つかりやすいようにうろついたり、先回りしてその場に陣取ったりしたぐらいだが。
スィエラは、俺の前では決して発作を起こさない。
逆に、ひとりになろうとするときが危険だ。
まるで寿命の近付いた猫が、飼い主のもとからひっそりと姿を消して知らぬ地で果てるように────彼女もまた、誰にも知られずにひとりで死のうとしているのだと、気が付いてしまった。