オレンジ色の金曜日
先輩が卒業して、三か月が過ぎた。
僕は一人でベンチに座っている。
手元には未開封のオレンジジュース。
金曜日はオレンジ色なのよ
先輩の声を思い出す。
僕は、オレンジジュースを売店の袋に戻し、代わりに、紅茶のベットボトルのキャップを開けた。暑い日にはやっぱりこれだ。
こうして座っていると、先輩と過ごした日々を思い出す。
去年の夏の終わり、二人で海を「見に」行った。
先輩は、「海は眺めているだけでも十分楽しいものなのよ」と言っていたけれど、僕は、先輩が単に泳げないだけじゃないのかと思っている。帰る間際になって、貝殻を十個拾わないと帰れないことが判明し(もちろん、先輩の世界的に)三十分に一本のバスを逃してしまった。蒸し暑いバス停で、拾った貝殻をうっとりと眺める先輩を見ていたら、色んなものが帳消しになったような気はしたけれど。
秋には、隣町の公園へ行った。
受験勉強の現実逃避をしたかったのか、先輩が恐ろしくめんどくさい世界を思いついたので、本当に大変だった。詳細は語りたくない。ただ、あの日、僕は一生分の『グリコ』をしたと思う。先輩も密かに後悔してたんじゃないかな。でも、一度思いついたものは先輩といえども取り消すことは出来ないし、遂行しないと(先輩的に)悪いことが起きるから、僕らは汗だくになって公園を駆け回るしかなかった。あんなに大声を出したのは、何年ぶりだろう。
ああ、そうだ。雪見酒…ならぬ、雪見生姜湯をしたこともあった。
「これを飲むと風邪をひかないのよ」なんてことを雪の舞う通学路を歩きながら言われても、あんまり説得力はなかった。まぁ、美味しかったけれど。
時々、先輩はすべて分かってるんじゃないかって思う時がある。
先輩は、本当は世界を作らなくても生きていける人で、これまでのことは全部僕のためにやってくれてたんじゃないかって。
まぁ、そんなことあるわけないんだけれど。
僕は空を見上げた。白い雲を眺めながら、意味もなく足をブラブラさせる。
今朝、ふと思い立って制服を着てみた。卒業前の三年女子じゃあるまいし、かなり恥ずかしかったけれど、出来るだけ堂々としていたら、周りからツッコまれることはなかった。ただ、真山だけは、ニヤニヤしながら僕の姿を上から下までジロジロと無遠慮に見た上「お前、足とか意外に細かったんだな」と言ってきやがった。今までユルイ感じの服ばかり選んでいたから、からかってみたくなったんだろう。嫌なヤツだ。でも、その他のクラスメイト達はごく普通に接してくれたので、ホッとした。
今までの僕なら、ずっと私服で通していただろうし、何かを変えるにしても、きっと周りに『お手本』を探してオロオロしていただろう。もしくは、深く考え込んだまま、部屋から出られなかったかもしれない。いつも『正解』に囲まれていた僕だから、間違っているかもしれない自分の思いを貫くには勇気がいるんだ。でも、先輩を見ていると、世界をひとつ作ってしまうくらい自分の気持ちを大切にしていいんだって思える。もちろん、それが不正解だった時は、責任を取らないといけないけれど。他人の答えに縋って生きるよりは、ずっと良い。
中庭を見渡すと、僕と同じように昼食を取っている生徒がちらほらいる。ここにいる皆ひとりひとりに彼らだけの世界があって、正解・不正解に悩みながら過ごしている。そのことに、僕はやっと…。
「待たせたかしら?」
目の前に、大きな鞄を肩に掛けた先輩が立っていた。
「いいえ。今来たところですよ」
僕は腰を上げてベンチの右側を空ける。売店の袋からオレンジジュースを取り出すと、先輩に差し出した。
「ありがとう」
「休講じゃなかったんですか?」
「図書館に寄っていたの。下りてくるのが大変だったわ。貴方にこちら側に来てもらえばよかった」
「嫌ですよ。文学部棟に行くなんて」
「あら。一年生のうちは“地上”での講義がメインなのよ」
「でもあそこらへん、基本斜面じゃないですか。無理です」
「まぁ、ひどいのね」
そう言って、先輩は頬を膨らませた。
形ばかりの(と言ったら先輩に怒られそうだけれど。ウチは、一応持ち上がり組にもきっちり試験があるから)受験を終えて大学生となった先輩とは、こうして時々昼食を共にする。先輩の世界は進学しても健在のようで、先日は、文学部棟三階で行われる授業に出席するため、なぜか一旦最上階(六階)まで上がってから教室に入ったらしい。さすが、高校を卒業してもブレない。
「昔の貴方だったら、そんなことにでも付き合ってくれたでしょうね」
先輩は笑う。
まぁ、そうかもしれない。あの頃は、先輩といることがすごく新鮮で、なんでも知りたいって思っていたから。
「わたしの世界はわたしのものだし、貴方は貴方の世界で生きるべきだわ」
「ええ、そうですね。今はそれがよく分かります」
「ふふ。素直なのは良いことだわ。やっぱりお姉さま方の元々の躾が良かったのね」
「恐怖政治でしたけれど」
「貴方にとって、お姉さま方からの教育は、有り難過ぎるものだったかしら?」
「いいえ、感謝してますよ。あと、先輩にも」
「あら。わたしはわたしのしたいようにしただけだわ。貴方が勝手に付いてきたのよ」
そうですね。でも…
言いかけた言葉を飲み込んで、僕は先輩の買ってきてくれたサンドイッチを口に運んだ。
「風が気持ちいいわね」
猫のように目を細めて、髪をなびかせている先輩を、横目で見つめる。
大学生になった先輩は、当然のことだけど、もうセーラー服を着ていない。薄手のブラウスにカーディガン、プリーツスカートから伸びる足は素足で、水色のバレエシューズを履いている。先輩との昼食の頻度は、週に一、二度あるかないかだけれど、僕は先輩が同じ服を着ているのを見たことがない。意外とファッションにはこだわりのあるタイプだったのだな、と思う。アクセサリーも結構持っているようだし、制服の時のストイックなイメージとは真逆だ。おにぎりを頬張る(こいういところは子どもっぽいんだけど)先輩の手元をなんとなく眺めていて、僕はふと気付いた。あれ…
「先輩、その指輪、彼氏さんからですか?」
「ええ、そうよ。誕生日に貰ったの」
「へぇ、何年になるんでしたっけ」
「四年かしら。でも、もともと幼馴染だから知り合って十五年以上は経つわね」
「そうでしたね」
「わたしのことより、貴方の方はどうなの?」
「はい?」
「良い感じなんでしょう?あのバスケ部の子と」
「ああ、はぁ、まぁ」
「なぁに、その反応は」
先輩が、意地悪そうな顔をする。
「良い子じゃないの、あの子。わたしは好きよ」
「いや、まぁ、悪いヤツではない、ですけど」
今朝の会話を思い出して、少し、言葉に詰まってしまう。
そんな僕を面白そうに見ながら、先輩は言った。
「ねぇ、前に『久我タイム』について教えてくれたでしょう?」
「え?」
「わたしといると、思い悩み過ぎることがないんだって?」
「ああ、はい」
僕は頷く。
いつ話したんだっけ。
「その解釈は間違ってないと思うわ。貴方自身も納得してるんでしょう?」
「ええ」
「でもね、それだと『久我タイム』は起こらない方が良い、っていうことになると思うんだけど、わたしはそうは思わないのよ」
「どういうことですか」
僕は尋ねた。
「『久我タイム』は、貴方がお姉さま方の庇護を受けるだけでなく、もっと自分自身で考えて行動しようと決意したことから発生したものでしょう。悪いものであるはずがないわ。むしろ、貴方の努力の結晶よ」
先輩は続ける。
「貴方が努力して作り出した『時間』を否定する必要はないわ。大事にしなさい。そして、貴方のことを想って、貴方の『時間』を考察してくれた彼を大切にね。四眞子」
制服姿も似合うじゃない、と言って、先輩は立ち上がり、ベンチの前で伸びをした。気持ち良さそうに深呼吸をする先輩を見て、僕もつられて腰を上げる。
初夏の風が吹いて、僕と先輩のスカートの裾を揺らした。






