35 金烏玉兎
洞窟内に存在する、薄暗い大空間。
数十メートルほどの高所にある天井には大きな穴が穿たれており、そこから入り込む太陽光によって、明瞭とは言えないまでも視界は決して悪くない。
空間の中央へと舞い降りる太陽光は、まるで舞台のスポットライトのように、一筋の線を描いている。そして、そのスポットライトに射られる役者のように、一人の少年が仰向けで倒れていた。
少年の朦朧とする意識が、次第に明瞭なものへと変わっていく。
少年は強烈な光に遮られる視界の中、右腕を宙へと翳した。
――変だな、回復が遅い。
少年がコーウェンから受けたダメージは確かに大きなものだが、それは攻撃された場所によるせいだ。攻撃された場所が的確だったからこそ動きは封じられ、その身体にはダメージが蓄積されたのだ。だが所詮は、素手による攻撃。負傷具合は大したものではない。
そうにもかかわらず未だに完治しないことから、少年は自らの、吸血鬼としての力が失われ始めていることに気が付いた。
おそらく太陽光のせいだろう。邪悪な光は、その身を滅ぼすと教えられた。
やがて瞳孔が太陽光の明るさに慣れ、少年は少しずつ視界を取り戻し始めた。
少年は翳していた手をゆっくりと下ろすと、恐る恐る空を見上げる。
そこにあったのは、輪郭がぼやけた炎の玉だった。
コーウェンがこの穴から空を見上げた時には、ギリギリ見えなかった太陽が、まるで図ったかのように顔を覗かせていた。
少年がそれを太陽だと理解するのに、時間はかからなかった。
――綺麗だ……。
少年の頬を、一筋のしずくが流れ落ちた。それは太陽光の影響を受け、淡く輝く。
多くの人は太陽よりも月に風流を感じ、月の方が美しいと主張する。
だが、少年は違った。
初めて見るその強い光が、全てを照らしてくれる光が、何よりも綺麗なものに思えた。
同時に、その身を包む暖かさが太陽光によるものだということにも気付いた。眩しいほどの輝き、提供される安心、少年にとってはその全てが“綺麗”という感想に帰結される。
「泣いているのか……?」
不意に、そんな声がかけられた。
それにより、少年はコーウェンの存在を思い出した。先ほどまで死闘を繰り広げていた相手のことを忘れ去るという自らの気の抜けに、少年は小さく嗤った。
見ると、左目を押さえながら痛みに耐えている子供が、こちらを見下ろしている。逆光気味のせいで見えずらいが、その姿は苦しそうなものだ。
「太陽が、泣けって言うから……」
「ふっ、何だそれは」
少年の返答に、コーウェンも思わず笑った。
そんなコーウェンを見て、少年は嬉しく思った。自分はすぐに殺されるだろう。そうわかってはいるが、何故だかそれが些末事に思えて仕方がない。殺されるという恐怖心が感じられない今だからこそ、先ほどまでの敵と笑い合えるということが嬉しくて堪らない。
――いや、それとも相手が彼だからだろうか?
少年は思う。おそらく、以前住んでいた村を襲撃した者たちと同じような状況に陥っても、こんな気持ちにはならなかっただろう。
「吸血鬼ってことは、太陽を見るのは初めてなのか?」
その問いに、少年は頷いた。
「今まで、月ばかり、見てきた。だけど月よりもずっと、太陽は輝いている」
「……じゃあ、知ってたか? 月が輝けるのは太陽のおかげで、太陽がなければ、月は輝けないってこと」
「……いや、知らなかった」
初めて聞いた話だった。それも、にわかには信じ難い話。
だが、太陽の輝きを知ってしまった以上、嘘だとは思わなかった。仕組みはわからず根拠もないのだが、あれほどの存在には不可能なことなどないように思えたのだ。そして、ただそれだけではなく、単純に目の前の子供が嘘をついているようにも思えない。
「ありがとう……。おかげで、彼らの秘密を知ることができた」
少年からの感謝の言葉に、コーウェンは驚きの表情を浮かべる。
そして、小さく息を吐いた。
「……気に入らない。お前の、その悟ったような表情が気に入らない」
コーウェンは、少年を見下ろしたまま言った。
少年は不思議そうに、コーウェンの顔を覗き見る。
「お前、俺に殺されると思ってるだろ?」
「ああ……思ってる」
「それが気に入らないんだ。俺はお前を殺さない」
「……なぜ」
「いくつかの理由はある。だけど、殺したくないと――」
その時、コーウェンが呻きながら膝を突いた。
何かのスイッチが落ちたかのように、苦しそうに喘いでいる。その様子は、今までとは比べものにならないものだ。手で左目を覆ってはいるが、その隙間からは血が流れ出していた。やはり、痛みに耐えているのは一目瞭然だ。
だが、コーウェンは言葉を紡ぎ切るのが使命とばかりに、続ける。
「――そもそも、俺の剣を受け流せるなら、なぜ最初からそうしない」
「あれは……。近づいてきて……剣が速くなる前に、触れるようになったから」
「ああ、それもあるだろうな。だけど、それ以上に怖かったんだろ? あそこまで完璧に剣を捌けたんだ。だったら多少リスクはあれど、最速に達した剣にも対応できたはずだ。タイミングと隙次第で、武器を奪うことだって可能だったかもしれない」
コーウェンは、なおも捲し立てるように言葉を紡ぐ。
「なあ、怖かったんだろ? 傷なんてすぐに治るくせに、その小さなリスクでさえ負えないほどに、怪我が怖かったんだよな? 自ら避け続けるなんていう不利な選択をしてしまうほど、お前は終始逃げ腰だった」
コーウェンの一方的な決め付けに、少年は反論しなかった。
全てが図星だったからだ。
自分は臆病だ。だから、人間と遭遇したら問答無用で殺してしまおうとも決めていた。
ここを人類未踏の地とは言うが、それは未開拓だとか、謎が多い・探索が碌に進んでいないという意味でそう表されるのであって、当然ながら地続きのこの地に、過去に誰も入り込んだ人間がいないという意味ではない。だから、極稀に少年と人間が出会うことはあった。
そんな諸々の事情など知らない少年だったが、次第に、この付近にいる限り遭遇した人間は殺した方が楽だということに気付いた。
全て、過去のトラウマが取らせた行動だ。
「ははっ、笑えるよ。考え方が戦闘慣れしていない日本人みたいだ。そんなんで、自分のことを普通じゃないなんて、よく言えるな」
「……僕は、吸血鬼だ。僕のせいで、両親は殺され、村が焼き払われた。ルビウスも泣いていたんだ」
「確かに、お前の過去を、俺は詳しく知らない。だけど断言する。お前は周りと少し違うだけで、“普通じゃない”なんて言えるほど常識外れの存在じゃないんだよ」
「……だったら君は――」
君は――どうなんだ?
そんなことを聞こうとして、少年は口を噤んだ。
少年ははっきりと覚えている。左目に重傷を負いながらも、痛みを感じていないかのように立ち上がり、剣を振り続けた子供を、あの時の恐怖を――。
それが酷く、悲しいことのように思えたのだ。
だが同時に、気付いたこともあった。
――この子供も、きっと怖かったのだろう、と。
だから自らの勝利が確定してからも、気に入らない相手を罵るように、まるで責め立てるように、言葉を捲し立てるのだ。恐怖を与えられた腹いせをするかのように、吐き捨てるのだ。
コーウェンに対して同じような恐怖を抱いた少年には、その気持ちが理解できた。
コーウェンは少年の言おうとしたことを察し、口を開いた。
「そうだな。俺の方がお前よりも異常だ。だけど、悲観はしない。俺が自分の存在を無意識に堕とすという行為は、俺の……大切な妹も普通じゃないと、そう認めることになるからだ」
「……だったら僕は、どうすれば」
「受け入れるんだよ。想像でしかないけど、お前の生い立ちは悲しいものなんだろう。裕福な家庭で育てられた俺には理解できないさ」
コーウェンはとうとう忍耐の限界とばかりに、その場に蹲る。
「……確かに、人には生まれ持っての差が存在する。貧富の差や、様々な才能の差。容姿の差だってある。だから俺とお前のスタートラインが生まれつき平等だなんて、間違ってもそんなことは言わない。だけど、どうしようもないことでもあるんだ……。選べないものなんだ……! だったら、受け入れるしかない。受け入れるしかないものを受け入れないのは、それは、他ならぬ“逃げ”でしかない……!」
コーウェンの言葉は、力説と呼べるほど必死めいたものに聞こえた。
少年の側で蹲り顔を腕に埋めていることから、最早少年に対しての警戒を忘れているとも言える。だからかはわからないが、少年にはその言葉が、コーウェンの存在が、とても信頼の置けるものに思えてくる。
「……でも、わからないんだ。どうしたら、いいのか……」
「だったら、俺が示してやる――」
コーウェンはそう言うと、変わらず苦しそうな表情のまま、顔を上げた。
「――俺と一緒に来い。俺がお前の希望になってやる」
その顔は、流血と汗と、おそらく涙で、ぐちゃぐちゃになってしまっている。
だが、そんなみっともない表情とは裏腹に、その言葉は力強く魅力的なものに感じられた。
「……わかった」
気が付けば、そう答えていた。
何故そう答えたのか、少年にはわからなかった。だが、不思議と後悔や不安はない。
ふと、怪我が完治していることに気付く。少年は身体を労わるように、ゆっくりと上体を起こした。
「お前、名は何だ?」
「名前は……覚えていない」
「……そうか。俺はコーウェン・ディスタートだ。気が向いたら覚えてほしい」
「わかっ……た。でも――」
今になって、少年は申し訳ない気持ちに駆られた。
コーウェンが何を言おうと、自分が吸血鬼という事実に違いはない。だったら、コーウェンの身に何か危険が訪れることになるかもしれない。実際に、以前まで周りにいた人物はことごとく不幸な目にあった。
同時に、コーウェンの左目を潰してしまったという罪悪感が少年を襲う。それも、どの程度の傷を負えば視力を失うかなどという知識を持ち合わせていない少年でも、回復は絶望的だとわかるほどの重傷だ。
最早、自分が先ほどまでコーウェンの命を奪うことに必死だったのを、少年は自覚していない。全て自らの臆病さが招いたことにもかかわらず、それを指摘し、道を示すと言ってくれたコーウェンに、彼は魅せられていた。
「『でも』……何だ?」
「でも……僕は、君の目を……」
「……確かに、左目はもう死んだと思う。だけど、いや、だから……お前が俺の目になってくれたらいい」
「君の、目に……?」
「ああ。それと……俺の剣にもなってほしい。今回の件で理解した。俺一人じゃ、この世界ではあまりにも無力だ。お前みたいな、強靭な剣がほしい。……まあ、剣とは言うが立場は対等。ただの比喩だが」
コーウェンは少し考える素振りを見せると、「そうだ」と頷いた。
「――お前の名前、俺が決めてもいいか? 名前がないと不便だし、その方が再出発の意味としては相応しい」
「……僕の名前。……うん、構わない」
寝転んだまま上体だけを起こしている少年と、両膝を突いて顔だけを上げているコーウェン。
コーウェンは少年の抱いていた恐怖心を知り、その生い立ちについてを知り、そして――涙を流せるような人物だということを知った。
「お前の名は、“アイズ・スパーダ”。俺の“目であり・剣である”という意味だ」
――だから、そこには同情があった。同時に、彼のいる場所が地獄なのだとしたら、そこから引き上げてやる必要も感じた。そう考えると、次第に彼への警戒心が薄れていった。先ほどまでは向かい合う敵だったが、最後には目の前で倒れている同年代の子供、という認識になっていた。
それだけではない。
最後に動けなくなった彼を太陽光の下へと蹴り飛ばした瞬間、コーウェンは大きな焦燥感に捕らわれた。吸血鬼は太陽光を浴びると、その身を滅ぼすと言われているからだ。
元々の目的が生きて拘束することだったというのもあるが、純粋に殺したくないと思った。だから興奮状態に身を任せそのような行動を取ったことが、突然コーウェンを我に返らせた。
コーウェンは、その時に抱いた感情を無視すべきではないと考えた。
エルフの国で出会った青年が、『訪れないと後悔する』と言っていた。その言葉がコーウェンの頭を過る。
訪れた結果――コーウェンは大怪我を負い、そして一人の吸血鬼と出会った。
これが後にどんな意味を持つのかは、まだわからない。
少年――アイズ・スパーダは、ふと空を見上げた。
視線の先では、先ほどまで正面にあった太陽が、その姿を半分以上も隠していた。
――もっと見ていたい。
アイズは手を伸ばす。
――外へ出たら、見れるのだろうか。
だが、その手は太陽に届かない。
――ああ、そうか。
コーウェンは、希望になってくれると言った。その時の姿を思い出す。
――太陽は、彼だ……。
アイズは、コーウェンへと視線を移す。
そこでは、蹲ったままピクリとも動かない彼がいた。限界が訪れたのだろう、意識を失ったのだと理解する。
「約束する。いつかきっと……君を訪ねる」
アイズはゆっくりと立ち上がり、自らが入ってきた側の通路へと歩を進めた。
吸血鬼にとって、太陽は身を滅ぼすものだ。
吸血鬼としての生き方を変えてくれるのなら、やはりコーウェンは太陽だと言えるのだろうか?
アイズは、正確には半吸血鬼だ。だから太陽光を浴びても死にはしなかった。だが――
――その髪は、吸血鬼としての“色”を失った。




