62 終止符
聞こえてきたのは、この季節になると姿を見せる野鳥の鳴き声だった。
いつかと同じ、穏やかな朝――。
木立から漏れる陽が涼やかに揺れると、微睡みの誘惑に負け寝返りを打ったコーウェンの顔を控えめに照らした。同時に、そのベッドがいつもより大きなものだと気付き、昨夜は両親と一緒に寝たんだということを思い出す。二人は既に起きているようだった。
ふと、朝日の向こうに見知った顔を見つける。コーウェンの視線が自分を捉えたことに気が付くと、彼女はニコニコと微笑んだ。
そう言えば、起こしに来てくれた声を聞いた気がする。
だが気のせいだったかもしれない。そうだったら嫌だなと、コーウェンはもう一度お願いすることにした。
「メリファ……もう一度、起こして」
そんなお願いに、メリファと呼ばれた女性は不思議そうに首を傾げた。だが優しい彼女は、疑問を呈することなく望みに応じてくれる。
「コーウェン様、朝ですよ。起きてください」
透き通るような優しい声。改めて聞いてみれば、それはとても綺麗な声なんだと気が付いた。
コーウェンはそんな彼女へと微笑み返す。
「おはようメリファ」
「はい、おはようございますっ」
「……うん、おはようメリファ」
なんとなく、コーウェンももう一度挨拶を返した。
今まで考えたことがなかったが、改めて聞いてみると、自分の声も案外綺麗なんだと気が付いた。
――こうやって、コーウェンは最後の朝を両親のベッドで迎えることとなった。
――そしてどうやら、メリファの『おはよう』は、どんな状況でも変わらない朝を届けてくれるようだった。
◆◇
自室へと着替えを取りに戻ったコーウェンは、鏡に映った自分の姿を見た。
身長はおよそ百三十センチメートルほどで、体重も三十キログラム程度。そんな小柄な少年の頭髪は色素が薄く、そこだけを見ればまるで老人のようでもあった。
コーウェンはこちらを見つめる自分自身に向かって、わざとらしく笑いかけたり、ピースサインを作って見せたり、手を振ってみたりした。
全く同じ動きを返して来るその子供は、今日を最後にこの世界から姿を消すこととなる。少し寂しくなったコーウェンは、そんな自分の姿へと手を伸ばした。
やがて鏡の中の自分と指先が触れ合うと、何故だか頬が弛んでいくのを感じた。
「およそ九年弱、世話になったな。……ありがとう」
本当に気まぐれに、そんなことを言ってみた。
すると不思議なことに、少しずつ鏡の向こうの自分へと伝えたい言葉が浮かび上がって来た。
「実はお前、母さん似のその顔気に入ってただろ? 周囲には常々父さんのような顔に生まれたかったなんて言ってたくせに、この顔はこの顔で整ったいい顔だもんな」
自分で自分の顔を褒めるという奇妙な行為に、コーウェンの頬はますます弛んでいく。
「髪の毛だってそうだ。多くの日本人は一度は、こういう色素の薄い髪に憧れるものだろうから。……でもあれだよな。隼人の時よりも少し寝癖の付きやすい髪質だから、そこは少し苦労したっけ。……いや、毎日メリファが直してくれてたから特に苦労はしなかったか。悪い、ちょっと嘘ついたな。――じゃあ、そろそろ朝食の時間だから」
誰も見ていないことをいいことに少しばかり気味の悪い遊びに興じていたコーウェンは、最後に鏡の中の自分へと「さっきから真似してんじゃねーよバーカ」とだけ言い残し、その場から退いた。
そしてもう二度と着ることのない寝間着を脱ぎ去ると、お気に入りのシャツへと袖を通し、部屋を出ようと扉を開ける。
毎日寝て起きて、魔法の練習をして、よくアーヤを招いていたコーウェンの自室。その入り口で立ち止まったコーウェンは、ふぅっと短く息を吐くと、壁に立てかけてあった愛用の剣を手に取ると、振り返ることなくその場を立ち去った。
その後コーウェンは、メリファの部屋にある化粧机で寝癖を直してもらい、メリファと共に食堂へと向かっていた。
髪の毛のセットをしてもらっている間に、今日の朝食はトーストとトマトスープ、干し肉のサルサソース添えだと聞かされていた。全てがコーウェンの大好物だ。嬉々として階段を下りると、両親とディーアが待つ食卓へと駆け付けた。
「おはようみんな!」
開口一番に挨拶をしたコーウェンに、みんなもそれぞれ挨拶を返す。
そんな当たり前の儀式を済ませ、コーウェンはいつもと同じ椅子に腰かけた。遅れてやって来たメリファが席に着くのを待ってから朝食の時間が始まった。
全ての料理をしっかりと味わい、一口一口を大切に食べ進めて行く。
やがて全てを平らげると、作った本人であるメリファへと笑顔を向けた。
「ありがとうメリファ。今日も美味しかった」
そう言うコーウェンへとメリファも微笑み返す。
「いえいえ、そう言っていただけるだけで幸せです」
「ふふ、今日は私もお手伝いしたのよ」
そう言ったのはアメリアだ。自慢するかのように胸を張る彼女へと、メリファが「おかげでいつもより美味しく仕上がりました」と返す。
よくできたメリファと子供のようなアメリア。そんな二人へと改めてコーウェンは礼を言う。
「二人ともありがとう」
「いーえ、どういたしまして」
そんな誇らしげなアメリアの言葉を聞き届けると、コーウェンはコールへと向き直った。
「父さん、ちょっと急だけど、今日はちょっと出かけて来るよ」
「ああ、それで剣を持ってたのか」
そう言うコールの視線は椅子に立てかけてあるコーウェンの剣を捉えている。
コーウェンはそんなコールへと頷いた。
「そうか。それで、もうすぐに出るのか?」
「うん、もう五分もしない内に。ディーアさんも一緒だから心配しなくていいよ」
コーウェンはそう言うと、左対角線上に座っていたディーアの方を見やった。
その視線に気付いたディーアと目が合い、彼女は続いて向けられたコールの視線へと頷き返す。
「わかった。気を付けて行ってこい」
アーヤが亡くなった日からまだ五日しか経っていないため、コールはやはりコーウェンのことが心配なのだろう。だがディーアが一緒だと知ると、快く許可を出してくれた。――もう二度と帰ってくることはないと知らずに。
――騙すような言い方してごめんね。
そんな父親へと、コーウェンは心の中で謝罪を呟く。
結論から言えば、コーウェンは自らの死を家族には明かさないことにした。
コーウェンがこれから受ける『魂の転移』には、転移の瞬間に家族の誰かと名を呼び合うと、転移を共にしてしまうという予備能力があるためだ。そしてこれは、強い気持ちさえ抱いていれば、たとえ名を口に出していなくとも発動してしまう場合があるのだ。
最後の悪意に気分の悪さを覚えながら、コーウェンは椅子から立ち上がった。――これで、もう二度とこの椅子に座ることもない。
コーウェンは最後の行為全てを噛み締めるように頭の中で自らの行動を反芻しながら、一歩一歩、ゆっくりと両足で床を踏みしめて歩く。そして食堂を出る寸前で立ち止まった。
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
そんなコーウェンへとメリファ、アメリアの声が届き、コーウェンも返事をする。
おそらく、ここを出ることこそが、彼らとの永遠の別れとなるだろう。そんな考えを唯一推測できるディーアの唾を飲み込む音を、コーウェンの上昇した聴力が捉えた。
コーウェンは踏み出そうとした一歩を一瞬だけ空中で止めると、意を決して踏み出した。
最後に振り返ることなく言葉を絞り出す。
「父さん、母さん、メリファ。急にどうしたって思うかもしれないけど……。――みんな大好きだよ」
振り返らずとも、彼らが首を傾げている様子がコーウェンには想像できた。続いて聞こえて来る照れるような笑い声を聞き届けると、やがてコーウェンは歩き出した。
三歩ほど歩いたところで、とうとう涙が溢れ出した。それは頬を伝い、床へと小さな濡れ跡を作り出す。
堤防の決壊がもう少し早かったら、最後の言葉に不細工なビブラートがかかり要らぬ心配をさせたことだろう。コーウェンは耐え切った自分を心の中で褒めつつ、やがてディスタート家の玄関を開け、外へと出た。
遅れて付いて来たディーアが無言でコーウェンの横に並ぶ。そんな彼女が変わらず無言で手を繋いできたのをきっかけに、コーウェンの涙に嗚咽が混じり始めた。
ディスタート家の庭を横切り、その敷地外へと足を踏み出す。そこでとうとう我慢が出来なくなり、コーウェンは背後を振り返った。
ディスタートの大きな屋敷。外から見るコーウェンの部屋。昨夜一晩を過ごした両親の部屋。コールと毎日剣の修業をした訓練場へと続く渡り廊下。そして先ほど通り過ぎたばかりの玄関――そこにあったのは、気まぐれにコーウェンの様子を未届けに来たのであろう三人が、丁度その姿を見せた瞬間だった。
そんな不意打ちに、コーウェンは慌てて顔を背けた。
泣き顔は見られていないはずだ。そう自分に言い聞かせつつ、逃げるようにその場を後にする。
やがて彼らの姿が見えなくなる地点まで辿り着くと、先ほどまであれだけ気丈に振る舞えていたのが嘘のように声を出して泣いた。人目を憚らないコーウェンの頭にディーアの手が乗せられる。そして一緒に泣いてくれた。
そんな彼女へと礼を述べるだけの余裕は、最早どこにもなかった。
――こうして、この日、コーウェンは家族との永遠の別れを果たした。
◆◇
コーウェンとディーアが約束の地――リグルドの外れにある森林へと辿り着いたのは、約束していた時間と丁度同じくらいのタイミングだった。
そこでは大人コーウェンとアイズが既に待機しており、コーウェンの姿を捉えるなり声をかけてきた。
「わかってたことだが、随分と泣き腫らした顔をしているな」
そんな未来の自分の言葉に、コーウェンは黙って頷いた。
そして最後にもう一度袖で涙を拭っていると、あろうことか、大人コーウェンがこちらへと恭しく頭を下げてきた。
同一人物とは言え年上の大人に頭を下げられて、コーウェンは焦ったようにその行為を止めさせる。
「いや、そんなのいいって。それにお前は俺だろ? 改まる必要なんて――」
「――いや、今お前が歩んでいる道が俺の経験しなかった道であることに変わりはない。そして言うまでもなく、俺とお前は全くの同一人物ではないんだ」
大人コーウェンはそこまで言ってようやく頭を上げる。
「だからこそ、敬意は払っておきたいんだ」
「そ、そっか……。――いや、こっちこそ、ありがとう」
そう返したコーウェンは、どこか清々しい気持ちでいる自分を自覚していた。
それは未来の自分から感じる圧倒的なカリスマ性が原因かもしれない。確かに彼の言う通り、こんなに凄そうな人と自分が同一人物など、少し信じられない気持ちもある。――ふと、彼の一人称が『俺』になっていることに気付く。
コーウェンはそんなことを考えながら、大人コーウェンの隣に立つアイズへと顔を向けた。
「アイズも、本当にありがとう。あの時の約束通り、こうやって力になってくれてるんだよな」
そんなコーウェンの発言に、アイズはかつての彼からは想像もできない優しい笑顔を返してくれた。
「ただ協力してただけじゃないよ。僕自身も楽しかったし、こうやってここにいれるのも君のおかげだ。――こっちこそ、ありがとう」
そう言って、彼とも心からの笑顔で笑い合った。
最後にコーウェンは、隣に立つディーアの顔を見上げた。
「ディーアさん、本当に出会えてよかったです。ありがとうございました」
そんな呼びかけに、彼女は満面の笑みで応えてくれた。
「だからぁ、それは何回も聞いたって言ってるだろ?」
冗談混じりにそんなことを言いながら、ディーアは腰を折りコーウェンへと顔を近付ける。そして額にそっと口付けをした。
やがて唇を離した彼女は、照れ隠しをするかのようにコーウェンの頭を抱いた。
「でも嬉しいよ。ふふっ、私の方こそ、お前に出会えてよかった。ありがとう」
「はい……」
そして少しの沈黙の後、「とうとうお別れですね」と、二人して今日で何度目になるかわからない涙を流し合う。
コーウェンは泣きつつも身体を離したディーアへと微笑みかけると、やがてそっと両目を閉じた。
この場にいない家族とネイルへの最後の言葉は、もう既に手紙にしたためてある。今までの感謝や抱いている愛を伝えるのはもちろん、コーウェンとアーヤの正体や秋谷隼人のこと、そして何を思いこの道を選び取ったかなどを詳細に書き綴り、コーウェンの部屋にある机の上へと出しておいた。もちろん数年後にディスタート家を訪れることとなるらしいアイズのことも説明し、彼を温かく出迎えてほしいという旨も忘れずに記してある。
もう――何も憂うことはない。
「さあ、やってくれ」
コーウェンは目を見開き、未来の自分を力強く見据えた。
その眼差しに彼は魔力を練ることで応えてくれる。
「痛みを与えないことを約束しよう」
そう言ってくれる彼へと頷くと、コーウェンはもう一度目を閉じた。
視界が閉じる瞬間に、震える唇を必死に噛み締め名残惜しそうにコーウェンの傍を離れるディーアの姿が映った。そんな彼女へと、目を瞑ったまま微笑みかける。
そしてそのまま、大きく深呼吸をした。
そんなコーウェンの頭を過るのは、コール、アメリア、メリファ、アーヤ、ネイル、そしてディーアと過ごした、かけがえのない日々の記憶だった。
みんな、深い愛情を以て接してくれた。
みんな、何度も何度も微笑みかけてくれた。
――大好きなみんな。
世界で一番好きな人はアメリアで、世界で一番尊敬している人がコール。一番感謝しているのがメリファ。ネイルは一番可愛いと思うし、ディーアには一番助けられた。そしてアーヤは俺にとって――。
――父さん母さんメリファ、そして支えてくれたみんな、今まで本当にありがとう。
――突然だけど、僕はこれから、世界で一番大切な人に会いに行きます。
――だけど安心して。大好きなみんなのことは絶対に忘れないから。
――それじゃあ、行ってきます。
――さようなら。
その時、コーウェンの上昇した聴力が魔法の発動音を捉えた――ような気がした。
実際にははっきりとはわからなかった。だがゆっくりと目を開けたコーウェンの視界を覆っていたのは、あの日と同じ『赤』の光景だった。




