39 温かい家族
二台用意された馬車と、その周りを取り囲むように馬を引く兵士たちは、順調に目的地へと歩を進めていた。
空は、少しずつ明るさを失い始めている。オレンジ色に世界を照らす幻想的な太陽光は、直にその姿を隠すことだろう。この瞬間は、外を歩き続ける兵士たちにとっても一時の安らぎとなっているようだ。
仄かに漂う潮の香りに、ふとコーウェンは旅の目的地が近いことを知った。
リグルドは海に面しており、王国にとっての最重要都市の一つでもある。海を挟んで世界各国へと貿易の窓口を開け放っており、巨大な港はいつでも活気に溢れ、異国人たちの憩いの場としても機能している。
コーウェンは、自らの生まれたその町が大好きだった。これはエルフの国という外国を訪れ、王国内の他の町や村にも訪れた結果、再認識することとなった感情だ。あそこでは、彼の大切な人たちが大勢生活を送っている。
やがて、コーウェンとネイルが初めて出会った大きめの森が見えてきた。ここを越えれば、旅は終わりを迎える。
――『お疲れさま。お前の故郷だ』
そんなディーアの優しい声が、緊張を伴った嬉しさを体内へと響かせた。
そのまま進み続けると、すぐにリグルドを取り囲む城壁が視界へと飛び込んできた。一行は迷わず開け放たれている入り口――北門を潜る。
その頃には、辺りを闇が包み込んでいた。
リグルドの整備された石畳へと、周囲の窓から漏れ出る柔らかい明かりが滲んでいた。そんな通りを行き交う人々は、慣れたように一行へと道を譲る。他国で戦争が起きたことは皆が知っているのだろうが、あまり関心はなさそうだ。
それも仕方がないことなのかも知れない。終戦後、エルフの国で身を隠していたシルバは自らの存在を公にしたが、リグルドの人々はそんなことまでは知らないのだろうから。今も領主邸で仕事に励んでいるとでも思っているのだろう。彼らにしてみれば、それらは遠い地での他人事でしかない。
そんな人々を漠然と眺めつつ懐かしさに浸っていたコーウェンは、その中に溶け込むとある女の子を発見した。
少女は紐で縛られた銀髪を揺らしながら、機嫌良さそうに通りを駈けていた。
幼い彼女には珍しい光景なのか頻りにこちらへと好奇の目を向けては、途端に興味の対象が変わったかのように、通りに並ぶ店舗内を覗き込む。それも忙しなく、何度か同じようなことを繰り返している。
――本当に子供のようだ。
と、少女の精神年齢を知っているコーウェンは、彼女の行動や仕草に思わず微笑んでしまう。素直に、可愛らしいとも思った。
その時、こちらへと視線を移した少女と目が合った。
彼女の目は驚きに見開かれる。
どうしてそんなところに、とでも思っているのだろう。コーウェンには少女の考えていることが瞬時に理解できた。
そして驚きを隠せないままに、少女は口を開いた。
――『お・か・え・り』
一文字ずつゆっくりと、なおかつはっきりと紡がれた無言のメッセージに、コーウェンの心は安らいだ。
そして何故だかはわからないが、彼女の顔を見た途端、無事に帰ってこれた幸せをここ数日で最も強く感じていた。
エルフの国を出発してから十六日目の夜――ここは、リグルドだ。
◆◇
コーウェンとディーアが馬車を降りたのは、ディスタート家のすぐ近くだった。
目的地までは歩いて三分ほどだろうか。周囲の建物よりも一際存在感を放つコーウェンの実家は、この位置からでもはっきりと姿を確認できた。
夜闇の中で浮かび上がるディスタート家は、室内で灯るランプの優しい明かりが他の建物よりも一際温かいものに感じられた。それが照らす周囲の木々や草原は、コーウェンにとって毎日の生活を共にした友達のようなものだ。
「ウェン、感謝するぞ」
ディスタート家へと歩を進めながら、ディーアは唐突に言った。
「……それ、終戦直後にも聞きましたよ」
コーウェンはディーアの顔を覗き見て、小さく笑った。
それに対しディーアも笑い返すが、その顔は緊張しているようにも見えた。
おそらく、コーウェンの左目が関係しているのだろう。コーウェンをエルフの国へと誘ったディーアからすれば、そのコーウェンが重傷を負ったということに対しての罪悪感は小さくないはずだ。だからこそ、これからその家族の下へと向かうのがプレッシャーになっているのだと思われる。
「ディーアさん、父さんはあなたを責めたりはしませんよ」
それは、ある意味で確信していることでもあった。
コーウェンが怪我をしたのはコーウェンの責任だ。それにコールの性格を考えると、ディーアを責めるくらいならば自分を責めるだろうと推測できた。最終的にコーウェンに参戦許可を出したのは彼なのだから。
自らを気遣ってくれるコーウェンに、ディーアは「ありがとう」と呟くと、頭を優しく撫でた。
「私はウェンを家族の下へと届けたら、リグルドを出ることにする」
「え、どうしてですか?」
突然の宣言にコーウェンは不安な顔を浮かべた。
対して、ディーアは気丈に振る舞う。
「そんな顔をするな。少しの間別れるだけだ。師匠への報告もあるしな」
「……報告? それだけですか?」
「ああ、それだけだ。すぐにここを訪れるつもりだし、そもそもウェンと別れたくないという気持ちは私の方が強いからな」
そうディーアが断言すると、たちまちコーウェンの表情に元気が差した。
――そんな顔をされるから別れたくなくなるんだ、とディーアは言いかけるが、何となく言わないことにした。
やがて二人は、ディスタート家の前へと辿り着いた。
二人の眼前には、王国出身の十二英傑に与えられた巨大な屋敷が己の存在を惜しみなく主張している。建てられたのは炎龍襲撃事件よりもずっと前なのだが、住人第一号はコールとアメリアだと聞いたことがある。
コーウェンは臆することなく、扉へと歩み寄った。
握られた取っ手は、正真正銘握り慣れたものに他ならない。一見重厚感を思わせる豪奢な両開き扉には、しっかりと油が差されており、見た目ほど重くないこともコーウェンは知っている。いつもの、あの扉だ。
コーウェンはディーアへと目配せをすると、勢いよく扉を開け放った。
鼻腔に広がるのは、ディスタート家の匂いだった。
コーウェンはそれを思い切り吸い込むと、口を開く。
「――ただいま! 帰ったよ!」
その声を聞き届け、最初に現れたのはメリファだった。
続いてコールとアメリアがほぼ同時に駆けつけ、二人の帰還を知った。
三人は当初、コーウェンの左目を見てもあまり騒がなかった。コーウェンが元気にしているからこそ、大きな怪我だとは思わなかったのだろう。
だが、コーウェンが左目の失明を告げた時、彼らが浮かべた表情はとても悲痛なものだった。そんな顔をされては、コーウェンの方が泣きそうになるというものだ。そしてそれは、もう大きな怪我はしないと心に決めた瞬間でもあった。
時刻は二十一時を少し回った頃。
ディスタート家の食堂には、ディーアを含む五人が椅子に腰かけていた。コーウェンを挟む形でディーアとアメリアが並び、コールとメリファが向かいに座っている。
急ごしらえのものではあったが全員で夕食を済ませると、コーウェンは促されるままに、旅先で経験したことを余すことなく打ち明けた。その話の中にはアイズとの関係も含まれており、それはディーアですら初耳のことだった。
コールとアメリア、メリファの三人は、話を理解しようと頑張っているようだ。
五人の間に沈黙が訪れる。
やがて、それを破ったのはアメリアだった。
「……本当に、大変な経験をしたのね。でも、ウェンが帰ってきてくれたことが何よりも嬉しいわ」
その言葉は、全てを優しさで包み込むかのような柔らかいものだった。心からの本音だと、その場にいる誰もが理解した。
アメリアはいつだってそうだ。言うことすること全てが優しさで溢れている。前世で母を知らないコーウェンにとっては、彼女こそが理想の母親だった。
そんなアメリアは、隣に座るコーウェンをそっと抱き寄せた。
「うん……」
コーウェンはアメリアの肩へと頭を預けると、身体を寄せながら目を閉じる。
母親の安心する匂いが、コーウェンの脳を刺激する。おおよそ二か月ぶりの感覚に、コーウェンは涙がこぼれそうになるのを悟った。
そうだ。あまり考えていなかったが、もしあの洞窟で命を落としていたのなら、この瞬間が訪れることはなかったのだ。
――もっと強くならないと。
改めて、コーウェンはその必要性を強く感じた。
「ねえ父さん。以前のように、また剣を教えてほしい」
コーウェンはアメリアへと身体を預けたまま、そう告げた。
その言葉に、コールは優しく微笑んだ。
「当たり前だ。いつでも相手をしてやる」
「ふふっ、ありがとう。僕も前よりも手強いと思うよ」
言いながら笑顔を向けるコーウェンへと、コールは微笑みつつも神妙な表情を浮かべる。そして身を乗り出し、向かいに座るコーウェンの頭を撫でた。
何かを確認するかのようなその行動に、コーウェンは首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや……、特に理由はないんだが。まあ、あれだ。俺もアメリアと同意見だよ」
コールは照れ臭そうに、「死なないでくれて、ありがとう」と続けた。
コールがそのようなことを言うのは珍しく、コーウェンは素直に驚いた。同時に、温かい何かが心を満たしていくのを感じる。
「コーウェン様、私も同じですよ」
そう言ったのはメリファだ。
見ると、彼女は両目に涙を浮かべていた。
メリファは、コーウェンのことを本当の子供のように愛している。だからこそ、その気持ちはコールやアメリアと何ら遜色のないものなんだろう。
「ありがとう、メリファ」
旅先でも、ディーアが優しくしてくれた。
だから戦争という異常な体験をしても、大きな負担を感じることはなかった。
だが、家族の温かさはまた別物だ。
ディーアから与えられた安心も、家族から与えられる安心も、どちらもコーウェンは好きだ。
考えてみれば、たった二カ月ほどの旅にもかかわらずとても長くリグルドを離れていた気がするのは、それだけ日常からかけ離れた生活を送っていたからだろう。戦争で数えきれないほどの魔物を殺し、暗殺者の存在を示唆され、後に左目を失ったのだ。長く感じて当然だと言える。
その時、視界の端でアメリアの髪が揺れた。
その青味がかったグレーの髪は、コーウェンへと遺伝した、正真正銘母親のものだ。それを目にするだけで、日常へと帰ってきたことを実感できる。
「何だか、眠くなってきた」
そんなコーウェンは、目を擦りながら自らの“安心”を伝えた。
「そう、じゃあ寝ましょうか。それとも一緒に寝る?」
「いや、それは大丈夫だよ」
「あら、残念」
アメリアはその返答を察していたかのように、小さく笑った。
コーウェンはアメリアから離れると、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、おやすみなさい」
そう言い残すと、コーウェンは大きく伸びをして食堂を去った。
その後姿は、どこか大人びたような、今までよりも少したくましくなっているような、そんな言い知れない成長をコールたちへ感じさせた。
少しの間、沈黙が漂う。
やがてコーウェンの姿が確実に見えなくなったのを確認すると、ディーアはその場で立ち上がった。
そして食堂に残った三人へと、恭しく頭を下げた。
「すまない。私が付いていながら、あの子に大きな怪我を負わせてしまった」
コール、アメリア、メリファの三人は、コーウェンから話を聞いていたために、ディーアが何について頭を下げているのか理解している。だからこそ、突然の謝罪に対して驚く者はいなかった。
「……気にするな。ウェンの話を聞いていなかったのか? あいつは、お前に感謝している」
三人を代表するかのように、コールはそう言った。
その言葉に、アメリアとメリファも頷いた。
「それに、感謝しているのは俺たちも同じだ。……言ってなかったが、ありがとう」
まさか礼を言われるとは思ってもいなかったディーアは、あまりの申し訳なさに顔を伏せた。
だが、コールの言っていることが理解できないわけではない。確かに罪悪感はあるが、ディーアが悪いわけではないのは本人もわかっている。ただ責任を感じているだけだ。
だからこそディーアは、彼らの善意を素直に受け取ることにした。
掌を握りしめ、顔を上げる。
「……ありがとう。本当に。すまない」
「ふっ、謝るのか礼を言うのかどっちかにしろよ」
コールのツッコミに、アメリアとメリファが小さく笑った。
二人とも口元を少しだけ隠し、上品に肩を震わせている。そんな彼女たちに育てられたのなら、コーウェンのあの性格も納得できるな、とディーアはふと思った。
「ところで、ディーアさんは今夜どうされるのですか? よければ泊まっていってくださいね?」
そう言ったのはアメリアだ。
「申し訳ない、夕食までいただいて……」
「いえ、気になさらないでください」
エルフの国へと向かう前は、住み込みでコーウェンへと魔法指導をしていたディーアだ。一晩の宿泊くらい、ディスタート家の人間からしても、ディーアからしても抵抗はない。
「ああ、助かる。明日には出て行くつもりだから、これ以上迷惑をかけることはないだろう」
「もう……迷惑だなんて、私たちはそのようなもの感じません」
基本的に、ディーアの世話をすることになるのはメリファだ。確かにアメリアが迷惑を被ることは少ないだろう。
当のメリファへと視線を移すと、彼女も満更ではなさそうで、可愛らしい笑顔を返してきた。
「俺も構わないが……」
コールはそう前置きをすると、口を開いた。
「明日、どこへ行くつもりだ?」
「まずは、王都アルトリコを目指す。師匠に会いに行くつもりだ」
「……コーウェンの目についてか?」
「ああ、当然相談するつもりだ。……まあ、それがなくとも、元々戦争が終わり次第会いに行くつもりだったのも事実だが」
「そうか……」
コールは何かを考えるように視線を下げると、満足したかのように息を吐いた。
そんなコールに代わるように、アメリアが口を開いた。
「じゃあ、そろそろ解散しましょうか」
その言葉に、慣れた様子でメリファが立ち上がった。
「では、ディーア様をお部屋へとご案内します」
「ああ、すまない」
ディーアは先導するメリファを追いかける。
どうやら、以前とは別の部屋へと案内されるようだ。向かう方角が違う。
そんな疑問を察したのであろうメリファは、歩を進めながらディーアへと説明を始めた。
「実は、先ほどまでアーヤ様がいらっしゃっていたのです。あの子、コーウェン様とネイル様がいなくなってから、よくここに遊びに来るんですよ。ディーア様が寝泊まりしていた部屋は、今ではすっかりとアーヤ様の個人部屋になってしまっています」
「そうなのか……。それは、あなたが相手をするのか?」
「ええ、そうです。彼女が言うには、私たちはもう友達だそうですよ」
そう言うと、メリファはクスクスと笑った。
幸せそうな笑顔だ、とディーアは思った。どうやらアーヤの相手も、彼女にとっては満更でもないようだ。その表情からは、子供が好きだという気持ちがよく伝わってくる。
「そうか、あなたは幸せだな。二人もの可愛らしい子供に囲まれている」
「ええ、とても幸せです。……この身が張り裂けそうなほど、私は幸せな人間です」
やがて、メリファは一つの部屋の前で足を止めた。
他の部屋と何の変哲もない、数ある客室の一つだろう。木製の扉を開けると、最低限の家具と、清潔そうなシーツの敷かれたベッドが設置されていた。
ディーアは礼を告げると、部屋の中へと入った。
「……あの、ディーア様?」
部屋に入るディーアを廊下から見送りつつ、メリファは口を開いた。
ディーアはそんなメリファを振り返ると、首を傾げた。
「何だろうか?」
「いえ、よろしければ聞いていただきたいことがありまして」
「……? どうぞ、言ってほしい」
「はい……」
促されたメリファは、幸せな過去を思い出すかのように、目を伏せつつ微笑んだ。
「私は幸せな人間だと申し上げましたが、コーウェン様は、ディーア様のことも大変慕っておられるようですよ。……あの子が生まれた時からずっと一緒にいますので、口には出さずとも、私にはよくわかります」
メリファはそれだけを言い残すと、「失礼します」と頭を下げて扉を閉めた。
残されたディーアは少ない荷物を床へ置くと、ベッドの淵へと腰かけて息を吐いた。
「……そんなこと、わかっている」
そうだ、それくらいわかっている――つもりだった。
だがやはり、コーウェンの家族とも言える存在にそう断言されては、ついつい頬が緩んでしまう。本人に言われるのも当然嬉しいが、第三者からそう見られているというのは、自分の感覚に裏付けがとれたようで安心できた。
「あっ、風呂は昨日入ったから、今日一日くらいは大丈夫だっ!」
思い出したかのように、ディーアは大きな声でそう叫んだ。
それに対し、部屋の外から間髪を入れずにメリファの返事が聞こえた。どうやら無事に届いたようだ。
少し安心しながら、ディーアはベッドへと横になる。清潔なシーツと馬車とは違う寝心地の良さに、たちまち眠気が彼女を襲いだした。
――慕っている、か……。
メリファの言葉は、ディーアにとってかなり嬉しいものだった。深く考えたことはなかったが、本当はコーウェンから慕われているという自信は微々たるものだったのだ。だからこそ、さっきは小さくない安心感を抱いたのだろう。
今夜はいい夢が見れそうだ、とディーアは幸せそうに目を閉じた。




