57 邂逅の変化
――エルフの国防衛戦、開戦日の夜。
広大で荘厳な大自然の中でも一際存在感を主張する、荒々しく切り立った断崖絶壁。雨が降っている現在、その斜面を水が滑らかに流れ落ちている。
自然の神秘なのか、その断面では巨大な洞窟が大きく口を開いている。その出で立ちは、何者をも拒むまいと主張しているかのようにも思えるほど堂々としたものだ。
その洞窟の前で、一人の男が立ち尽くしていた。
その色素の薄いグレーの髪には、長時間雨が降り続いている割にはあまり水気を含んだ様子が見受けられない。
この付近はあまりに広大であり魔物の数も多いため、人類による探索の手が届いていない場所だ。その男の存在は誰から見ても不自然だと言えるだろう。
そんな中、男は何かの紋様であろう黄金の刺繍が施されたローブで身体を包み込み、躊躇うことなく洞窟内へと入り込んだ。
外では雨が降っているからか、洞窟内にはポツーン、ポツーンといった水の滴る音がひっきりなしに響いている。
男は、あらかじめ拾っておいた丈夫そうな木の枝に無詠唱の魔法で火を灯すと、それを松明代わりに奥へと進む。松明の明かりによって控えめに姿を現した洞窟の内部は、横に広く、奥に遠く、縦に長いとても巨大なものだ。この程度の明かりでは、天井にも突き当りにも十分と光が届くことはない。暗闇を晴らすには光魔法を使用するという方法もあるのだが、これは高度な技術なため継続して理想的な光量を維持するのはさすがの彼にとっても負担となる。夜目の利いた今の状況を維持しておきたいため、明るければ良いというわけではないのだ。
そんな中、男は無言で歩き続ける。
よくもこんな巨大な洞窟が出来たものだ、と心の中で感心するのは、彼にとって初めてのことではない。
少しの間歩き続けた男は、その自慢の聴力で何かとてつもなく重く低い呻き声のようなものを捉え、一瞬だけ足を止めた。
「…………少し、怖いな」
巨大な生物――魔物の存在を確信した男は、無表情のまま誰ともなくそう呟いた。
だが病気も治し、十年もの月日を実力向上のために消費したのだ。当然それらを無下にできるはずもなく、男はすぐに歩みを再開させた。そんな彼の手には、いつの間に出したのか、立派な剣が抜き身で握られていた。その剣先に震えは見受けられない。病気はとうの昔に治してあるのだ。
そのまましばらく歩き続けた男は、やがて一つの大きな部屋へと辿り着いた。
上を見れば、火山口の中にいるような錯覚をするほどに高く吹き抜けている。その頂上は閉じられておらず、そこから差し込む月明かり――雨天のため僅かだが――のおかげでその高さを実感できるのだろう。
先ほどまでの通路でも十分に広かったこの洞窟内だが、ぽっかりと何かを失ってしまったかのような広がりを見せるこの空間には、二度目の訪問と言えども驚かずにはいられない。
「とりあえずは予想通りだな」
その発言は、この空間の対面側を両目で見据える男から放たれたもの。
視線を追うと、男が入って来た通路と同じような空間が奥へと伸びている。そこから、大きな身体を豪快に揺らしながら、一体の魔物がこの部屋へと入って来た。
漆黒の体躯は流線形を描き、妖しく光るその全身は鎧のような鱗で覆われている。
前身だけで十メートルはあるであろう巨大な身体を支えているのは、筋骨隆々の丸太のような二本足と、引きずられた尾だ。背筋から尾の先端にかけて、逆立った剣のような棘が連なっている。
たてがみが神々しくもある、獅子を思わせる顔面。大きく裂けた口からは、無数のノコギリ歯と、人間の腕と同程度の長さを誇る二本の牙が己の存在を主張するかのように顔を覗かせている。そこから漏れ出る吐息はどれほどの熱を帯びているのか、白く濁り空気中へと霧散する。
そして、そんな巨体を持ち上げるための、大きな翼。
全ての生物を委縮させる、赤黒い眼光を放つ世界最大級の魔物。――ドラゴンだ。
「グルォオオオオオオオオオッッ――!!」
興奮すると出るのであろう甲高い怒号が、重低音も顔負けなほど激しく空気を揺らす。
男は少し気圧されるのを自覚しながらも、引かずに剣を構えた。
「……漆黒の体躯と、二本の長い牙を持つ龍系種。人類が発見した最古のドラゴンであることから呼称される――“古代の龍王”と。……さあ、炎龍と、どちらが強い?」
男が言葉を紡ぎ終えると同時に、ドラゴンは巨大な翼を羽ばたかせ宙へと舞う。
まるで先ほどの問いかけに対し、「自らの目で確かめろ!」と言わんばかりのその威圧感に、男は思わず口を歪ませた。
「まあ……、炎龍とは『使役』でしか戦ったことがないんだがッ!」
疾駆という言葉が似合う、思わず目を見張るほどの速度で、男はドラゴンの王を目がけ走り出した。
胸の内で、その勝利は揺るがないものだと信じて――。
◆◇
「――『清音天籟』」
リグルドを飛び出したコーウェンの小さな口から、人殺しに特化した火魔法の名が唱えられた。
特殊魔法『転移』。
これは大きく分けて二つの能力を持つ特殊魔法であり、その内の一つに『肉体の転移』というものがある。これは術者本人、または術者以外の任意の者の肉体を、衣服や装備ごと離れた地へと転移させることができる魔法だ。そしてその転移先に明確な制限はなく、たとえそれが未来や過去の世界であろうとも転移を可能とする。
この『肉体の転移』には三つの区別があり、一つ目に『自らの転移』、二つ目に『他者の転移』、そして三つ目に『他者を召喚する転移』と分けられる。なお、二つ目の『他者の転移』を行う際には、対象となる人物の身体に術者の身体が触れていなければならない。
そんな『肉体の転移』だが、術者が極めて強大な力を持つ人物だとは言え、その圧倒的な能力に見合うだけの大きな制限がある。
一つが、過去を大きく改変する意思がある限り、過去への転移が不可能となること。そして二つ目が、三つある転移方法の全てがそれぞれ生涯で三回ずつしか使用できないということだ。つまり術者であるコーウェンが『肉体の転移』を使えるのは、『自らの転移』を三回、『他者の転移』を三回、『他者を召喚する転移』を三回の計九回だけなのだ。
特殊魔法『転移』が、他の特殊魔法と比べて強力なのは間違いない。
だが、過去を大きく改変できない――人の死をなかったことにはできない――という制限が、コーウェンのまだまだ幼い心をこれでもかと縛り上げていた。
――アーヤを生き返らせることができなかった。
だからこそコーウェンは制止するメリファを振り切り、復讐のためにファウリッドの命を奪い去るのだ。
詠唱と同時に放たれた魔法の劫火は、ファウリッドを目がけ辺り一面の僅かな闇を完全に晴らす。全てを焼き尽くす熱気に左目が疼き、空気を焦がすその悪意がコーウェンの内臓をも蹂躙していくようである。堪らずに胃の内容物を全て吐き出すが、それでもコーウェンは目を逸らさない。
やがて魔法の消失によって次第にファウリッドへの視界が開け、その光景が目に飛び込んで来た。
「俺の……勝ちだ」
そこにファウリッドの姿はなく、彼の立っていた地面に残り火が広がるだけである。
少々拍子抜けな思いを抱きつつも、コーウェンは地面へと膝を突いた。
「よろ、こばないと……」
そう、喜ばないといけない。自分はたった今、愛する義妹のために格上の敵と戦い、見事に復讐を果たしたのだから。
だが、コーウェンの絶望がなりを潜めることはない。まるで絶望が新たな絶望を運び込んでくるかのように、その疲れ切った心が満たされることはなかった。
そんなコーウェンの肩に、背後から誰かの手が乗せられる。ゆっくりと振り返るコーウェンの視界に入り込むのは、先ほどシリウスの剣から身を守ってくれた例の青年だ。そして間近で顔を見たことにより、コーウェンは青年の正体に気付いた。
「お前、未来から俺の特殊魔法で? だけど、いったい何故!?」
青年の正体――アイズ・スパーダは、その名を否定することなく、小さく微笑んだ。
「話したいことがあるんだ」
そしてこの瞬間こそが、ファウリッドを倒した直後のコーウェンに訪れた、最後の歴史改変だった。




