1
「ねえ、どうして?どうしてそんな子になっちゃったの?昔はいい子だったのに。どうしてお母さんの言うこと聞いてくれないの?」
散々怒鳴るだけ怒鳴って、とうとう泣きだした母親。
「もういい、そんなにお父さんとお母さんの言うこと聞けないんだったら出ていけ」
今まで口を出さなかったくせに、これだけ言ってきた父親。
「お姉、早く謝ったら?」
にやにやしながら、観戦しているような態度の妹。
色んなものがぐちゃぐちゃに混ざって、頭の中がもやもやして、それが真っ白になって、気がつけば泣き叫びながら家を飛び出していた。
「言われなくても出てってやるわよ、こんな家!」
「待ちなさい!」
出ていけって言ったくせに、待ちなさいって。馬鹿みたい。ほんとにほんとに馬鹿ばっかり。走って、走って、電車に飛び乗って、街に出た。
人ごみは楽だ。泣きながらだろうが、叫びながらだろうが、誰も立ち止まらない。誰も話しかけてこない。しゃくりあげながら、好きだけ叫んで、少し楽になった。すると、お約束のようにお腹が鳴った。
「お腹が空いた…」
ごそごそとリュックの中を探り、財布を取り出し、中見を見てみると、500円もなかった。がくりと肩を落とし、街の中を歩きながら、この金額でお腹いっぱいになりそうなところを探す。ファーストフードは気分じゃない。牛丼屋なんて1人じゃ入れない。うどん屋さんは何かやだ。ああでもないこうでもないと思いながら歩いていると、休みの日に友達とよくくるゲームセンターに辿りついた。そういえば、中にクレープ屋があったはずだ。甘いもの食べたい、真冬は足取り軽くゲームセンターの中へと入った。
「ありがとうございましたー」
「はーい」
奮発してジュースとセットにして、1人だけでクレープ食べて、ちょっと大人になった気分だ。足を軽くばたばたしながら、自分とクレープを写真に撮ろうとしていると、母親からのすごい着信に気付いた。それとほとんど同じくらいに、コインゲームをしている柄の悪そうな高校生がこちらをちらちら見ていることに気付いた。ナンパされることに対してはちょっと憧れがあるが、1人だと、急に心細くなった。
母からメールもきている。『どこにいるの。お父さんが迎えに行くから教えて』と短く書いてある。迎えに来てもらおうかと返信しかけるが、駄目駄目と真冬は首を横に振った。家出がこんなに短くてたまるか。
クレープをジュースで流し込み、真冬はゲームセンターの中を歩いた。何だか、男の人みんな怖そうに見える。やはり1人でいるには心細すぎる。友達に泊めてもらおう、真冬が携帯電話を再び取り出すと、げっと呟いた。充電が少ない。大量の着信のせいだろう。
確かプリクラの裏に充電サービスがあったはず、真冬がエレベーターに乗ろうとすると、赤い服の男女が行く手をさえぎった。制服で分かる、ゲームセンターの店員だ。
「君、いくつ?」
「中学生だよね」
え、と、真冬が詰まり、エレベーターの前の注意書きを見てはっとした。こんな時間に来ることないから忘れていた。中学生は、ゲームセンターにいていい時間ではない。
学校、親―どちらにも連絡されてはまずい。真冬は笑顔で、必死で嘘をついた。
「や、やだ。大学生です」
「いやいやいや。うちも商売やってる以上は、決まりとか守らないといけないから」
「親御さんと連絡取れる?学校は?」
まずい、真冬は隙をついて全速力で走りだした。待ちなさい、と大声で叫ばれた気がするが、誰が待つかとばかりにとにかく走った。どうにかゲームセンターの外に出るが、店の前に警官がいた。もう通報されたのか、そう決めつけた真冬は、再び全速力で走った。
「は、は、はあ!!」
もうやだ、走り過ぎて紐が切れてしまった靴を脱ぎ捨て、真冬は自動販売機の横にへたりこんだ。色とりどりのジュースが誘惑してくるが、もうお金がない。ため息交じりに自動販売機を恨めしく見上げていると、後ろの人の気配を感じた。邪魔になってる、すいません、と謝った真冬の顔がひきつった。
「えへ、えへへへ」
ぼさぼさの髪、下着のような格好、何日も体を洗ってない異臭。目の前にいきなり現れた男を見て、真冬は凍りついた。
「一本買ってあげようか。そのかわり、ちょ、ちょっと一緒にトイレに」
「いや!」
「待ってー」
人通りの多いところまで走り、真冬は立ち止まった。ここまでくれば大丈夫だろう。動悸が五月蠅い。冗談みたいに、次から次に嫌なことが起こる。神様の罰か、自分は悪くないのに。
そう、悪くないのだ。疲れた、真冬は携帯電話で友達に一斉送信した。誰か泊めてくれ、と。全員いいって言ってくれるに決まっている。とにかく、たくさんの人に同情してほしかった。誰かに構ってほしくて仕方がなかった。
人通りの多い道を目立たないように歩きながら、返事がないな、と真冬は携帯電話を見ると、やっと1人から返信が来た。その文章を見て、真冬は目を疑った。無理、と答えていたのだ。無理、それだけ。真冬は思わず電話した。
「もしもし?」
『ああ、真冬?ごめん、今日、お姉ちゃん帰ってきてるんだ』
「そ、そうなんだ」
『ごめんね』
なら仕方がないか、真冬が電話を切ると、続々と返事が帰ってきた。開いていきながら、真冬の手はどんどん震えてきた。どのメールも断っていたのだ。理由は様々だったが、そんなものどうでもいい。ただ、とにかく泊めてもらえないことが悲しかった。
「畜生」
また、涙が流れてきた。喉、カラカラなのに。
「親友じゃねえのかよ」
悔しい。悔しい悔しい悔しい。自分の年齢も、やりたくないことをやりたくないと言ったら親に怒鳴られることも、友達に頼るしか思いつかないことも、その友達もいざというとき頼れないということも、何もかも悔しい。
涙を拭き、真冬が駅を見上げる。終電って何時だろう。定期券ならあるから、お金がなくても家には帰れる。というかそもそも、父親が迎えに来ると言っているのだ、今日は一旦帰ろうと電話しようとすると、ちょうど母からまたメールがきていた。
『真冬、返事だけでも頂戴。お父さんが警察に連絡するって大騒ぎしているの。お願い』
ぷち、っと、頭の中で何かがはじけた音がした。気がつけば、友達のところに泊まると嘘のメール返信をして、電源を切っていた。ああ、お母さんは、私の無事よりも、お父さんが警察を呼ぶことが気にかかるんだろうと。思って、考えて、もう、何もかもどうでもよくなった。
真冬はふらふらと駅へと降りていき、家への方向ではなく、気がつけば学校行きの電車に乗っていた。
真っ暗の学校、怪談の定番だが、何だか今はほっとする。正門に回り込むと、さすがに閉まっていた。疲れて、疲れて、とにかく水を飲んで横になりたくてたまらない。確か保健室には飲み水があるし、ベッドも当然ある。どうにか忍び込めないかなと思いながらうろうろしていると、ふと、少し向こうに制服を着ている女子を発見した。まさかこんな時間に部活じゃないだろう、とにかく今は、誰でもいいから会話したい。
真冬が近づいて声をかけようとすると、思わず隠れた。女子は慣れた手つきで外から窓を開け、中へと入っていった。嘘、真冬は驚きながらも、彼女と同じように窓を開け、ついていった。
校舎を見つけたときは少しほっとしたが、校内はさすがに少し怖い。お化けとか出ませんように、真冬がそろそろ廊下を歩くと、保健室を発見した。扉を開くと、鍵がかかっていた。そりゃそうだ、真冬がうなだれていると、後ろから笑い声がした。驚いてふり返ると、先ほどの女子がいた。
「閉まってるわよ、そりゃ」
「そ、そうだよね」
つられて笑い、真冬は息を飲んだ。月明かりの下、立っている彼女はそれはそれは美しかった。顔の可愛さなら諦めがつくが、長くてまっすぐの髪も、すらっと高い背も、酷い癖っ毛で小柄の真冬には喉から手が出るほど欲しいものだ。
こんな綺麗な子いたっけ、違う学年かな。もしかして三年生かも、真冬が姿勢を正して、小さく会釈した。
「真冬です。2年E組です」
「私、2年A組の…そうね、じゃあ、真夏」
「真夏?」
さすがに、おまけにじゃあ、って言った。偽名だ。真冬が笑うと、真夏と名乗った少女が鼻をつついてきた。
「簡単に名前を教えちゃ駄目よ。私が不審者だったらどうするの」
「いやいや、私も不審者だし…ええと…もう、真夏でいいか。真夏はどうして学校に忍び込んでるの?」
「私、ときどきこうして学校に忍び込んで泊まってるの。友達いないし、外泊できる年じゃないし」
「そっか…あの…よければ、一緒に泊まってもいいかな?私も行くところ、なくて」
「いいわよ。私の家じゃないし」
「そりゃそうだ」
真夏はポケットから出した鍵で保健室を開けてくれる。笑いながら、2人で隣のベッドに倒れこむ。不思議だ。始めて会った女子とこんなに早く打ち解けることも、こんな大人っぽい子と仲良くなることも。普段だったら、絶対仲良くならないタイプだ。
「疲れた…おやすみ」
「おやすみなさい」
固いベッド、消毒液臭い保健室、それでも、不思議と、家よりずっと深く眠れた。
深く眠り過ぎた。
「全くもう、朝から保健室で口開けて寝てる生徒がいますか」
「ごめんなさい」
「もういいです、クラスに戻りなさい」
「はあい」
制服で寝てて良かった、保健室の先生がまさか泊まったなんて思ってなくて良かった―隣のベッドを見ると、真夏はもうとっくに1人、出ていってしまっていたようだ。裏切り者め、真冬は急いで教室へ向かった。
「おはよー」
「おす、社長出勤」
「全然元気じゃん、さぼりかよ」
「わはは」
どうもどうも、と真冬は級友たちに声をかけながら、席につき、授業の用意をする。リュックの中には教科書なんて入らなかったため、隣の席の女子に見せてもらった。ノートと筆箱だけは入れていて良かった、先生が入ってきたため、授業を受け始める。授業がいつも以上に身が入らない。真冬は一刻も早く、真夏に会いたくてたまらなかった。
休み時間になるなり、真冬は急いでA組に急いだ。さすがに他のクラスに入るのは気が進まないため、真夏が廊下にいたときはほっとしたし、それ以上に嬉しかった。
「真夏!」
「あら、真冬。おはよう」
「おはようじゃない!もう、酷いじゃない起こしてくれたっていいじゃん!」
「ふふ、ごめんなさい」
「もう…」
明るいところで見る真夏も綺麗だ、一緒にいると何だか自分も美人になった気がして、真冬は少し鼻が高かった。真夏と話すことが嬉しくて嬉しくて、周りからの刺さるような視線に真冬は全く気づかなかった。
お昼を食べる時間がなくなってしまうと真夏から指摘をうけ、真冬が急いで教室へ戻った。家から持ってくるお弁当は当然なく、財布の中身もほぼ空だったため、真夏にお金を借りて購買でパンを買ってきた。また借りが出来てしまった。
自分のクラスの扉を開け、いつも一緒に食べているグループを発見すると、真冬は自分の椅子を持って、輪の中へと割り込んだ。
「はー、お腹空いたー。いただきまーす」
食べ始めていくらかしないうちに、真冬は異変に気付いた。いつも一緒に食べているグループの様子がおかしい。真冬の顔も見ずに、明らかに急いで食事を切りあげ、更にそのまま示し合わせたように全員教室から出ていった。真冬は驚くばかりで、全く状況か掴めない。
サンドイッチをジュースで流し込み、後を追いかけようとして、真冬が足を止めた。視線が痛い、ひそひそ噂話が耳触りだ。明らかに自分が標的にされている。クラス中を見渡すが、皆、真冬と目が合うと反らしていた。真冬はたまらず廊下に出て、比較的気が弱い級友の腕を掴んだ。
「ねえ、ちょっと何事?どうして私が急に仲間はずれにされてるの?」
「え、えっ」
彼女は明らかに動揺した様子だったが、真冬はすがるように、彼女にもう一歩近づいた。
「ね、お願い。教えて」
根気強く目で訴えていると、級友がそろそろと口を開いた。
「○○さんとしゃべってたでしょう?」
「誰?」
「ほら…何カ月も休んでた…綺麗な子」
「………ああ」
真冬はようやく、誰のことか思い当たった。真夏の本名だ。可愛くて、勉強も出来て、家も金持ちらしい彼女は、嫌な噂ばかり流れていた。何カ月も謎の休学が決定打だったらしく、妊娠して、子供を堕ろしたとまで言われていた。が、クラスも違うし、もともと噂話にあまり興味のない真冬にはあまり記憶に残ってなかったのだ。そうか、それがその彼女だったのだ。
思い出すだけ思い出して、真冬が、ん、と宙を見る。
「待って、まさかそれだけ?」
「それだけ、って言うか…うん、それだけなんだけど…ま、真冬ちゃん、昨日、暗いところ、1人でうろうろしてたんでしょ?塾から帰ってた子が見たらしくて…」
げ、と、真冬は小さく呟いた。誰かに見られているとは思ってなかった。
「それで…その…援助交際でもしてたんじゃないかって…彼女と急に仲良くなってるのもおかしいし、2人で意気投合したんじゃないかって」
「はあ!?話、飛躍しすぎ!」
「わ、私に、怒鳴らないでっ」
そりゃそうだ、しまったと思ったときには既に遅かった。怒りと混乱と不安で彼女に八つ当たりしてしまった。涙目の彼女の腕を掴んだ真夏を、周囲が蔑んだ目で見ている。真冬はごめん、と級友に謝ると、たまらず駆けだした。もうすぐ授業が始まるが、とても教室に戻る気はしなかった。
立ち入り禁止の屋上に侵入し、叫ぶだけ叫んだら少し気が晴れた。教室には戻りたくないが、いつまでも戻らないわけにもいかない。勇気を出して、真冬は教室へと戻った。冷たい視線も、噂話も、胃の中からもやもやして、今にも爆発してしまいそうだ。自分は絶対、いじめる側にならないようにしよう。
真冬は教室に入るなり、口を大きく開けて叫ぶように言った。
「私、援助交際なんてしてない」
皆が驚くようにこちらを見るが、すぐに目を反らして、噂話を始めた。真冬は耐えきれず、最後の手段をもう使うことにした。
「こんな小さな胸にお金なんか出すか!!」
言ってみたら、予想以上に恥ずかしかった。顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、やがて、いつも一緒に行動していたうちの1人が大声で笑いだし、やがて、みんな笑いだし、ごめん、ごめん、と謝っていった。
「そりゃそうだよね、あんたに援助交際なんて出来るわけないか」
「ごめんごめん」
「いいよ」
よかった分かってくれた、そう思う反面、真冬は心の中でそっと、級友たちに向けて壁を作った。噂話一つで、仲間はずれにされてしまう。そんな馬鹿みたいな関係に、心の底からしがみついたりしない。私は1人でいないために、彼女たちを利用する。向こうも、似たようなものだろう。
重たい足を引きずりながら、そろそろと帰宅した。家が見える、一日ぶりなのに、何だかすごく久しぶりに感じる。美味しそうな匂い、お腹空いた、ただいまと元気よく帰りかけた真冬の手が止まった。
「真冬はまだ帰らないのか」
「今日あたり帰ってくるわよ。私たちが正しいって分かるわ」
「そうだな、全く、わがままで困る」
扉に触れかけた腕はだらりと下がり、真冬はそのまま回れ右をして、再び駅へと向かい、そして、学校へと戻っていった。
母に、『高校のこと分かってくれるまで絶対に家に帰らない』とメールをして、電源を切った。少し前までは、携帯電話の電源が切れること、充電が切れることが怖くてたまらなかった。友達との連絡にすぐに返事出来ないのが不安で。最新の情報が手に入らず話しに置いていかれるのが不安で。家族からの心配にすぐに答えないと、家に帰るのが憂鬱で。
けど、ちょっと、視点を変えてみたらどうだろう。家族って何だろう。友達って何だろう。
ふらふら、ふらふら、学校の中へ侵入する。真夏が開けていた窓は今夜も開いていた。そのまま保健室へと直行すると、鍵が閉まっていた。そりゃそうだ―真冬は笑いながら、泣いた。
「 」
子供のように泣き叫び、開かない保健室を何度も殴るように叩いた。何度もそうしていると、後ろから肩を叩かれた。
「真冬、ドア、壊れてしまうわ」
「真夏っ」
母親を見つけた幼子のように、真冬が飛び付いた。不思議だ。生まれてからずっと一緒だった家族よりも、中学入学してからずっと一緒だったグループよりも、今ここにいる真夏の存在が尊い。
「今日も帰りたくないの」
「うん、帰りたくない…帰りたくないの…もうやだ…」
「じゃあ、どうする?ここで私と暮らす?」
「…っ、うん」
考えもなく、現実性もなく、何も考えず、ただ、真冬は今ここに真夏と一緒にいることが全てと思っていた。そうとしか、思えなかった。