06 悪夢の現実
気持ちの良い、玉響の微睡み。
少しの間身を委ね続けたコーウェンは、完全に覚醒するのを待たずにベッドから身を起こした。
部屋を見渡す。昨日と変わらない空間が広がっているのを確認すると、言いようのない安心感を覚えた。
最近は夢を見るのだ。
この世界、この家族が大好きな今だからこそなのか、それとも前世の自分に対しての執着が薄れてきていることを自覚しているからなのかはわからない。
だけどやめてほしかった。
日本語を忘れる夢なんて、そんな悪趣味なものを見せないでほしかった。
コーウェンはとっくに自分を見失っているのかもしれない。それは完全現実主義で、無意識の内に自分や周囲を冷静に分析して生きていた隼人がある日突然別の存在へと生まれ変わって、魔法なんていう理を無視した存在を目の当たりにし、究極的にはそれを己自身が行使しているという現実がそうさせるのだろう。
これは本当の意味での悪夢だ。
そもそも自分とは何なのか、深い意味など必要ない、小学生のような解答でも良い、「俺はコーウェンだ!」と叫べば良い。
だが、彼にはそれすらも満足にできないのだ。
たとえ今がどれだけ幸せだろうと、その事実が変わるなんて日がくるようには思えない。
(いけないな……)
どうも嫌な夢を見た日の朝は、必要以上にネガティブな思考を展開してしまう。
コーウェンはそんな自分を鼻で笑いながら、メリファが起こしにくる前に部屋を出ようと立ち上がった。
六歳になったコーウェンは、一年ほど前からこのような夢を見るようになった。
そんな変化に対して根拠なんてないのだが、そろそろ何か行動した方が自分の心も落ち着くような気がしてきた彼は、今日から学校へ通うことにしたのだ。
学校へ通うための規則なんてものは特になく、年齢もまちまち、大体はコーウェンくらいの歳から通う子供が多いという。精神的な年齢はすでに二十歳を超えているコーウェンだ。そのために友達ができたりといったことは期待していないが、知り合いを増やしておいて損はないだろうという思いはある。
そして、早くこの世界に、形がわからなくなるほどドロドロに溶け込みたいという焦りと。
◆◇
家族皆で朝食を済ませたコーウェンは、メリファに手を繋がれ、まさに家を出ようとしているところだ。
この世界の学校は日本の学習塾のようなもので、入学するからといってそれがめでたいだとか、そのようなイベント染みたものではない。だが、コーウェンにとって一日の半分を家の外で過ごすのは初めての経験だ。もっと言えば、ディスタート家の敷地――無駄に広い庭――からは出たことすらなかった。
「行ってらっしゃい。メリファが付いてるから大丈夫だろうけど……気を付けてね?」
「じゃあなウェン。それとメリファ、ウェンを頼んだぞ?」
そんなコーウェンがやはり心配なのだろう、アメリアとコールが玄関口で二人を送り出している。
コーウェンはそんな二人に微笑みながら手を振り、メリファは頭を下げ、家を出た。
広い庭を抜けた先は、思っていたよりもずっと立派な町並みだった。ディスタート家にあるコーウェンの自室からは、方角の問題もあり大きな森しか見えないのだ。初めて見たこの光景は、土と木で構成された村ではなく、石とレンガが大半を占める都といった感じか。
以前に聞いた話ではこの町――リグルドは、俗に言う中小都市だそうだ。
通りには馬車が行き交い、どっしりと構えた露店なんかも見かける。
そんな町中を、メリファが手を引いて先導してくれる。
「メリファ、実際にリグルドを見たの初めてなんだけど、大きいんだね。これくらいは他の町でも同じなの?」
「んー、他と比べてもここは大きいですよ。そうですね――」
メリファは自宅と逆方向を指差し、続ける。
「ずっと向こうへと進むと、大きな海が広がっているんです。コーウェン様は見たことないですが本当に大きいんですよ? その海の向こうにはこことは別の大陸が存在して、そして別の国も存在します。それらと貿易をする時に、このリグルドは窓口の役目を果たすのです。だからリグルドはこれほどまでに発展しているのです」
「――物知りだね、メリファ。他にも色々教えて!」
「ふふ、わかりました」
コーウェンに褒められたメリファは、嬉しそうな笑顔を向けた。
コーウェンの言葉に偽りはなく、メリファは教養が豊かだ。それは魔法も然りで、一使用人だけでなくコーウェンの教育係を務めているのもうなずけた。
「貿易の窓口と言いましたが、船で運ばれるのは荷物だけではありません。当然人間も行き来します。だからリグルドには様々な人種が存在するのです。――肌が黒い者、肌が白い者、耳が尖っている者」
メリファが言う人種とは、コーウェンもこの世界の本を読むことによって知識として知っていた。
肌が黒い、白い者とは、そのままの地球に存在する人種の違いと同じだという考え方で間違いはない。だが、耳が尖っている者というのは少しだけ違う。地球には存在せず、最も近い表現をするならば『エルフ』だ。そして、エルフの中にも肌が黒い者が存在し、それらを『ダークエルフ』と呼称する。
ダークエルフは極端に数が少なく、エルフとは肌の色以上にもっと根本的な意味で別の種族らしいのだが、呼ぶ側も呼ばれる側も『エルフ』と一括りにすることで納得している。
「じゃあ、学校にもいるかな? 色々な人」
「いるかもしれませんね。エルフは美女が多いと聞きます。コーウェン様、そんな方に心を奪われて、私、メリファをお捨てにならないでくださいね?」
メリファは冗談だとわかる口調で微笑みながら言った。
そんなメリファに微笑み返す。
コーウェンはその後も、メリファから様々な知識を吸収していった。
やがて、メリファが足を止めたかと思うと、脇に存在する豪奢な建物を指差しながら口を開いた。
「ここです。着きましたよ」
メリファが指差す先には、ディスタート家より小さな二階建ての建物がある。
単純な敷地面積では地球で言うところの幼稚園や保育園くらいで、学校と呼ぶには少し小さな印象を受けさせるような建物だ。
入口は開け放たれており、いつでも来客を迎え入れる姿勢だということが理解できた。
「よし、行こうか」
コーウェンがこの世界の人間と接触するのは、家族以外では初めてだ。偶にディスタート家を貴族やお金持ちが訪ねてくることはあったが、特に関係を持った覚えはない。
だからか、コーウェンは少し緊張していた。
「ふふ、コーウェン様、そんなに緊張しなくても平気ですよ? それに、子供らしいコーウェン様は可愛らしすぎて反則です」
「いや……うん、そうだね」
「はい、そうです」
メリファはそう微笑みながらコーウェンの手を引く。
彼女の掌の温かさがなぜかとても頼もしいもののように思えたコーウェンは、導かれるがままに門をくぐった。
広がるのは石の独特の匂いと、地球にいたころは写真でしか見たことのないような幻想的な空間だ。
二階建ての割には高い天井、広い空間には壁に穴があけられており、そこからの木漏れ日が石造り特有の寒々とした印象を和らげている。
「すごい……」
思わず呟いたその言葉にメリファは満足そうな表情を浮かべると、先へと進んでいく。
最初の広い空間を抜けると、そこは先ほどまでの空間とは打って変わって暖かな印象を受けさせる生活空間が広がっていた。無駄なスペースはなく、伸びた廊下の右側に様々な部屋への入口が設けられている。
どうやら土足で構わないらしく、メリファはそのまま奥へと進んでいく――と思った時、奥から一人の男性が近づいてきた。男性は二人の存在に気付くと足を止めた。
「えっと、入学希望者の方ですか?」
「はい、コーウェン・ディスタートという者です」
メリファがコーウェンの名前を出すと、男性は納得したような表情を浮かべた。
「ディスタート家の方でしたか。はい、既に話は聞いております。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
男性に付いて行くと、廊下の一番突き当りにある扉の前で止まった。
「入学についての手続きは全て終えているということなので、早速授業を受けていかれて問題ありません。まだ一時限目は始まっておりませんので、このまま教室内で待機していただければ」
男性の言葉を聞き、メリファとコーウェンは目を合わせ、頷いた。
「よろしくお願いします」
「はい、では中へどうぞ。お母様はここまでとなっております」
「お母……、はい、では時間になったらまたきます」
今日のメリファはメイド服を着ていないから、男性からしたら母親に見えるのだろう。
そんなお母様の部分はあえて否定せずに、メリファは頭を下げた。そのまま少し名残惜しそうにコーウェンを見つめると、「お迎えに上がるまでのお別れですね」と言い去っていく。
コーウェンに対する丁寧な態度に正しい関係に気付いたのであろう男性は、小さく苦笑いを浮かべながらコーウェンを部屋へと招き入れ、去って行った。
部屋に入ったコーウェンは、その教室の豪華さに驚いた。床には赤いマットが敷かれており、まるでどこかの屋敷のようだ。
その上に長机が列を成しており、一つの机に二つの椅子、共有式なのだと理解できる。
そして、そこには既に二十人ほどの子供たちが存在していた。見た目は同じくらいなので、年齢別にクラス分けされているのだろうか。
皆が教室前方の席に集中しているところを見ると、変なよそよそしさがない無垢な子供たちなんだと、この世界で初めて見る同年代の子供たちに対し感動を覚えた。
そこで、コーウェンの視線はある一点に注がれる。
特別な何かを感じ取ったのだろうか、それともその綺麗な髪に感動しただけなのだろうか、そこには一人の女の子が子供たちの集団から外れて席についていた。
長い銀髪をもみあげの部分でぱっつんに切ってある。俗に言う『お姫様カット』だ。大きな目はとても綺麗で、痩せ形にもかかわらず頬はふっくらしている。そのことからコーウェンと同じ幼子なんだということがわかる。
もちろん全体的なサイズから子供だと判断するのは容易なのだが、彼女からはそう感じさせない何かが存在するように思えたのだ。
コーウェンは無意識の内に、そんな彼女の隣へと座った。
どうしてそんなことをしたのかはコーウェンにもわからない。だが、素直に仲良くなりたいと思えたのは事実だ。
すると、突然隣に座ったからか女の子が怪訝そうな目でこちらを見てきた。その視線で自分の行動の大胆さに気付いたコーウェンだったが、最早後の祭りである。
「あっ、と……移動した方がいい?」
「……別に、いてもいいよ?」
子供らしくない、それが、今の女の子の一言でコーウェンが感じた彼女に対しての印象だ。
子供が同じ子供に対して見せる無邪気さ、器量の大きさというよりは、どこか大人が小さな子供を諭す時のような言い方に聞こえたのだ。
それが余計に、コーウェンの“仲良くなりたい”という気持ちを大きくした。
「ありがとう、僕の名前はコーウェン。コーウェン・ディスタート」
「私はアーヤ・メイルリー。よろしく」
二人はその後、様々な話をした。
何か特別な印象を受けさせるアーヤとは話が合った。全体的に大人っぽく凛々しく振る舞うのだが、時折見せる子供らしさが可愛くも思えた。
そして一番驚いたのが、コーウェンとアーヤの生年月日が全く同じだということだ。
そんな思いもよらない共通点もあり、二人はこの一日でかなり仲良くなった。
やがて、授業が終わり下校時間がやってきた。
子供たちばかりで友達ができるなんて考えてもいなかったコーウェンだが、アーヤとの出会いは思いもよらない収穫で、授業がとても短く思えた。
そんなことを考えながら教室の外へと出ると、そこには既にメリファがコーウェンが出てくるのを待っていた。とてもニコニコしている。
そんなメリファとコーウェン、そこにアーヤを加えた三人で学校を出ると、コーウェンはアーヤへと手を振る。
「じゃあね、アーヤ」
「うん、また明日」
コーウェンのように迎えがきている家は少なくないが、アーヤは一人で帰宅するらしい。
そんなアーヤを見送ってから歩き出すと、メリファが意地の悪い顔で問いかけてくる。いつものメリファは『ニコニコ顔』なのだが、この時は『ニヤニヤ顔』だ。
「コーウェン様も隅に置けませんね。あんな可愛らしい子と初日から仲良くなって」
「うん、友達になったんだ。アーヤって名前」
「ふふ、そうですか。私は嬉しいです」
そう言うメリファの顔は、さっきまでの意地の悪い表情ではなかった。もっと、コーウェンの身を案じているかのような、心の底から安心しているかのような表情だ。
「コーウェン様は可愛らしく、大変格好良くございます。ただ、少し他の子供とは雰囲気が違う気がしていましたので」
ディスタート家の人間はずっとコーウェンを見てきたせいで、少しばかり幼子についての常識が麻痺しているのだが、それは本人たちも自覚していた。コーウェンが普通じゃないということもわかっていた。だからこそ、メリファは自分の慕っているコーウェンがこの先寂しい経験をしていくのではないかと、そんな心配をしていたのだ。
それを鋭く感じ取ったコーウェンは、そんなメリファを安心させようと最大限の笑顔を向ける。
「大丈夫だよメリファ。僕は大丈夫」
多くを語る必要なんてない。メリファにはその言葉だけで十分だった。
メリファには、コーウェン以上に大切な人はいないと確信できた。
両親は既にこの世にはいないし、恋人も子供もいない。だから、ディスタート家の人間が彼女の全て。アメリアが、コーウェンはあなたの子供でもある、と言ってくれた時には思わず泣きそうになった。
コーウェン以上に愛を捧げた人間はいない。その人物が子供の身でありながら大人のような振る舞いをし、大人以上にたくましく、自分の身を案じてくれているのだ。
これほど幸せな人間は稀有だろう。
だから、メリファはいつもの『ニコニコ顔』を浮かべて言う。
「――はい、これからもずっと、コーウェン様のことをお慕い申し続けます」