1話 辺境の守護騎士と黒髪の少女
小雨がパラつくとある朝。
晴れていれば見渡せる山々は、靄がかかっていて薄っすらとしたシルエットしか見えなかった。
まだ覚醒しきらない脳のまま、今日は非番の日だと言う事に思い至った。
本格的な冬と言う訳ではないが、秋も終わろうかと言う今の時期に太陽が覆われてしまうと肌寒い。
たまには朝の風呂でも満喫しようと、浴槽にお湯が溜まるまでダイニングでのんびりとお茶を飲んでいた。
何せ久しぶりの休みなものだからどうやって過ごしたらいいか迷ってしまう。
ギュッと締め付けられた血管を一気に緩めた時の血液のような開放感から、今日は気の向くままに行動しようと決めた。
考えるのも止めて、体の力を目一杯抜く。
寝室とダイニングとリビングがひとつつなぎのこの部屋で、椅子に座りゆっくりとティーカップを口に運ぶ。
そんな時に玄関の外から異音がした。
「なんだ?!」
僕の家は隣国との国境に近い辺境な立地にある。
王都へ戻ればしっかりとした自宅があるから、ここは別宅のようなものだ。
人里を離れていれば、当然ながら魔物の出現率も高い。
国境に近いから蛮族なども蔓延っていたりもする。
音と同時に条件反射で立ち上がる。
完全に気が抜けていた体と心に意識が満たされる。
咄嗟に椅子を立ち、ベッドの脇に立てかけている剣を掴んだ。
音が聞こえたのは一回だけ。
それからは何事も無かったかのように、雨音だけがこの家を包んでいた。
もしかしたら気のせいかもしれないけど、何が起こるか分からない。
警戒心を最大限まで引き上げながら、キッチン脇の裏口から壁伝いに様子を探る。
家の周りには、農家の納屋やら家畜小屋やらが多い。
隣の家は鍛冶屋の倉庫だった。
建物自体は多いが、休日ともなれば人っ気はまったくなくなる。
裏口から見る分には今の所異常はない。
濡れた地面の上を、音を立てないように慎重に歩き、通りに面した玄関との角までたどり着いた。
ここらは魔物も多いけど、空き巣に入る盗賊もそれなりにいる。
僕が想像し得る様々な可能性の中、異音の発生源が低級な魔物である事を祈った。
それ以外であれば、命がけの戦いは避けられなかった。
のだが。
そこにいたのは一人の女だった。
うちの玄関に項垂れるようにして倒れていた。
黒い髪は雨で濡れ、その毛先は腰の上まで伸びている。
よく見ると、その黒が途絶えたところから――要は黒髪の下、腰辺りから真っ赤に広がる染みがあった。
「あれは……血か?」
久々の休暇など吹き飛び、ずぶ濡れになった彼女を急ぎ担ぎ上げて家の中へと運び入れる。
女は濡れているだけでなく、見慣れない衣服はボロボロになり、泥にまみれていた。
そんな事など気にしている場合ではなかった。
何より腰からの出血が尋常ではなかった。
すぐにでも上級回復魔法をもって治療しなければならないくらいに重傷だ。
僕の温もりはもう残っていないであろうベッドに、女をうつ伏せに寝かせた。
「フレッシュヒール!」
女に何があったかは分からないけど、行き倒れたのが僕の家で良かった。
不幸中の幸いとはこの事だ。
僕の正職は回復魔法と守備力に秀でる【守護騎士】だ。
そのお陰で、国境騎士団に加えてもらえる栄誉を授かっている。
しかしまさかつい先日習得したこの魔法が、こんな場面で役に立つなんて思いもしなかった。
それにもし今日が非番じゃなかったら、きっとこの女は僕の家の前で死んでいたに違いない。
そんな事に思い至ると、この女の運がいいのか悪いのかと、どうでもいい事を考えてしまった。
上級回復魔法と言えど、意識まで回復するなんて万能なものではない。
傷は癒えたけど、失った血は元には戻らない。
この雨では溜まりに溜まった洗濯も出来ないし、怪我人を放って買い物に出る事も憚られる。
結局僕は、冷めたティーカップの中身を捨て、新たに紅茶を淹れ、ダイニングのソファーで横になるくらいしか出来なかった。
温かい紅茶が半分くらい減った所で、ふと女へと視線を移してみる。
腰の傷は治っていたので、息苦しくないように仰向けにひっくり返しておいた。
まじまじと女の容姿を観察する。
まず興味を惹いたのが黒い髪。
子供の頃に読んでもらった【黒髪の魔女】という本を思い出した。
魔王に挑む勇者が黒髪の魔女の助力もあって、見事魔王を討ち倒すと言う勧善懲悪の子供受けしそうな内容だった。
しかし、物語には続きがある。
英雄となった勇者は、魔王を倒した後、王様から褒美を受け取ってすぐに、黒髪の魔女に殺されてしまうのだ。
勇者殺しの悪名を付けられた魔女は、世界中から指名手配されて、結局最後は処刑されてしまう。
そんな物語だった。
だから黒髪って言うのは、昔から悪口に使われていたりもして、悪人の代名詞にされることもしばしばあった。
それがまさか、本当に黒髪を持つ実物の人間に出会ってしまうだなんて。
人助けしたとは言え、その相手が黒髪であるだけで、少ないながらの罪悪感が芽生えた。
見たところ、まだ十代後半の少女の様にしか見えない。
大人と子供の境目のような女に、勇者を騙し殺すほどの胆力は見受けられなかった。
僕だってつい二年前に成人になったばかりなのだから、まだまだ胸を張れるほどに大人を経験してる訳ではない。
だから、この手負いの女から話を聞かないと判断は出来ない。
一体この女が何者なのか。
なんとなく波乱がありそうな胸騒ぎを抑えつつ、僕はソファーから立ち上がって三杯目の紅茶を淹れた。