21 あの日の魔法
簡易的に拵えただけのテントの中で、ネイルはうずくまるように眠っていた。
疲れからか、目頭がチカチカと痛む。
少し湿気を含んだ冷たい隙間風が首筋を通り抜け、ぶるりと身体を震わせた。
いつの間にか眠っていたのだろうか、気が付いたらそんなことを考えていたが、無理矢理覚醒される意識が先ほどまでの恐怖を甦らせる。
「怖い……」
自分にはどうすることもできない状況で出てきたこの言葉は、ネイルの心情をこれ以上ないほど如実に表している。
夜――時間はわからないが、周囲を覆う控えめな闇からそのことが理解できた。簡単に確認するが、手足を縛られたりといったものは確認できない。
ふと、テントの外へと意識を向けた。
(やっぱり……見張り、いない?)
いつもなら隙なく立っているはずの見張りなのだが、今日に限っては気配がない。今なら逃げられるか、と一瞬思ったが、目の前にいないだけであって結局は目の付くところに人がいるはずだと、直ぐに思考を切り替えた。
どうせ、外に出たら地獄なのだ。
敵の所有物であるはずのこのテントが、この地獄での唯一の居場所なのだと、縋るような愛着を抱いている自分に嫌気が差した。
ネイルが執事長に内緒で冒険者を雇い、エルフの国目指しリグルドを出たのは二十日も前のことで、旅は順調に進んでいた。
それは当然だ。悪いとは思いつついつかは返そうと、家のお金を使ってまで旅のプロである冒険者を四人――丸々パーティごと雇ったのだから。
彼らとの旅は順調なだけではなく、実に楽しかった。二年前に何者かに森へと連れ去られた時に、偶然通りがかった冒険者に襲われた記憶だって残っており少し躊躇はしたが、ネイルだってもう十四歳であり、そんな冒険者は極少数だってことは頭でわかっていた。だからこそ、受け入れさえすれば、その先に待っていたのは決して悪いものではなかった。
――だが、旅を始めてから十四日目の道中、それは突然起こった。
「どうして……」
思い出せば思い出すほど、恐怖はネイルの心臓を締め付ける。
本当に突然だった。夜襲でも待ち伏せでも、当然ゲリラ染みたものでもなかった。彼らは目の前に堂々と現れて、たった十数秒で冒険者の四人の内三人を殺した。それも、実際に手を出したのは先頭に立っていた一人の男だけだった。
唯一殺されなかった最後の一人はリルムという女性で、今も隣で寝ているはずだ。
――と、そこでネイルが認識したのはリルムの不在であった。
「リルムさん? いないの……?」
テントは比較的小さく、リルムの姿の有無を確認するのは手探りだけで十分だった。だが恐怖から、目が暗闇に慣れるまではその事実は認めたくなかった。
やがて視界の確保に成功したネイルは、当然ながらテントの中には自分一人だということを確認すると、恐れはあるもののテントの外を確認することにした。
男性冒険者三人はすぐに殺した彼らだったが、なぜか自分とリルムは殺さなかった、そんな事実がネイルの心の保険になっている。それにリルムは、捕えられてからも励まし続けてくれた唯一の人物だから心配だってしている。
三角テントの出入り口を覆っていたものを横手に逸らし外に出ると、ここから少し離れた位置に明かりが見えた。明かりの主は、ランプを掲げた奴らの仲間である。
向こうからしたらこちらは全くの暗闇であり、テントから出たことを気付かれる心配もないだろう。もしかしたら本当に逃げられるのではないか、そう思ったが、どちらにしろネイルにはリルムの安否を確認するまでは動くつもりはなかった。
やがて、明かりを持った男の向こうから“あいつ”が現れた。
冒険者三人を一人で葬った――あの男が。
「あの子、今はまだ傷付けないでくださいよ」
「はーい、わかってますよ」
利己的で聡明さを感じさせる物言いに、背筋の伸びた綺麗な立ち姿、金の髪を後ろへと流し静かな印象を受けさせる外観をしている。だが、ネイルは知っている。剣を抜いた時の圧倒的なまでの強さと、その身体を纏う鬼神が如き獰猛さを。
無意識に、身体が震えた。
この男を目の当たりにしていると、あの時の恐怖が蘇って来る。早くこの場から逃げ出したくて仕方がなくなる。
「まだ時間はあると思いますが……そうですね、明日の早朝には出発しましょう」
「あの女はどうします? リルムとか言う女」
その問いに、男は顎へと手を持って行き、何かを考えるようなしぐさを見せた。
「もういいでしょう。連れて来てください」
頷き了解の意を示した部下が声を上げると、奥から別の人物が一人の女性を連れて歩いて来た。次第にランプに照らされその姿がはっきりと視認できるようになった時、ネイルは思わず悲鳴を上げそうになった。
(どうして……!)
そこには、息も絶え絶えなリルムの姿。上半身の服を剥がれ、そこを止めどなく血が流れ落ちている。ふと、右耳がなくなっていることに気付いた。
とんでもない吐き気に襲われながらも、しかしネイルはそんな彼らから目が離せないでいた。
男はリルムの身体を強引に倒し、地面に膝をつかせた。そのまま、両手で大仰に夜空を仰ぐ。
「バカですね……。ちょっと隙を見せたくらいで逃げようなんて。それも女の子を見捨てて一人でとは、あの子が知ったらどう思うことでしょうか!」
静寂に包まれた世界で十分すぎるほど響くその声に、ネイルは激しく動揺する。
理解できた。リルムはおそらく今夜を好機と判断し、逃亡を企てたのだろう。ネイルと同じ思考に陥り、ネイルとは違ってもう一人の人物に気を配れなかった。
リルムを気にかけ実行できなかった自分と、一人で逃げようとした彼女。
だが、それは悪いことなのだろうか。ネイルにはリルムを責める気にはなれなかった。少なくとも、今のあんな姿を見せられては。
そしてその時、視線を戻した男と目が合った――ような気がした。
「――殺せ」
唐突に発せられた、冷徹な命令。
一瞬理解できなかったネイルだが、男の部下はそうではなかったらしい。
リルムの背後に立っていた一人がおもむろに剣を抜き、彼女の背から突き刺した。そして、まるで木を切り倒すかのように前後に動かし、傷口を弄ぶ。
「ぎゃぁあああぁあああ!!!」
おおよそこの世の生物が出せる声ではなかった。
ネイルが事態を理解できたのは、そんな身を裂くような絶叫が止み、リルムが息絶えた時だった。
そんな凄惨な光景に激しい怠惰感が身体を襲ったかと思うと、全身を貪り尽くす蟲のようなねっとりとした空気を五感全て――目でも、鼻でも、耳でも、皮膚でも、舌でも、はっきりと知覚してしまった。
そして、ネイルの身体はそれらを少しでも緩和させようとしたのか、腹の中に溜まっている全てをその場にぶちまけた。
――目が合った、気付かれていた、殺される、殺される、殺される……。
最早ネイルには冷静になれるほどの余裕はなかった。
方角など何もわからずに、希望など何も見いだせずに、ただ走った。
足元がふらつき、吐瀉物の酷い悪臭が鼻を刺すが、今のネイルほどそれを気に留めない人物は世界中のどこにだっていやしないだろう。
これほど、世界を残酷だと思ったことはない。
心臓が悲鳴を上げ、こめかみがドクドクと脈打ち、全身の筋肉が削げ落ちたかのように足取りが重く感じる。
だが、それでもネイルは走った。こうするしかないからだ。考えることができなくても、行動することはできる。全身がこの世界を拒絶しているこんな状況で、逃げ出さないなんて選択肢は存在しない。そんな時――
「別に、何もしやしませんよ」
――なぜか前方から聞こえたあの男の声に、反射的に足を止めた。
突然目の前に現れた男の鋭い眼光に、ネイルは恐怖から顔を歪ませた。
咄嗟に魔力を練り、無詠唱で発動させた炎を顔面に放つが、男は目の前を飛ぶ虫を払うかのように片手を振るうだけだった。当然のように無傷。無抵抗ならば一言の詠唱で人を殺せるコーウェンとは違い、いくら才能があるとは言え子供の無詠唱なんてこの程度だ。
絶望するネイルに対し、男は不敵に笑う。
「無詠唱とはさすがですね。噂に聞くだけのことはあります」
「いや、来ないで……!」
「大丈夫ですよ。まだ、殺す気はありませんから」
『《《まだ》》殺さない』ということは、いつかは殺すかもしれないという意味にもとれる。
足が震え、すくむ。ネイルはその場に尻餅を付きつつも、必死に男から距離をとろうともがく。図らずとも、後ろ向きに元のテントへと戻ってしまっていることになる。
だが、そんなネイルの様子を意地の悪い笑みを浮かべながら眺めていた男の耳に、震えながらも芯の通った声が届いた。
「火の精霊、風の精霊よ、魔力を介して力をお与えください――」
ネイルは同時に、魔力を練り始める。出発前のあの日、わざわざ家に押しかけてまでコーウェンに教えてもらった魔法――その詠唱に入った。
男は、そんなネイルの様子をもの珍しそうに眺めている。
殺されないのなら、何をされても意地でも唱えてやろうと思い発動を開始したのだ。観察するだけならば、ありがたく唱えさせてもらう。
コーウェンから授かった魔法――そう思うと、少しだけ恐怖が和らいだ。彼が教えてくれたのだから、これで何も状況が変わらないなんてありえない。
コーウェンを心から信じているネイルは、震えの緩和した足で、それでも精一杯立ち上がった。
目的を明確に詠唱に込めろ、と教わった。ならば言うまでもない、目の前の男を殺す!
「求めるは滅殺、あいつを殺すこと、塵も残す必要はない、だから、協力しよう――」
ネイルは片手を膝に付きながらも、もう片方の手をしっかりと男へ翳した。
「突き刺せ――『風の業火』ッ!!」
その瞬間、辺り一面を熱風が包み込んだ。
刹那の間に木に飛び火したかと思うと、その炎は男へと集まり、天高く昇り、対象を切り裂いた。
凄まじい奔流による火柱、槍のようにも見えるそれに、男の身体は隠れ消えていった。
そして、思い出すのはあの日の会話――
◆◇
「ネイルは魔法を詠唱する時、何をイメージしてやってる?」
「ん? 何って、発動する魔法だよ?」
「ああ、ごめん。そうじゃなくて……魔法自体をどういうものに感じてるかってこと。例えば、メリファは『便利すぎる道具』って言ってたし、ディーアさんは『生命エネルギーの活用』って言ってたんだけど――」
「ああ、それなら私にもあるよ。私は、『精霊から借りる力』」
「ああ、なるほど。精霊はあくまでもイメージだな?」
「うん、でもそう考えた方が上手く魔法を使えるんだ」
「だろうね。メリファも同じこと言ってたよ。発動する魔法と、その手順に一番しっくりくる独自のイメージを持つことはとても大切らしい」
「……じゃあ、ウェン君はどうなの?」
「ん、……俺は、『幻想的な異能力』だな」
「へー、ちょっとかっこいいね。でも、どうして『幻想的』なんて思うの?」
「……うん、俺の価値観としては、どうしても『魔法』なんて聞くとそう感じてしまうんだ。そうだな、どこか不思議なんだよ」
「ふーん、魔法が不思議って、ちょっと私にはわからないな……」
「やっぱそうか。でもアーヤならわかってくれるよ? な、アーヤ――」
◆◇
今まで教わったことは、全て守った。
こんな極限状態にもかかわらず、完璧な魔法を放てた。
だが、相手の強さは一度見ている。殺すつもりで放った魔法だが、殺せないことはネイルが一番わかっていた。それでも時間稼ぎにはなるだろう。幸い、この男を信用してか、彼以外の人間が追って来る気配などはしなかった。
魔力を消耗したことにより弱音を上げる身体を叱咤し、ネイルは再び逃走を図った。
だが――
「火と風の魔法を合わせるとは、本当に素晴らしいですね」
――再び、男はネイルの前へと立ちはだかった。それも無傷で。
「どう、して……」
「どうして、ですか? 簡単です。君が私の力を見誤った」
「そんな……けど……」
「まあ、信じられない気持ちも理解はできます。――あ、動かないでください」
目尻に涙を浮かべながらそれでも何か行動を起こそうとするネイルを、男は片手で押さえつけながら続ける。
「まだ名乗っていないですし、今、名乗ります。――グリムガム戦闘部門第一戦闘集団『大華炎』、“孤剣”シリウス・ライラ。君程度ではどうにもできない者です」
そう言い、シリウスと名乗った男は不敵に笑った。
ネイルは己の迂闊さを後悔した。いや、仕方なかったと自分を慰めた。目の前にいる男が、旅の途中に突然襲ってきた集団の長が『大華炎』など、いったい誰が考えるか。少なくともネイルには無理だった。
そもそも『大華炎』とは、王国を裏で牛耳っている『グリムガム』という組織の最強戦闘集団ではないか。
貴族として、絶対にかかわるなと釘を刺されたことからその存在は知っていた。父親曰く、構成員六名、全てが十二英傑にも負けず劣らずだと、少なくともそう考えておいて損はないほどの相手だそうだ、と。
そんな人間が自分を襲う……?
ありえないという気持ちがネイルを覆うが、肩に触れる手から伝わって来るとても居心地の悪い何かが、ネイルを強制的に納得させた。
「もう、逃げないから……、離して」
ネイルは絶望し切った、抑揚のない声で告げた。
「わかりました。では、テントへと戻りましょう」
簡単に手を離したシリウスは、ネイルを背に一人でテントへと帰って行く。
その迷いのない、自信に溢れた足取りは、どこかコーウェンを連想させた。だがコーウェンはこの男とは違い、とても優しくて、とても温かい人間だ。
シリウスとコーウェンを重ねてしまった自分を恥じながら、ネイルは強引に思考を放棄する。
「ウェン君は、お前よりも強い……」
変わらず抑揚のない声で呟かれたその声は、しかしとても小さなものだったためシリウスへ届いた様子は見受けられない。
ネイルは、自らの首に提げられた翡翠色のネックレスを握り、続けた。
「ウェン君は、ずっと、強い」
またもや、シリウスへは届かないであろう小さな声で呟いた。
大雑把に、それでも規則的にカットされたその石を、より強く握りしめる。見つめていると、石の表面に染みができた。
一つ、二つ、それは――涙だった。
「ウェン君、もう、縋るものがなくなっちゃった。だから、ごめんね――」
前方を見る。
シリウスは、ネイルが後を付いてこないことに気付いているだろう。だが、逃げようとしたところでどうにでもなるから、その姿に焦っている様子などは一切見受けられない。
ネイルは視線をネックレスへと戻し、石を握った手に魔力を練り始めた。
思い出したのは、コーウェンの言葉だった。
彼があの日、かけてくれた魔法。
――『何かあったらこれを壊してよ。そうしたら居場所がわかるように、そんな魔法がかけてあるから』
そんなの、当時のネイルにさえ嘘だとわかった。
ネックレスにそんな魔法をかけ、持続させるなど、最早魔法ではない。言うなれば『呪術』だ。できたとしても特殊魔法を行使する必要があるだろう。
だが、今のネイルにはもう縋るものが、希望が見当たらなかった。だから、そんな嘘でも信じるしかない。そうしないとおかしくなってしまいそうだから。
コーウェンにはさっき謝った。もう、大丈夫だ。
そして、ネイルはネックレスを破壊する――
「せっかく譲ったんだ。別に、壊す必要なんてないだろ?」
――瞬間、石を握るネイルの手に、彼女よりも一回り小さな、それでいて、とても頼もしい手が重ねられた。まるで、その行為を止めるかのように。まるで、恐縮した身体に元気を与えてくれるかのように。
その手は背中側から伸ばされている。
ネイルは、反射的に背後を振り返った。そこには、彼女が世界で最も愛する人物が立っていた。堂々と、そして温かい笑みを浮かべながら。
自然と、先ほどまでとは正反対の涙が、頬をつたった。
「……うん……そうだね、そうだよね……」
ああ、もう、何も怖くなんかない。
自分は今、世界で一番安心できる場所に立っているのだから――




