30 新たな旅
少年は、すっかりと暗闇に包まれている森を行く。
唯一の標となっている月・星明りが、少年の出で立ちをあらわにする。
十歳くらいだろうか。身長は百四十センチ程度で、優しく照らされた伸び放題の赤髪とのバランスは良くない。少し大きめの子供服は、麻で作られたとても質素なものだ。だがそれ以上に、身を覆う全てが汚れていた。
そのような状況で性別を判断できる理由の一つとして、その眼光の強さが挙げられた。
元々の顔つきが男らしいのに加え、獣のように危険な匂いを纏わせた眼をしているのだ。何者をも拒み何者をも貫く、少年の過去を推して量るべきそんな眼光だ。
だがそんな少年にも、一つだけ心を許せるものがあった。――月だ。
それはとても美しく、全てを平等に照らしてくれる。
何百年前だったか、少年にも人里で暮らしていた頃の記憶がある。
生まれた時から昼間の外出を許されず、夜以外は地下での生活を強制された。昼間に世界を照らす光は、この身を滅ぼす邪悪なものだと教え込まれた。
だが、無理に拘束されていただとか、閉じ込められ虐げられていたなどという感覚はなかった。
地下室の扉に錠をかけられることはなかったし、両親は暇さえあれば地下へと降りて来て遊んでくれたからだ。本やおもちゃだって与えられ、教育だって受けた。そして何より、夜はその限りではなかったからだ。
毎晩、少年は両親と共に外を散歩した。
その時にいつも見ていたのだ。それはとても綺麗で強く輝くのに、どこか儚い雰囲気をしていた。
その時に少年は思った。――月は世界で一番美しいものだ、と。
昔の記憶を辿っていた少年は、ふと月を見上げた。
――やはり美しい。
聞いたことがある。昼間に出る太陽は、月とは比べものにならないくらいに輝き、全てを暖かく包み込むのだと。
――あり得ない。
少年は心の中で吐き捨てる。
乱れた前髪越しでも眩しく見える、そんな月以上に輝くものなどあるはずがない。暗闇から外を遠く覗いたことはあるが、確かにとても明るかった。だが、それが全て太陽によるものだとはどうしても思えない。
少年は教えを守り、今でも昼間は邪悪な光の届かない場所に身を隠している。そこでは人間の言葉を忘れないよう、必死になって声を出し続けている。
だが、名前は忘れた。
今思えば名前こそあったものの、あまり呼んでもらった記憶はない。両親以外との関わりはとても少なかったから、よく考えれば不思議なことではないのかもしれない。同時に、両親の名前も覚えてはいない。
だが一つだけ、忘れられない名前があった。
――“ルビウス・ユーニヴァス”
変だと思ったのは、彼が会う度に涙を浮かべていたこと――
変だと思ったのは、国軍の兵士が村を焼き払った時のこと――
変だと思ったのは、その兵士を自分一人で皆殺しに出来たこと――
変だと思ったのは――
少年は黙って目を閉じた。
先ほどまでと何も変わらない眼で、目的地の方角を無愛想に見つめる。
昨夜の火柱は誰かの魔法によるものだ。人間との遭遇は避けたいが、もしもの時は殺してしまえばいい。
魔法を使えない少年は、どうしても残り火に期待せずにはいられなかった。森が火事になるかもしれないことなど頭にない少年にとって、それは大きいほどに理想的だ。
少年は昨夜の雨でぬかるんだ地面を強く蹴り上げ、駈ける。
◆◇
エルフの国から北へと限りなく広がっている森はなにも、全てが全て木々に囲まれたような鬱蒼とした雰囲気をしているわけではない。
泉や湖が広がり、切り立った山からはアルトリコ王国やエルフの国などが存在するこの大陸と、同じく世界三大国の一つであるバルツァー帝国の存在する大陸とを繋ぐ、巨大で美しい海が遠くに眺めることができる。
この壮大な自然には多くの生物が存在し、先日にエルフの国へと侵攻した魔物たちも当然例外ではない。
奥へと入り込めば入り込むほど、あまりにも広すぎる為に探索の手が及ばず未だに全容が明らかにならない人類未踏の地であり、同時に未知の魔物や動物が数多く存在すると予想されている地帯でもある。もう少しで十三年を数えることとなる『炎龍王国襲撃事件』の際にも、この方角から飛び行くドラゴンを見たという証言が数多く存在したほどだ。
一頭の馬に並んで跨り、滑らかに連なる岩肌を慎重に進むコーウェンとディーアは、今まさにその人類未踏の地を目指し旅を続けている最中だ。前方には出発前に雇った、非戦闘業務を得意とする冒険者が一人先導している。
現在は終戦から四日目になる早朝であり、目的地は青年から渡された地図に記してあった、彼曰く『訪れないと後悔する場所』だ。旅を始めてから二日目になる。
それほど重要なのであろう場所へ向かう緊張感からか、大自然を前にしてずっと『ファンタジーだ……』と連呼しながら浮かれていたコーウェンの表情にも、僅かな緊張が走っている。
「せっかくの旅なのだから、そんな顔をしていては楽しめないぞ?」
『ウェンの浮かれ顔って珍しい! もっと見ていたい!』などという本音はおくびにも出さずに、ディーアは自らの手の内に座るコーウェンの顔を覗き込んだ。
しかし当のコーウェンは適当に相槌を返すだけで、その表情が緩むことはなかった。
「……本当に、よかったのかな」
唐突に後ろを振り返り、コーウェンは弱々しく呟いた。
目が合ったディーアは少し逡巡する様子を見せ、口を開いた。
「……シルバとネイルのことか? それなら私も心配しているが……」
――違う。
コーウェンは視線を前方へと戻した。
ディーアの言っているシルバとネイルの心配とは、二人をエルフの国へと置いてきたことについてだ。
シルバとネイルは現在、防衛戦の戦後処理に追われている最中だろう。コーウェンとディーアが旅を終え次第、護衛を兼ねて共にリグルドへと帰還する予定なのだが、シルバが言うにはそろそろ存在が周囲の一般人たちにも認知され始めたんだそうだ。
だから、グリムガムに見つかるのも時間の問題だろう。——そう判断して、敢えて存在を明確にしつつ厳重な警備をつけることにした。
シルバと王国の一部貴族、グリムガムとの関係については開戦前に聞いていたが、コーウェンたちにはそれらについて深く理解できたという自覚はなかった。だが、実際にネイルがグリムガムの戦闘部門『大華炎』に襲われるという事件があったために、軽視して良いという考えも全くなかった。
警戒していた戦争中のコーウェン暗殺が杞憂に終わったため、正直少しばかり気の緩みはあったとは言え、当然二人についての心配はコーウェンもしている。
だが、彼らの身辺は安全だと言えるだろう。
コーウェンとディーアが出発前に聞かされたのは、シルバたちを護衛する存在についてだ。
エルフの国の兵士から護衛隊を編成し、そこに特群のメンバー五人が付けられることとなった。そしてもう一人、シルバが以前から長期契約で雇っている凄腕の冒険者が加わるとも。
一見すると、これだけでは大華炎の襲撃を凌ぐことができるとは思えないが、シルバ本人が大丈夫と言っていたのだから、その冒険者とやらは相当の戦力なのだろう。大方その正体に予想は付くし、シルバが油断しているとも思えない。
適当な賊たちについてはネイル一人でも問題ないほどだ。
さすがに大華炎の前では手も足も出なかったようだが、彼女自身かなりの魔法の使い手であり、コーウェンがいなかったらもっと噂になっていたと予想できる。亡き祖父が魔導師だったというだけのことはあるのだ。
だから違う。
「僕が心配しているのは、ディーアさんのことです」
(あの時の俺は、軽率だったのかもしれない)
コーウェンは青年の『訪れないと後悔する』という、ある意味急かすかのような言葉に、無意識の内に焦りを感じていた。
――期限は? 根拠は? いつそこを目指せばいい?
いつまでに訪れたら『訪れた』と判断され、いつを過ぎると『訪れなかった』と判断されるのか、そこに何があるのかわからない以上、強迫染みた強制力をその言葉に抱いていた。それほどにあの青年の存在感は強烈で、全ての謎の核心を握っているかのような、そんな雰囲気を感じさせたのだ。
だからこそ、コーウェンは戦争における論功行賞の授与を「忙しいから」と適当に断り、可能な限りすぐに国を出たのだ。
だが、ディーアが付いて来てくれることを当たり前のように考えてしまっていた。そこに何の疑問を持たなかった。
本来は論功行賞を断るなど前代未聞のことで、ディーアが「じゃあ私も忙しい」と、コーウェンと共に出席を断ったことをもっと異常なものだと認識するべきだったのだ。
結論から言えば、この先はとても危険だ。
当然だった。戦争時に魔物が押し寄せて来た場所だから。
だがそれ以上に、コーウェンの頭に渦巻くのは長老の予知――
――『コーウェン・ディスタートを連れて来る』
連れて来ないと国が滅びるかもしれない、その言葉にもっと思考を巡らせておくべきだったのだ。
以前、“コーウェンが国を訪れたことによって行動を左右された人物がいて、その人物の行動が戦争を終結に導いた”――なぜなら、そう考えないと、コーウェンを連れて来ずとも彼らは自力で戦争に勝利していただろうから、というところまでは考えた。
だが、滅びるとしたらいったいどんな結末を辿るのか、ということを考えていなかった。
決して数の問題ではない。
攻城兵器や登城手段すら持たない魔物たちがどれだけいようとも、エルフの国は堕ちなかっただろう。兵士たちは練兵揃いな上に戦略も上手く機能していた。実際に滅びるどころか、市街地はおろか城壁内への侵入すら許さなかったのだ。
だからこそ、その疑問はより強くなるばかりだ。
――何が起これば、圧勝だったあの戦争で国が滅びたと言うのか。
これから向かう場所には、その元凶が存在する可能性が高い。
もしくは“存在した”なのか、“複数存在する”なのか。どちらにしろ、そこが危険な場所であることには変わりない。
おそらくシルバがエルフの国に兵士の手配を頼んでいるだろうし、もしかしたら既に兵士が二人の後を追っているのかもしれないが、少なくとも戦闘実績のある冒険者をパーティごと――終戦直後に引き受けてくれるかは不明だが――雇っておくべきだっただろう。
「やっぱり、僕はディーアさんが心配です。あなたを危険な目に合わせたくない」
もう一度ディーアを振り返りはっきりと訴えるその眼は、寂寥感を多分に含んだ、まるで外出する母親に帰宅時間を尋ねる子供のような歳相応のもの。
その眼が自らに向けられているということに、ディーアは思わず破顔する。
「……それは私も同じだよ。お前を危険な目に合わせたくない。……だからって、引き返すのも変な話だな」
ディーアの言葉に、コーウェンは頷いた。
深く考えずに出発したあの時の行動は軽率だったと思うが、早く行動を起こすべきだったというのは間違いないのだ。だからコーウェンが戒めるのは、最低限の準備しか行わなかった部分であり、決してその出発日時のことではない。
迅速な行動については正しい。あまり時間を置けないのは事実だから。
「旅を始めてから既に一夜が過ぎたし、先を急ぎたいからな」
「……ええ、その通りです。すみません」
ディーアも同じことを思っているらしい、そう理解したコーウェンは、下唇を噛みながら前方へと視線を戻した。
そんなコーウェンへとディーアは口を開ける――
『心配するな。お前のことは私が護ってやる』
――そんな根拠のない、しかしいつも思っているセリフを言い放つために。
だが、そんなディーアよりも一瞬だけ早く、コーウェンの言葉がそれを遮った。
「――ディーアさんは、俺が絶対に護ります。命を懸けてでも、絶対に」
力強く、決意に満ちた声色だった。
ディーアは目を見開いた後、手綱から片手を放し口元を覆った。
見た目の幼さとはかけ離れたその言葉に、何故だか違和感はなかった。だからディーアは、コーウェンの口調が少し変わっていたことにも気付いていない。
内心に生じた小さな感情を慌てて抑え込む。
「そ、それは頼もしいな……」
コーウェンの目は伺えない。先ほどのような眼をしているのか、それとも強い意志を宿らせているのか、ここからでは見えない。
だが、その眼光を正面から受け止めなくて、少しだけ助かったような気持ちにもなる。
馬鹿な話をしながら、変に騒ぎながら「好きだ好きだ」と連呼している時とは違った。大好きな可愛らしい彼に抱く、いつもの好意ではなかった。かつての戦友の一人息子に抱く、そんな好意でもなかった。
ディーアは再度口を開こうとしたが、上手く声が出そうになかったため、中断する。
十二英傑の筆頭としてのプライドなのか、相手が子供ということに対しての不自然さを自覚しているからなのか、それともコーウェンの保護者を務めるプライド、またはその客観的事実からなのかは不明だが、少しだけ認めたくないなとディーアは思った。
“乙女のようにときめいてしまった”などとは、少しだけ――
「ほら、旅は始まったばかりだ。気持ちは嬉しいが気負いすぎるのも良くないぞ」
十二英傑などと呼ばれ始めてからはもちろん、その以前からもディーアは魔法使いとして一目置かれていた。
第一代選定魔法導師――カレル・ソールカティがダークエルフの女性だと知ってから、彼女のような魔法使いを目指し血の滲むような努力を幼少のころから行ってきた。その努力は現在も変わりなく、おおよそ百年間ほど継続されている。
生まれつきの才能と相まって、当然のように強くなった。
ルビウスの死後、相応しい人物が現れないという理由で魔導師不在の時期があった。それに終止符を打ったのが現魔導師のファウリッドなのだが、彼の他にも自らの名前が候補者として挙がっていたと聞いた時は、競り負けたことに対する悔しさなど一切なく、ただただ誇らしかった。
そこへ突然現れた、幼き天才。
故郷を護ってほしい、という一方的な願いを快く引き受けてくれた彼が、今度は自分を護ってくれると言っている。
護る側でいることを自然と強制されてしまうであろう、そんな彼の在り方には同情したし、同時に嫉妬もした。だが何よりも、酷く寂しい感じがしたのだ。
それは、護るという対象に自らが入っていないと感じたから――それが涙を流した夜に得た、その感情の答えだった。彼が傷つくのが怖いからと、ただそれだけではなかった。
(私は……こんなにも泣き虫だったか……?)
また涙が流れるような気がしたディーアは、下唇を軽く噛み締めながらも、誰ともなく無言で微笑んだ。
――甘えてみるのも酔狂だ。
などと考えてしまうのは、どれだけ強くあろうとディーアが一人の女性である証拠に他ならない。
コーウェンは、自らを気にかけてくれているのだ。命を懸けるとも言ってくれた。
だったら話は簡単だった。あの夜、涙を流してまで思いつめる必要はなかったのだ。
無意識の内に、戦争が終わればお別れだと思っていた。戦争をきっかけに彼を訪ね、僅か半年ほど行動を共にしていただけなのだから仕方ない。
だが、いいではないか。
彼が護る側に立つ人物なら、そんな彼に護ってもらえば。少なくともコーウェンはそのつもりだそうだから。
自らが彼を精一杯フォローし、手の届かない部分は彼に力添えしてもらおう。
「私は――」
ディーアは決心し、口を開いた。
言いにくそうに言葉を切ったディーアを訝しみ、コーウェンは先ほどまでのようにディーアの顔を振り返る。
目と目が合った瞬間、その言葉は自然と紡がれた。
「私は、これからもウェンと一緒にいたい。構わないか?」
その問いに対し、当たり前だとでも言うかのように、肯定の意が返ってきたのは言うまでもなかった。
「――何かと思えば、そんなのこっちからお願いしたいくらいですよ? ……やっぱり、一緒にいてくれないと悲しいですし」
ディーアの心が温かい何かで満たされたのも、最早言うまでもなかった。




