07 疑惑の対象
一直線に伸び、無駄なスペースを徹底的に排除したこの廊下は、機能性を重視して作られたものだ。母親に手を引かれた子供や引かれていない子供、教師を務める大人たちがこぞって行き交うが、お互いの進行の邪魔にならない程度のスペースは設けられている。
そして、そんな廊下をコーウェンは進む。目指す先は最奥に設けられた彼の教室だ。
学校に通い始めて一か月。コーウェンがこの廊下を、メリファに手を引かれずに歩くのは今日が初めてだ。過保護になりすぎない辺りで手を引いたつもりなのだろうが、そのタイミングの絶妙さには言葉が出ない。思えばメリファの教育は、精神的な年齢ではとっくに成人しているコーウェンから見ても素晴らしいものだと言えた。
そんなことを考えていると、あっという間に教室の前へと辿り着いた。
ためらいなく扉を開いたコーウェンの視線は、彼がいつも座っている席――の隣へと注がれる。
「ウェンー、おはよう!」
そんな視線に気づきこちらへと手を振っている人物は、コーウェンの友達であるアーヤだ。
彼女はコーウェンがこの世界で初めて仲良くなった家族以外の人間であり、唯一の人間だ。
「おはよう、アーヤ」
挨拶を返しそのままアーヤの隣に座ると、彼女は待っていたとばかりにコーウェンの髪の毛を弄りだした。最近のアーヤの日課だ。
登校早々、正直鬱陶しいという気持ちもあるのだが、アーヤが子供ということもあり好きにさせている。
「ウェンの髪の毛って綺麗だよね。グレーって言うの? いいなー」
「何言ってんだよ、アーヤの髪の毛の方が綺麗じゃん」
「んー、でも白髪みたいじゃない? 正直、本当は黒がよかったんだ」
コーウェンが言ったことはお世辞でもなんでもなかったのだが、アーヤには別に思うところがあるようだ。
「ふーん、でもさ、どうして黒がいいの?」
「……まあ、あんまり深い意味はないんだけどね。知り合いが黒髪だからかな?」
アーヤはそう言うと、コーウェンの髪の毛から手を離した。その顔はどこか寂しげで、その知り合いとやらに何かがあったのかと心配してしまうほどだ。
だが、コーウェンにも思うところがない訳ではない。
鏡に写る自分の髪の毛が、黒色じゃなくなったのはいつのことだろうか。それははっきりとしている。では、それに違和感を感じなくなったのはいつのことだろうか。――わからない。
思わず顔を伏せてしまう。
(――って、なんで髪の毛なんかでブルーになってんだ)
コーウェンは、そんな自分の弱さに嘲笑する。とっくにこの世界で生きていくと心に決めたはずだ、と。
自分の心へと鞭を打ったコーウェンは、アーヤへと視線を移す。
彼女は机に突っ伏して、自分の前髪をつまんで観察していた。どこか不機嫌そうな雰囲気を感じ取ったコーウェンは、それを変えようと口を開く。
「ねえ、ウェン。今のお金って紙幣……、紙なの知ってるよね?」
――が、先に口を開いたのはアーヤだった。
突然話題が変わったことから、彼女にもコーウェンと同じ意図があるのだと推測できた。
「――うん、そうだね。知ってるよ」
アーヤの言う通りこの世界の通貨は紙幣で、その価値は地球でのお金よりも低い。ここリグルドでは、野菜一つに百円札を五、六枚払うことになる。つまりは物の価値が高く、景気が良いということの証明、日本でいうインフレだ。
他の国や他の町ではわからないが、リグルドの景気が良いのも昨日メリファから聞いた、この町の存在意義にあるのだろう。
「でもね、昔はそうじゃなかったんだよ。金とか銀とかだったんだ。それがどうして紙になったかわかる?」
最近頻発する、アーヤの『私って賢いんだよ?』の時間だ。
これは六歳児のアーヤが、中身大人のコーウェンにうんちく勝負をしてくるといったものだ。
先ほど、微妙な雰囲気を変えようと口を開いたのだと推測したのだが、どうやら違ったようだ。よく考えてみれば、六歳児がそこまで大人なわけがなかった。
自分の前髪を弄りながら問題でも考えていたのだろうと、コーウェンは思わず笑った。
「あ、こら、どうして笑うの! わからないの?」
「いやいや、ごめん」
そうだ、笑っている場合ではない。
こんな問題、一見すれば前世での知識と経験を持っているコーウェンの方が断然有利に思えるが、この世界の常識や歴史について出題されるとさすがに答えられない。
それに対し、アーヤは六歳児とは思えないほどに賢く、コーウェンでも知らないようなことを知っていたりするのだ。
そして、あろうことか出題者は毎回アーヤだ。それもあってコーウェンには、六歳児に負け越しているという現実があった。
「えーと、金、銀の産出量によっての価格変動とか、傷が入ることによっての価値減少とか、あとは運搬の不便? とかで不都合が多かったからじゃないの?」
当然コーウェンは、この世界の紙幣の歴史なんて知らない。だから、彼が答えたのは地球での知識だ。
「……知ってたんだ。いつも思うけど、ウェンって賢いよね」
どうやら正解だったようだ。コーウェンはホッとする。
それにしても、アーヤは本当に素直に人を評価する。必死に作ったのであろう問題を答えられた時でも落ち込むことなく、まるで賢い子供に感心する大人のような、そんな評価だ。
アーヤ以外の子供とは特に接しないコーウェンだ。自分の一般的な六歳児に対する知識が欠落していることは自覚している。だが、それでもアーヤの態度は異常だとわかる。頭が良いだとか、知識が豊富だとかいう以前に、もっと本質的な意味で彼女は賢い。
(だからこそ、俺はアーヤと仲良くなりたいと思ったのかな)
確かに、アーヤを初めて見たあの日、コーウェンは彼女と仲良くなりたいと思った。
そんなことを考えながら黙り込むコーウェンを見てどう思ったのか、アーヤが顔を覗き込む。
「どうしたの? 体調悪い?」
「ん、いや、大丈夫だよ」
「本当に? それならいいけど。それにしても、私以外でこんな問題答えられる子供おかしいよ。やっぱりウェンは凄いよね」
アーヤの評価は素直、それは自分自身についてもだ。
アーヤは正しい。確かにこのような問題を答えられる子供は極少数だろう。だが、だからこそ、その『凄い』とは彼女自身にも返ってくる。
この世界では一概には言えないが、そういう人間は得てして嫌われるものだ。言っていることが正しいアーヤだからこそ余計に。
だが、アーヤからはそれくらい理解していて、それでもそのような発言をする――少しやけくそになっているような雰囲気も感じ取れた。
本当に不思議な子だ、とコーウェンは嘆息する。
そんなアーヤが誰かに嫌われるなんて、そんなことは考えたくないとも思った。だから――
「そういうことはあまり言わない方がいいと思うよ。今は平気でも大人になったら、ね」
「……でも、大人になってからのことなんて考えられないよ」
アーヤがコーウェンの顔を覗き込む。
その大きくて綺麗な目はどこか、その言葉に隠された恐怖や孤独を映し出しているかのようにも思えた。
アーヤの言っていることは理解できるし、コーウェン自身もかつてはそう思っていた。だが――
「――大人になるのって思ってるよりも早いかもしれないよ?」
「……どういうこと?」
「僕達はまだ六歳だ。つまり、生まれてからの六年間が僕たちの全てなんだ。十八歳を大人だとすると、僕たちが大人になるのってあと十二年かかるわけだよね? それって僕たちは、僕たちの全てをあと二回繰り返す必要があるんだ。だからとてつもなく長く感じるけど――」
人によって、一年の長さはそれぞれ違う。
一歳児にとっての一年とは、自分の全てだ。それを一歳児が短いと感じるわけがない。
「――そうだね、大人になったら短かったって思うよね」
コーウェンが最後まで言い切る前に、アーヤはそう言った。
コーウェンは、さすがのアーヤでも理解できないだろうと思ってこの話をした。少なくとも、理解したとしてもアーヤの心には響かないだろうとも思っていた。
だが、アーヤの反応はどうだ?
俯き、何かを噛みしめるような、実際過去に同じことを思った経験があるかのような。
そこで、コーウェンの頭をある可能性がよぎった。
今までの会話や行動からは一瞬たりとも連想しなかった、と言えば嘘になる。だが、それは通常ありえないことだ。とんでもなく賢い子供が存在するという事実の方がよっぽど現実的だ。だからこそ、無意識にその可能性を破棄してきたのだ。
それが間違っていたのかもしれない。確かにありえない。だが、実際にありえているではないか。存在しているではないか。
それなのになぜ考えなかったのか、そうコーウェンは自分を戒める。
コーウェンは、一か月前に初めてアーヤに会ったあの日から今までの言動を思い出し、思考を巡らす。
すると、全てに辻褄が合った。
――アーヤは転生者ではないのか?
あくまでも可能性であり、コーウェン自身がそうだからという事実がなければ決して出てこない考えだ。
だが、人間、一度疑ってしまえばその可能性が頭から離れなくなる。
――コーウェンにはもう、アーヤは転生者だとしか思えなくなっていた。