10 初顔合わせ
今日はとても良い天気だ。
玄関で家族に見送られながら家を出たコーウェンが、開口一番に発した言葉がそれだった。
見渡す限りの青空が広がり、先ほどから探しているのだが雲の存在は見受けられない。そう言うのも無理はなく、コーウェンの背後でその言葉を聞いていた三人の家族も一斉に空を見上げていた。
あの日の雨が嘘のようだ。
ネイルが何者かに連れ去られ、森に放置されたかと思ったら突然冒険者たちに襲われたあの日のことを思い出しながら、コーウェンは歩き出す。
あの日、事件に深くかかわった為に調査や聞き取りでドタバタする羽目になり、それに悪天候も重なってアーヤはディスタート家に泊まっていくことになった。だが、彼女はメリファの部屋で寝泊まりをし、結局二人はほとんど口を聞かずにその日を終えることとなった。
気まずかったのだ。暗黙の了解――そういう名の、二人を繋ぎとめていた鎖は想像以上に重要だったようで、それを引きちぎったあの時の言動は軽はずみだったのかもしれないと、そう考えずにはいられなかった。
コーウェンは通いなれた通学路を歩く。
かつては地球に住んでいた者として、改めてこの町は、この世界は綺麗だと言える。
ヨーロッパのような石畳の大通りを行くと、中央に噴水が置かれた広場、水の都を連想させる用水路、そんな中に溶け込むように存在する自然の一部。右を見ても左を見ても、自動車などは走っていない。
道の左右に居座っている露天商の人物から声をかけられ、それに微笑み返しながら歩く。
コーウェンを指差しながら『風の子』と呟く大人たちに、苦笑いを返しながら歩く。
風の子とは童話の中に存在する妖精を指したもので、ネイルが襲われたあの日にリグルド内を全力疾走していたコーウェンを見た人物が、『風に乗っているかのようだった』と噂し始めたのがきっかけで、徐々に広がっていったあだ名だ。
それだけならば大した噂にはならないのだが、いくら悪天候で人通りが少なかったとは言え町中をずっと走り続けていたのだから、その噂に裏付けを与える人物が十数人も現れたのは致し方ないことであり、それに加えて走っていた理由が領主家の令嬢を悪者から救い出すためだったなんて尾ひれがつけば(その通りなのだが)、リグルド中の有名人になるのは至極当然のことだと言えた。
(とは言え、吟遊詩人たちが物語として歌い始めたのはな……)
リグルドの宿屋では、一つの物語として吟遊詩人たちがこぞって歌っているという現状があり、その中のコーウェンは成長後にネイルと結婚していたり、酷いものならば一国の王子という設定だってある。
コーウェンはそれを思い出し辟易とする。
そんなことを考えながら歩いていると、学校へと辿り着いた。
門をくぐり、廊下を抜け、教室へと入ろうとした時、コーウェンは昨日の夜からの覚悟を改めて強固なものへとする。
――今日は、アーヤにはっきりと転生者だと伝える。
間違いなくアーヤは転生者で、彼女もコーウェンがそうだと気付いている。
だが、自分の口から伝えることはまた別で、それをしなければ二人ともこの先微妙な関係で生きていかなければいけないことになるだろう。それは好ましくない。
コーウェンは一度深呼吸をし、扉を開けた。
◆◇
「そろそろ帰らないと……」
そう呟き、手元に残ったジャンクフードの最後の一口を処理し終えた女子高生――宮部葵は、足元に置いていた通学カバンを持って店を出た。
今日は祝日で学校が休み。その代わりに彼女が所属している陸上部の練習が午前にあり、それの帰りにジャンクフードで昼食を済ませたという訳だ。
葵が通う学校は彼女の実家の隣町にあり、そこから通っているために陸上部内に通学を共にする者はいない。だから今から一人で家を目指すわけで、その事実に少しの寂しさを覚える。
「家に帰ったらシャワーを浴びよう」
季節は十月。
真夏よりは日が落ちるのが早くなったが、それでもまだまだ暑さを感じる今日この頃。先ほどまで部活をしていた葵はそれなりに汗をかいており、先ほどから肌着が身体に張り付いていて不快な思いをしているのだ。
葵の家は電車を乗り継いだ先の、少しだけ田舎な町にある。
その町は電車で片道十五分ほどの場所で、正直に言って通学はめんどくさい。だがそれでも葵がこの町の学校を選んだのには訳があり、それは実に単純で、ばかばかしくも、儚い思いから来たもの。
――あの人に、大好きな人に会いたい……。
葵は陸上部に所属してそれなりに結果を残しているために、周りの人間からはアウトドアな人間だと思われている。だが、葵は言う。――私はインドア派だ、と。
当然アウトドアも好きなのだが、それ以上に読書が好きだからだ。
彼女はジャンルを問わず、文庫本、新刊本、文学、漫画、ライトノベル、それら全てを分け隔てなく愛している。普通は好きなジャンル、苦手なジャンルが存在するものだが、それがないのだ。そもそも葵は字を読み、別の世界、別の物語へと意識を落としていく行為そのものが好きなのだ。
そして、ここまで本を好きになるきっかけを与えてくれたのが、葵の“好きな人”だ。
その人物とは、この町のとある公園で出会った。
葵が小学校を卒業する目前に出会い、少しの期間だけ会っていた。しかもそれ以来顔を見たことはない。それなのにまだ片思いを続けている葵は、客観的に見れば変わっているのだろう。だが、それでもその人物は彼女にとって忘れられない、かけがえのない思い出なのだ。
葵の心にいつまでも居続けるあの人、彼のことを考えると元気が出る。
電車に揺られること、きっちり十四分。
葵は日本の電車の正確さに感心しながら、家を目指す。
降り立った駅は当然家の最寄り駅だ。だが、ここは先に話した通り少し田舎なので、ここから家までさらに十五分ほど自転車を漕ぎ続けなければいけない。
正直煩わしい。部活後には些かしんどいもので、それでもまだ目的の彼とは再会できていないのだからやるせない。
「お風呂から上がったら、午後はずっと読書に耽るぞーー!」
そんな思いを吹き飛ばすように、葵は叫ぶ。周りが田んぼに囲まれているこの帰り道、人目を気にせずに叫べるのは少し気に入っている。
お風呂でさっぱりし、好きな音楽をかけながら、好きな本の世界へと入り込む。そんな想像をしていると、自然とペダルにかけられた足に力が漲ってきた。
そして十分後。
いつもよりスピードを出していたからか、普段よりも早く家に着いた。
そのせいで余計に噴き出してきた額の汗を袖で拭いながら、玄関を開ける。
「ただいまー!」
元気よく挨拶をすると、奥から葵の母親が「おかえりー」と言いながら出てきた。
いつも優しくて、女手一つで育ててくれた、葵の自慢の母親だ。
「お母さん、やっぱり最近機嫌がいいね!」
「ふふ、そう?」
「再婚が楽しみなんでしょ? 明日は初めての顔合わせだね」
「うん、だから明日は寄り道したらダメよ?」
「はーい」
葵の母親は近く、高校生の息子がいるバツイチの男性と結婚する。
そして、明日はホテルの豪華ディナーを囲んでの初顔合わせだ。
そんな幸せそうな母親に笑顔を返すと、葵は着替えを持って風呂へと向かった。
「ふぅ、気持ち良かった……」
風呂から上がった葵は乾かしたばかりの髪を気遣いながら、ベッドの側面へともたれかかる。ここが彼女の、読書専用の特等席だ。
リモコンの遠隔操作で音楽をかけ、昨日買ったばかりの『僕の時間旅行記』という本へと手を伸ばした。
これから始まる知らない物語、そんなことを考えると気分が高ぶってくる。
(はは、やっぱり私って変なのかも)
葵からしたら、自分のように読書を楽しめないのが変なのだが、そこは彼と出会えたことが特別だったんだと、そう思うことにしている。
そんなことを考えながら、葵は物語の中へと意識を落としていく……。
「ねー、入るよ?」
扉の外から母親の声が聞こえてきた。
不思議に思いながらも返事を返そうとしたが、それを待たずして母親は部屋へと入ってきた。
「どうしたの?」
「どうしたのって……、さっきからずっと呼んでたよ? ご飯食べよ」
「え、ごめんね。気付かなかった……」
どうやら食事ができた旨を伝えに来たようだ。それにしても呼ばれてても気付かないなんて、よっぽど集中して読書をしていたんだな、と葵はそんな自分に笑ってしまう。
そこでふと時計を見ると、時刻は既に十八時三十分を過ぎていた。葵が読書を始めたのが十三時三十分程だから、大体五時間も本を読み続けていたことになる。
そこで、音楽が止まっていることに気付いた。おそらくシャッフルする曲がないのだろう。葵は改めて、自分の集中力に呆れた。
「今行くね」
そう言い、指を挟んでいたページへと栞を挟み込むと、母親と共に食卓へと向かった。
◆◇
「葵ー! 今日は部活休みなんでしょ? 一緒に帰ろ!」
授業の終わりを告げるチャイムが響き渡ると同時に、そんな声が教室に響き渡った。
声の主は葵の元へと駆け寄ってくる。彼女は葵の親友で、部活がない日はいつも一緒に寄り道したりして遊んでいる仲だ。
「いいよー。でも、今日は寄り道できないよ? 用事あるから……」
「えー、まあ、用事なら仕方ないか。それでもいいよ!」
「ごめんねー」
えへへ、と二人で笑い合う。
二人は家の方向さえ違うものの、同じ駅から学校へと通っている為、そこまでは一緒に帰れる。
いつもはクレープを買ったり、本屋へ寄ったり、偶にはゲームセンターなどへも行く仲なのだが、今日は大事に顔合わせの日だ。無下にできようはずもない。
ここで、葵はスマートフォンの電源を入れた。
葵は授業中もマナーモードではなく電源を落としておく派の人間で、いつも授業が終わってからメールや電話をチェックするのだ。――と、そこで留守番電話が入っていることに気付く。相手は母親だ。
「ちょっとごめんね。留守電入ってる」
そう言った葵は、友達の反応を確認することなくスマートフォンを耳へ当て、留守番電話を再生した。
《もしもし葵? ごめん、今日急に仕事入ちゃってお母さん顔合わせに遅れちゃう。それで相手方にも伝えたら、向こうも偶然仕事ができたって……。でもキャンセルすると、次の機会がいつになるかわからないから、向こうの息子さんと二人だけでも会ってきて? 私たちも後から合流するから。本当にごめんね》
少しの雑音の後に聞こえてきたのは、そんな絶望的な内容だった。
葵は人見知りなところがあり、小さい子供ならまだしも、高校生の男性と二人きりで食事など耐えられるものではない。目的の好きな人と再会できた時、どうやって声をかけるかをずっと考えている程だ。
「葵? どうしたの?」
よっぽど深刻そうな表情をしていたのだろう。友達が心配そうに声をかけてきた。
葵はできるだけ笑顔を浮かべる。
「……なんでもないよ。帰ろっか?」
「うん、帰ろー!」
一つ前の駅で友達と別れた葵は電車を降り、そのまま顔合わせ場所のホテルへと向かう。学校帰りの制服のまま直接だが、これは当初の予定通りだ。
この町は葵の家の付近と似ており、少しだけ田舎だ。
見渡せば田んぼが広がり、稲の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。
顔合わせのホテルまでの道順は頭に入っている葵だ。自然の気持ちよさに緊張を紛らわせながら、道を行く。
「にしても、お母さん私の性格知ってるはずなのに……」
ホテルへと近づく度に激しくなる心拍が、葵にこの場にいない相手への愚痴を呟かせた。
「しかも年上だし……」
葵の愚痴は止まらず、それでも母親が好きなのだから素敵なものだ。
やがて、ホテルへと辿り着いた。
時刻は十六時前。待ち合わせが十六時十五分なので、少し早く来すぎたかなと思いながらも、入口をくぐった。
ホテルのフロアには赤い絨毯が隙間なく敷かれており、葵は高校生の自分には場違いな雰囲気を感じずにはいられない。
葵はそんな妄想を取り払い、少しの勇気を持って受付の男性へと話しかけた。
話を聞いた男性は何かを確認した後、葵を一つのテーブルへと案内する。
やがて招かれたのは、一階の端に設置された四角テーブルだ。染み一つない真っ白なテーブルクロスが敷かれており、その上にはバスケットに入ったスプーンやフォークがある。
場違いな雰囲気は増すばかりだが、まだ相手が来ていないことに少しホッとしながら席へと着いた。
席へと座った葵は、相手の男性について聞いていたことを思い出す。
「一つ上か……」
十六歳の葵に対し、十七歳の相手男性。そんなことを考えていると、お見合いのようで恥ずかしくなってきた。
(私は何やってるんだろ……)
そんな葵の脳裏に、ある人物が思い浮かぶ。一つ上――それは、葵の片思いの相手と同じ年齢だ。
好きな人のことを考えるとまた別の恥ずかしさが込み上がってくるが、同時にとても幸せな気分になれるので気にしない。
「私に、読書の楽しさを教えてくれた人……」
通学カバンから取り出した本を優しく撫でながら、そう呟いた。
葵が小学校を卒業する直前、「大人になる試練だ」なんて言って、一人で電車に乗って辿り着いたあの町。
偶然通りがかった公園で、ベンチに座って本を読んでいる彼を見つけた。
当時の彼は中学一年生で、今の葵から考えるとまだまだ幼い。にもかかわらず、友達と遊んだりせずに一人で読書をしていた。
公園で読書、なんていう少し珍しい光景に興味を持った葵は、思わず彼に話しかけた。今の彼女には絶対にできない大胆な行動だ。
葵が「何してるの?」と尋ねると、彼は「本を読んでいるんだよ」と答えた。
そんなわかりきっている回答に、葵は納得した。彼の読書からは普通ではない、どこか狂気染みた雰囲気を感じ取ったのだ。字を読んでいるだけではない、自分が本の世界へと入り込んでいるかのような。それでいて、ただただ愚直に、余計なことを考えずに“本を読んでいる”ような気もしたのだ。
今となっては思い出せないが、それに魅了されたのだろう。
その後も、葵は定期的にあの場所へと通い続けた。
すると、彼もあの場所に来てくれた。
葵が会いたいと言うばっかりに無理をし続けていたのかもしれないが、偶に教科書を持ってきて丸々暗記している時なんかもあった。そんな勉強法に思わず笑うと、彼も一緒になって笑ってくれた。
お互いの名前は知らない。自己紹介もしていない。
知っている情報と言えば、お互いの年齢くらいだった。
だが、それでも十分だった。二人はただ、同じ時間を共有していただけ。それが温かかった。
彼につられ、葵も読書をするようになった。初めて会ったあの日彼が読書をしているのを見て、本を読むという行為がとても魅力的なものに思えたのだ。
彼には色々な本を紹介してもらった。
そんなある日、葵は無理を言い一冊だけ本を貰ったことがある。無理だと思って頼み込んだが、意外にも快く譲ってくれた……。
「この本だ……」
葵は、手元の『赤いハンモック』という本を眺める。
これを見ていると、思わず笑みが零れる。
(私の宝物……)
昔のことを思い出すと、決まって彼のことも思い出す。もしかしたら向こうはこちらのことを覚えていないかもしれない。だが、葵は彼のことを良く覚えている。細かいことまで色々と。
綺麗な二重瞼だった。
赤いスニーカーを履いていた。
一人称は“俺”だった。
葵の頭を撫でる時はいつも左手だった。
右耳の付け根上側にピアスホールのような穴が空いていた。
小さな癖だって覚えている。
教科書を暗記している時にいつもやっていた癖――
「――こうやってトントンって、右手の人差し指でリズムをとってたな……」
葵は膝に置いた手の、人差し指でリズムをとる。
こうやって真似しているだけで落ち着いてくるような気がするのだから不思議だ。
「へへ、リズムをとるなんて癖、珍しいな……」
また笑みが零れる。
そんな葵だが、一つだけ後悔していることがあった。彼の名前を聞いていなかったことだ。
相手の名前――そこまで考えて、これから知らない男性と顔合わせをするんだという事実を思い出す。
急に緊張が蘇ってきた葵は、慌てて相手の名前を思い出そうとする。自己紹介はするのだろうが、それでも予め思い出しておかないと不安なのだ。
相手の名前――
「確か……秋谷隼人さん、だっけ……」
その瞬間、葵の視界を『赤』が包み込んだ。
まるでそれは、葵という存在を攫って行く死神のような――
――そして、アーヤ・メイルリーとして生まれ変わった。
◆◇
――アーヤの頬を涙がつたう。
前世での最後をはっきりと覚えている。だからこそ、その名前は特別だった。
心臓が激しく脈打つ。全身の血液がとても熱いような、それでいてとても冷たいような……。
教室へと入ってきたコーウェンが切り出した、転生の話。
アーヤにだって、コーウェンが自分と同じ境遇の人間なのではないかと思っていた。そして、コーウェンも気付いていると思っていた。
だから覚悟はできていた。今の関係が壊れるかもしれないという恐怖はあったが、いつかはそういう話になるだろうと。だが、それでもアーヤは驚かずにはいられなかった。――コーウェンの前世での名前を聞いた時は。
「お兄ちゃん――」
アーヤはそう呟くと、コーウェンの胸へと飛び込んだ。
時間が止まる。コーウェンの、どこか安心する匂いが脳を刺激する。
あったんだ。もう存在しないと思っていた、アーヤと葵を繋げる“何か”が。義理とは言え、正真正銘の兄が――
「本当は寂しかった――」
止まらない。
溢れ出す言葉が止まらない。
隼人とは会ったことがない。それでも、コーウェンと過ごした時間が彼を教えてくれる。コーウェンは、お兄ちゃんだと。
「――ありがとう」
溢れ出す思いの中で最後に飛び出たのは、葵を証明してくれることに対しての、一人にしないでくれた兄への、泣きじゃくる自分を受け止めてくれる友への、心からの感謝だった。




