霧雨の幻想 UROSHITOK作品集 (嘘山行記より 5) 霧雨より
霧雨の山頂で出会った女性は、実は既知の人であった。
<笠形山>
兵庫県神河町と多可町の間にある、笠形山(939m)の山頂には2か所の屋根があり、幾つかのベンチがある。一つはログ風の、もう一つは6本の金属支柱で支えた6角形板金屋根の休憩所である。
7月上旬、梅雨が空けたとは言い切れない曇り日、午後になってから山に入った。途中のポイント、山頂に近い笠の丸からはガスの中であった。
霧雨が熱い身体を冷まし、此処のなだらかな尾根筋が、疲れていた体力を回復させる。
だが、頂上直下の急登が、又もや体力を奪ってくる。
平日であった。他の登山者に出会うこともなく、頂上に達した。
頂上には、一人の女がいた。女は板金屋根の下に立っていた。中年である。
「こんにちは」と挨拶を交わす。
「お疲れ様です」
「天気が良くなかったですね」
「ほんと、残念でした」
快晴ならば、ほぼ360度の大パノラマが楽しめる筈だ。
私は、女から離れ、近辺を徘徊する。遠景は見えず、白い霧が流れ、煙る。
振り返れば、もう彼女はいない。
「素早いな」これが、その時の印象だった。霧雨の中、ベンチで休みながら、見えない遠景を見る。
さらに、遠い遠い遠景が、記憶の中をよぎる。
約40年前、私はある山岳会に所属していた。入会した年の秋、入会して初めての山行行事があった。それは、H川の遡行であった。H川は鈴鹿山系から琵琶湖へそそぐ川である。秋分の日を利用した、1泊2日の幕営山行であった。女性3~4名を含む、約10人の団体であった。
この山行で、男性1人が行方不明になった。
この山系に多い天候の変化、降雨に巻き込まれたのである。
H川沿いに上る遡行、小雨の中、最初は川幅も広く、草鞋履き、川原伝いの遡行であった。やがて、次第に川幅もせばまり、山沿いの岸壁廊下状へと変化していった。
右岸左岸と渡渉を繰り返しながら上流へと進んで行く。両岸には所々岩壁も現れ、滝の落ち込みも見られる。登山者達は一列になって進む。
悲劇はこの頃に起こった。
予想を超えた増水が始まったのだ。両岸に岩壁が増え、ジグザグに飛び石伝いに、渡渉する遡行は、増水と急流のため、短時間で不可能となった。
先頭者が余裕をもって渉れた場所が、最後尾者に対しては、ロープを繋がらなくては、渉れなくなったのだ。もはや、川を遡行することが出来ないのだ。崖下の狭い岩棚にひと塊になったが、一人足りないのだ。列の先頭を行っていたサブリーダーが、すでに岩棚の前方にある岩壁を越えて、視界の外へ回り込んでいた。声をかけても通じない、もちろん姿は見えない。水音が高い。水量は増し、進むことも戻ることも不可能である。
足場の岩棚にも、水流は押し寄せてくる。
このままでは、遠からず、全員が激流に呑まれるだろう。
逃れる道はただ一つ、背後の崖を登り、谷川から離れることだけである。上部のよりなだらかな山林へ進むことである。一人の身軽な男が、下方からの助けを受けながら、それに挑んだ。そうして、ついに山林端の木の幹にザイル(ロープ)を結びつけた。手早い行動を成し遂げた
不安定な岩棚の足場から、互いに助け合って、ようやく上部の山林へと逃れた。直後に岩棚は水面下に埋没していった。
雨はさらに強まって行く。谷川は激流となる。
山林の手頃な個所を求め、斜面ではあったがテントを張る。
一方において、サブリーダーの探索に向かうが、彼に会うことはなかった。
濡れた身体は寒い。新人の私は、心も寒い。
翌日は雨も上がり、次第に快晴となっていった。しかし彼を探しても、どこにも居なかった。どこからも現れてこなかった。
激流に吞まれて、流されてしまったのだろうと判断した。
彼は今日まで消息不明のままである。
彼の名は遠坂春樹、私より1年先輩であった。この日は先頭に立って行程を選んでいたのであった。あの日の情景も、小雨と霧の中に残っている。
この笠形山登山からも一年が経過した。
<千ヶ峰>
今、西脇市と篠山市に跨る、西光山713mの頂上に近づきつつある。雲の中、霧雨に濡れて。
奇妙な、一つの期待を抱きながら。西光山は私の住む西脇市の最高点の山である。
翌年秋のことである。多可町の千ヶ峰1005mを訪れた。これも霧の中の山歩きであった。またに山928mからの縦走を行っていた。千ヶ峰頂上への最後の上り道、見上げると、白い霧雨を透して、千ヶ峰頂上に設置されている、オベリスク状のモニュメントが、鋭く空を指して浮かびあがっていた。
そして、モニュメントの台座に、人影があった。
女性である。
鍔ありの登山帽を深く被っている。
霧の中を見つめるように、台石に腰を掛け、足を組み、黒く横向きの姿が浮かんでいた。
他に人影は見えない。
「こんにちは」と声をかける。
「お疲れ様です」と声が返ってくる。
「天気が良くなかったですね」
「ほんと、残念でした」
私はザックのダッシュポケットから、ペットボトルを取り出し、お茶を飲む。
が、何か気になる。
女は私の上ってきた方向へ下り始める。私はより西南方向に位置する986m峰へと向かおうとする。瞬間”ハッ”と、気づいた。振り向くが、女はもう居ない、見えない。
気になっていた原因は女の声であった。それは、笠形山頂上に居た、あの女の声であったのだ。目深に帽子を被っていたが、雰囲気も、あの笠形山頂上の女性であった。
<西光寺山>
そして今、西光寺山に登る。最後の急な坂を上って、頂上に向かいつつある。これまでも何度も登頂したことのある、かって知った山でもある。
頂上には、小さな祠が一つあるのだ。西光寺神社を祀ったものである。”祠の傍らで、白い霧雨のなかで、女は佇んでいる”そんな期待が脳裡に次第に膨れ上がってくる。
幻の女に誘引されるように山道を登り詰めた。
女はいた。期待どうりに、そこにいた。
私を迎えるように挨拶した。
「お疲れさまです」
「こんにちは」と私。
「天気が良くなかったですね」と彼女。
「いいえ、この天気を選んで来ました」と私。
女は笑った。つられて、私も笑う。霧雨が静かに舞う。白い霧雨を背景に、頂上の祠が浮かびあがる。黒く南西尾根へ連なっているのは、ウバメガシの群生である。遠景は見えない。
「また会いましたね」と私。
「またあいました」と彼女。
「これで三度目ですね」と私。
女はそれには答えず、私を見ている。女の顔は、私の言葉を否定しているようだ。私の記憶は違っているのか。
「誰でしたっけ?」不審に、聞いてみる。
「Kさん! 私、サイゾー・・・」Kは私の本名である。彼女は明らかに私を知っているのだ。サイゾーとの言葉が、彼女を見つめる私の中の記憶を、瞬間によみがえらせた。
「そうか!かすみさんか!」ようやく思い出したのだ。
「そうです。柘植かすみですよ」
名前がかすみ(霞)であり、伊賀の名張市生まれということで、仲間から愛称でサイゾー(霧隠才蔵)と呼ばれていた女性である。
「やあ、これは珍しい!久しぶりだ、驚いた」
「40年も会っていませんからね、無理ないです」
「いやー思い出しました。あまり変わっていませんよ。昔の感じは、そのままです」
「いいえ、ずいぶんとお婆ちゃんになりました」
「光陰は矢の如し。と言いますからね」
「私は、昔も今も霧の中の女ですよ」
私は笑う。
彼女も笑うが、心なしか寂しげである。
「あなたはなぜ、いつも霧の山の頂にいるのですか?」と私は気になっていたことを聞いた。
彼女はそれに答えずに言った。
「Kさん、クイズを出しましょう」
「うん?」なんだろう。
「”かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と 滑った うしろの正面だあれ”という、わらべうた を、ご存じですか?」
「知っていますよ?」幼い子供の頃。近所の子供達と遊んだ童謡である。
「この童謡には、隠された謎があります。その謎を解いて下さい」
「えっ!謎!」突然のこと、クイズは謎だった。私は漠然として答えようがない。
「ヒントを言いましょう。”かねやま”です。私は霧隠才蔵・・」
「私に解けますか?」
「解いて下さい。そうすれば、私の謎もあかしましょう。次に出会うのは、あなたが、この歌の謎を解いてからですよね」と、ちょっとはにかんで言った。
それから急に「お先に」と声をかけたあと、山を下って行った。
「変な女だな」思わず言葉が口に出る。奇妙な女性である。
<謎解き>
「才蔵か?」あれ以来、頭から離れない。
柘植かすみと言う女と、彼女の言った言葉を、真剣に考えざるを得なくなった。
文献によれば、このわらべ歌は、子供の遊戯として、少なくとも江戸時代後期には歌われていたらいい。
遊戯の内容は次のとうりである。
①数人必要である。②鬼をひとり決める。③鬼はしゃがんで、目を閉じて、手で顔を覆う。④残りの者は、鬼を中に置きして、手をつなぎ輪になる。⑤”かごめかごめ・・”と、わらべ歌をうたいながら、鬼の周りを回る。⑥歌の最後のことば”うしろの正面だあれ”をうたい終わると同時に、全員その場にしゃがむ。⑦鬼は目を覆ったまま、自分の真後ろに居る者の名を当てる。⑧当たれば、当てられた者が今度は鬼役となる。当たるまで鬼役は代わらない。これを繰り返す遊びである。
鬼が籠の中の鳥の役である。
”かごめ”とは、諸説あるが、今回はニワトリを入れる、竹で編んだドーム状の、竹籠の網目と囲めに架けた意として扱う。
”かごめかごめ”とは籠目を囲めとの意。
”籠の中の鳥”とは、ニワトリのことである。
”いついつ出やある”これは、何時になれば出てくるのか?の意。
”夜明けの晩”とは何か。夜明けは、日の出の頃を指す。晩は、日暮れから後の暗い時間帯を指す。矛盾する語句である。
”鶴と亀と 滑った”とは?
鶴も亀も水辺に生息する長寿で目出度い動物とされている。両者が滑ったとは如何なる意味があるのか?
”うしろの正面だあれ”とは?
うしろは、後ろであって、正面ではない。単なる言葉遊びか?あるいは別に深い意味があるのか?
このままでは、言葉の遊びであり、遊戯の域を出ない。
何かに関わるヒントが必要である。
柘植かすみは、ヒントを”かねやま”だ、と言った。そして自らを”霧隠才蔵”と称した。
最近の山行において、西脇市近辺の山々を登り続けている私として、すぐに思い浮かぶ”かねやま”は氷上郡柏原町(現丹波市柏原町)と篠山市境界にある、鐘が坂トンネル上にある、金山540mである。金山頂上には、明智光秀が築いた山城跡がある。
織田信長の命を受けて、天正六年(1578)に築いた城である。光秀は氷上と多紀を分断する眺望の良い、この地を拠点として、現篠山市の波多野氏の八上城や現丹波市の荻野氏の春日城を落としたのである。
戦国時代、明智光秀と霧隠才蔵は同時期に活躍した。わらべ歌の謎のヒントのキーワードが”かねやま”ならば”明智光秀”こそがその中心であろう。
サイゾーが知っているキーワードの核心は”明智光秀”と考えてみた。何かがおぼろげに見えてきた。
謎を探索してゆきます。
先ず「籠の中の鳥は雄鶏であり、明智日向守光秀を指している」とします。雄鶏は夜明けの日光に向かって「コケコッコウ」と鳴きます。光秀に関わる文字、明・日・向・光は、籠の中の雄鶏が光秀を示唆しています。
籠は竹を編んで作ったもの。徳川家は初代将軍家康・二代将軍秀忠・三代将軍家光は何れも幼名を竹千代と名乗っていた。竹千代は徳川家の縁起の良い名前である。
わらべ歌での籠の中とは、徳川家に囚われたかあるいは匿われた人物を意味すると思われる。その人物こそ、雄鶏・明智日向守光秀に他ならないのです。
「籠の中の鶏はいついつ出やある」とは「徳川家に匿われている明智光秀は、何時になったら姿を、この世間に表すのか」と言う意味と思われる。
さて「夜明けの晩」とは、この言葉が、この謎のもう一つの核心であろう。明智光秀と夜明けの晩とを並べれば、想像出来うる故事は”本能寺の変”に他ならない。
光秀は早朝、一説によれば、午前三時頃に本能寺に攻め入ったのである。暗いとき、つまり夜明け前の晩である。信長にとっては、死に至る闇の時の到来であった。
「鶴と亀と滑った」とは、光秀のその後を表す言葉である。彼が頭を剃って、僧侶となった、の意味である。彼は生き延びて長寿を全うした。
徳川家康に匿われた、丹波亀山城主光秀は僧侶になり、名を消したのである。
世に言う山崎の合戦(天王山の戦い)に敗れ、逃れ、京都伏見の小栗栖で討たれたのは光秀の影武者であろうか。
「うしろの正面だあれ」とは、うしろは後ろであって、正面ではない。うしろの正面は言葉遊びである。つまり言葉遊びで「存在しない誰かとは誰だ」と聞いているのである。
世間的には存在しない存在を聞いているのである。
徳川家康に保護された、光秀は密かに僧と成り、家康の側近参謀として活躍した。南光坊天海と名を変えた。彼はやがて大僧正となり、死後は慈眼大師天海と呼ばれたのである。
光秀と家康は信長に反意を持っていた。二人は密かに行動を共にした。これは綿密で対等な行動であった。
しかしながら、秀吉の予想外の行動力に、光秀の軍は敗れた。
光秀は死ぬことによって、秀吉の追及から逃れた。影武者が、伏見の小栗栖でその死を代行した頃、光秀は、すでに家康に匿われていたのである。
密かに取った行動であったが、この事実を知る者は当然存在していた。もちろん口外無用であった。
それらの人物の中には、これを黙して居れない人もいた。彼はわらべ歌として、言葉を隠ぺいしつつ、これを残した。
それがこの「かごめかごめ・・」のわらべ歌である。
家康が天海を如何に重用したか、天海が如何に家康や徳川家に意を配ったか等は、他に多くある文献・HP等を参照してもらいたい。光秀と天海を同一人物視する事には当然ながら疑問があるが。
<多可町妙見山・黒田庄妙見山・白山>
サイゾーこと柘植かすみに会わねばならぬ。
彼女は、どこかの霧の山の頂上で待っているはずである。
私は彼女と出合う山を、もう一つの北播(北播州地方)の山の高山である多可町妙見山693mと想定した。9月であった。
彼女に会う前に、彼女の現状が知りたくなった。
四十年前に所属していた山岳会の会員で、今でも音信の続いているTと言う男がいる。速くから転勤を繰り返し、早期にその企業を退職し、退会した私と異なり、Tは定年まで勤めた。柘植かすみに関してももっと詳しく知っているはずある。
さっそくeメールで問い合わせた。最近の彼女との出会いと経緯を説明も記した。
彼からの返答の無いまま、多可町妙見山に登るべき曇天の日が来た。
牧野大池からのコースを選び、霧の中を登頂した。しかし、サイゾーとの出会いは無かった。時間をかけて待ってはいたが彼女は来なかった。
私の解いたわらべ歌の謎は正解では無かったのか。あるいは登るべき山を間違えたのか。落胆の思いを抱きつつ下山した。
その日の夕方、Tからeメールが入った。内容は次の様なものであった。
「柘植かすみさんは、君が転勤して間もなく退社した。つまり、四十年ぐらい前には退社していた。彼女には身寄りがなく、退社後は、しばらく北アルプスの山小屋でアルバイトをしていた。その後、故郷の名張市に戻り、地元にあるスーパーマーケットで働いていた。山登りもしていた。
しかし、ある日突然、居なくなってしまった。部屋を貸していた知人は困ったらしい。役所や警察には、行方不明者として届を出したらしいが、未だに行方不明のままである。次に彼女に逢ったなら、知人達みんなが心配していると伝えてほしい。住所を聞いて下さい」とあった。
かなり以前からのことである。Tも情報を得るのに時間がかかったようである。
柘植かすみに逢わねばならぬ理由がさらに増えた。次なる霧の山を登らねばならぬ。
笠形山939.4mは多可町八千代区を代表する山、千ヶ峰1005.5mは多可町加美区を代表する山、西光山712.9mは西脇市を代表する山である。いずれも西脇市発足以前は多可郡に位置する山
であった。
そう言う意味で先日は多可町妙見山692.6mに登ったのであったが。
さて、柘植かすみに会うために、次なる山として、西脇市黒田庄町妙見山622.0mと白山549mを目指すことにした。両峰は隣接して連なる山である。黒田庄町には有名なオートキャンプ場”日時計の丘公園”がある。
天気予報では、午後から雨と言う9月中旬の日、門柳地区の登山口から途中妙見堂を経るコースで、妙見山頂上に向かって登山した。時雨で煙る山道から開けた尾根に出て、西に歩き、妙見山頂へ向かう。
サイゾーさんは待っているのか。
雑木林の中にある、土で盛り上がった山頂三角点と頂上標識、彼女が現れても良い雰囲気がある。
そこには人がいた。男性がただ一人で立っていた。
男は昔風の黄色いポンチョを被り、しぐれを避けている。私と同様に、この天気を知りながら登ってきたのか。
”サイゾーさんは居ないな”と思いつつ、この人に挨拶をする。
「こんにちは、お一人ですか」
「はい。一人です。あなたもですね」「そうなんですよ」「天気が悪いのに」あははー、と軽く笑う。年齢も同年輩か。服装もレトロな感じである。
「これから、どちらへ」と聞かれる。
「白山へ」と答える。
白山へは、しばらくの間下り道となる。頂上まで30~40分の行程である。
「私は白山経由で、ここまで来ました」と彼、私とは逆の行程であった。
彼と別れる。次は白山への期待となる。サイゾーには会えないのか。
白山への縦走路は、頂上直下で急登となる。
頂上は岩稜、南西に向かって広い傾斜がある。頂上の岩斜面は、この山の威厳を演出している。晴天であるならば、高く突き出た頂上からの景色は素晴らしい。しかし、今は靄の中っである。
ここにもサイゾーは居なかった。”休憩しよう”と思い、頂上の岩肌に目をやる。何やら白いものが、透明のビニール袋に包まれて置かれている。袋にはこぶし大の石が”重し”として乗せられている。
白いものは、サイゾーこと、柘植かすみからの手紙であった。読んでみる。
「難題を出して、すみません。
理由あって会えなくなりました。
あなたの解いたわらべ歌の謎は正解です。。
不思議な話ではありますが、私はある場所で、霧隠才蔵に遇いました。そして、あのわらべ歌”かごめかごめ・・”に隠された謎を聞いたのです。
この手紙を遠坂さんに託します。
実は、昔の山岳会の仲間を探していました。その中で、現役で山登りを続けているKさんに逢えて、とても嬉しかったのです。それで、つい悪戯がしたくなってしまったのです。ごめんなさいね。
ところで、霧隠才蔵さんから聞いた話ですが、明智光秀殿は若々しくて、言われている五十代後半の人には見えなかったそうです。四十才位に見えたそうですよ。さようなら。柘植かすみ」
以上であった。
予期してはいたが、彼女は普通の存在ではなかった。戦国時代の忍者、霧隠才蔵(本名・霧隠鹿右衛門)にも会える存在であった。
妙見山頂上で出会った男は、鈴鹿のH川遡行で行方不明になっている、サブリーダー遠坂春樹らしい。
私は先ほど出会ったばかりの男の顔と、遠い記憶の中にある、若々しい遠坂春樹の顔を重ねてみた。そして、「似ている」と思った。
サイゾーと遠坂、二人は互いに連絡がとりあえる関係か。そして、私の行動や考えも読めている。
<鈴鹿>
だが、西光山頂上での「この歌の謎を解けば、私の謎もあかしましょう」と言ったサイゾーの答えの内容としては、まだ不十分である。
二人は何処にいるのか。
なぜ霧の山でしか会えないのか、なぜ霧隠才蔵に会えたのか、謎は形を変えて膨らんできた。
Tに連絡しなければならないが、簡単には信じて貰えそうにない。
メールを送る。その概要。
「柘植かすみさんには出会えなかった。しかし、遠坂春樹さんらしき男性に出会った。霧の中での出会いであり、彼と解かって出会ったわけではないが。ところで、この二人の関係はどうであったのか。柘植かすみも鈴鹿で行方不明になったのではないのか。もう一度H川遡行をやってみたい。遠坂さんの不明になった辺りを歩いてみたい。彼ら二人は私の幻想か幻視か、まことに不思議である」である。
数日後、Tからメールが入った。
「二人は恋人どうしであったらしい。かすみさんは鈴鹿山系の山へ登ることが多かったらしい。鈴鹿山系では、遠坂君の痕跡を探していたらしい。彼女は鈴鹿山系で行方不明になった可能性が高い。地元の山岳関係者が、近々捜索することになった。あなたからの情報にも期待しています。また連絡します」であった。
山登りが好きな人は各地にいる。各地に山岳団体がある。地元の不明者を捜索する。良いことである。
10月はじめにTから連絡が入った。
「捜索隊が鞍馬滝の中腹で、外部から見え難い岩穴を発見した。入口の狭い縦穴であった。縦穴の底で、二人分に相当する人骨を見つけた。穴は深く、一人の人間では、脱出不可能な構造であったらしい。
現在、DNA等鑑定中であるが、男と女であるらしい。遠坂春樹も今では身寄りが見当たらず、柘植かすみ共々鑑定の対象がない。人骨の周囲には遺留品も消失したらしく見当たらなかった。また連絡する」であった。
鞍馬滝は、遠坂が不明になったH川遡行の要所である。
鞍馬滝は岩庇を有する滝である。
およそ40年前の秋、予期せぬ増水に遭遇し、必至で滝の岩壁に挑んだ、遠坂の姿が脳裡に浮かんだ。人骨の一つが遠坂春樹のものである可能性は高い。またもう一つの人骨が、遠坂を捜し、結果として、同じ穴に落ち込んだ柘植かすみの、それであった可能性も高い。
程なく、Tから電話で連絡が入った。
「捜索に参加したメンバーの中で、滋賀県側の永源寺町(2005年に近隣の市町村と合併し廃止、現在では東近江市永源寺・・)に住んでいるNさんがいる。その人が、あなたに会って話したいらしい。一度、Nさん宅へ出向きませんか」であった。
私はこれに同意した。永源寺町はH川遡行道に近い町である。Tとは東海道線草津駅前で会い、彼の乗用車でNさん宅を訪れることになった。Nさんは当日は在宅している筈である、とのこと。
そして当日、Tは謝りながら言った。
「実は急用が出来たんですよ。Nさん宅へは、あなたが一人で訪問してほしいんだ」
「えっ」と驚くが。
「この車で送りますから。本当に申し訳ない」と真顔である。彼の隣人が急死したらしく、地域の風習上、葬儀関係で、その場を離れがたいらしい。
「ああ、いいですよ」と、答えざるを得ない。
好天である。
紅葉で名高い永源寺、H川の流れ、素晴らしい風景を堪能しつつ目的地に向かう。やがて、紅葉尾地区に入る。
「確か、ここです」
Tが車を止めたのは、山麓、ログ風の家である。表札を見て「間違いない、電話をしておいたので居る筈です。後はよろしく」申し訳なさそうな気持ちを込めて、彼は言い。急いで帰っていった。草津市はここからほど遠い。
ログ風の家、横には谷川、清流がさざめく。山小屋のような雰囲気の住家である。
「こんにちは!」木の扉をノックする。内部で足音がして、扉が開いた。
「ようこそ、いらっしゃいました」出てきた男は、黒田庄妙見山頂で出会った男であった。
「あなたは、遠坂春樹さん!」さすがに驚いて、声が高ぶった。
「そうです!」男の背後から女の声がした。そして男の横へ並ぶ。笑顔の柘植かすみであった。
彼女は言った。
「お蔭さまで、霧の世界から出られました。Kさんのお蔭です。どうもありがとう」遠坂も笑顔である。
建物内部に通される。食卓らしきテーブルの椅子に案内され座る。三人でコーヒーを飲みながら話が始まった。
私の疑問に答える様に、先ず、柘植かすみことサイゾーが語りだした。
「私達は、年度は異なりますが、二人とも同様に、ほぼ同季節にH川を遡行していたのです。そして同様な増水に遭遇したのです。増水に直面した場所まで同じでした。あの増水の場面で、私のなし得た行動は、足もとに襲いかかる激流から逃れ、足場を求めて崖上方へ登ること以外は無かったのです。そして、足を滑らして、霧のポケットに落ち込んだのです」
「私と同様に」遠坂も言葉をはさむ。
「そこは霧の世界でした。どこまで行っても霧の中。霧から出られない世界でした」と柘植は語る。
「今は晴れていますね」と私。窓の外は明るい陽光に満ちている。
「あなたや、Tさんや、地元皆さんや、山岳関係者の方々のお蔭です。私達二人は、霧の世界から出たいと思い、そのチャンスを探していたのです。その内に、霧の笠形山に登る、旧知のあなたを見つけて、すぐさま出会い場面を演出しました。そして更なる、印象的な行動を繰り返したのです」と。柘植かすみは語る。
「霧隠才蔵にも会われたそうですが・・、霧のポケットとは何ですか」私は疑問をぶつける。
「私達にもよくは解かりません。この世界とは別の次元があったと仮定して、その境界を見え隠れしながら行き来する、三次元以上のインターフェイス的な存在である、と考えています。その世界の中で、ある日突然に出会った人物が、霧隠才蔵だったのです」と。
「なぜ、霧隠才蔵だったのでしょうか」と問う。
「たぶんですが、サイゾーこと柘植かすみさんのことを、私が強く思い描いていたからでしょうか。本物の才蔵さんには、迷惑をかけたかもしれませんね」と遠坂。
「私も、心の中で、同郷忍者の霧隠才蔵さんに、遠坂さんを捜して下さい。と願いました」笑いながら、かすみも言った。
「そうでしたか。霧のポケットとは、この世の時間や空間を超えた存在なのですね。いろんなことに遭遇されたのでしょうね」と私。
「そうです。でも、すべては霧の中でした。今は、晴れて霧の世界の外にいます。うれしくて、これから如何すれば良いのか迷うくらいです」
我々三人は、短時間であったが、旧交をあたためあった。
私は、近いうちに、Tと共に再訪する心づもりであった。
一週間の後、Tと共にここを訪れた。
前もって、Tには、二人との出会いを有りのままに伝えておいた。彼は半信半疑で聞いていた。無理もないことだ。
Nさんの表札がある家に着く。前回と同様に、家横を、草生した谷川の清流がきらめいている。
「こんにちは」木の扉をノックする。
内部で足音がし、扉が開く。40歳ぐらいの男性が現れた。
「ようこそ、いらっしゃい」と彼は言った。
「遠坂春樹さんはいらっしゃいますか」と私が聞いた。
「そんな方はいませんよ」
「柘植かすみさんは」と聞く。
「いません。ここは私、Nの家です。その方たちは、この間の、H川鞍馬滝周辺で、捜索された人たちでしょう。ここに居るわけがないでしょう」と怪訝そうに言う。
「とにかく、遠いところを、ご苦労様でした。捜索状況を説明します」Nさんは、そう言って、前回と同様のテーブルの椅子に我々を案内し、説明してくれた。
私達二人は、うなづきながら、感謝を込めて聞いた。柘植かすみや遠坂春樹と、この家で出会ったことなどを話せる心境ではなかった。
二人は帰路についた。
遠坂と柘植、二人は霧のポケットの世界から脱出した。
私に説明した後、消えた。
今は何処にいるのかわからない。
いつか何処かで会えるような気もする。霧の山の頂きでない処で。
遠い友たちよ。
( 2017.04.27改訂 完 )
かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめとすべった うしろのしょうめん だーれ
このわらべうたの謎は?
この物語のなかで、私見かも知れないですが、一つの解答を提起しました。