木曜日にココアを
「あ、雪」
窓側にいる生徒が、声をあげた。
他の生徒たちも一斉に窓に目を向け、きれい~だの、寒そう~だの、口々に感想を漏らしている。
わたしは、雪なんて興味ありませんみたいな顔をして正面を向いたまま、心の中でたっぷり三十秒数える。その後で、ゆっくりと窓の外に視線をやった。白いものがちらちらと舞っている。
ああ、こういうことをしているから、ひねくれている、とか、可愛げがない、とか言われるのよね。
でも、皆につられて動くのがなんとなく恥ずかしく感じてしまったのだもの。
仕方が無いじゃない。
十二月に入って、制服を着る生徒が増えてきた。
ついこの間まで、制服なんてダサいよね、私服OKでよかった~なんて言っていたくせに、今頃になって母校(予定)への愛着が出てきたらしい。
よく考えたら、制服着られるのなんて高校生までだし、大学入ったらイヤでも私服だもんね。今のうちに制服のオシャレも楽しまなくちゃ。
…何を言っているのかしら。十八年生きてきて、「よく考え」なきゃそんなことも分からないなんて、笑ってしまうわ。藍原ちゃんが一年生の時から制服で通してたのはある意味正解だったかもよ。あたしもそうしとけばよかったかな~。なんて言われた時は、吹き出しそうになったけれど、もちろん我慢した。言い返したいことは山ほどあったわよ。でも、わたしはクラス内で浮くことも、誰かに嫌われることも望んでないのよ。
あの子は何か勘違いしているようだけれど、わたしは割と周りの人からの評価というものを気にする質だ。
朝早く登校するのは、たくさんの人に信号待ちの姿を見られたくないからだし、非常ベルを押してみたいとか、進入禁止の屋上に上ってみたい…とは思ったことはあるけれど、もちろん自制できる。別に、人と違うことができるわたし、を見せつけたいわけじゃない。
わたしの世界なんて、そんなものなのよ。
今日は、午後一番目の授業を丸々潰して『お説教会』があるから、あと十五分もしたら移動しなくちゃいけない。こんな時期に、授業を潰してまでするべきことなのかしら。去年の三年生と比べてどうとか、模試の全国平均がどうとか、悪いことばかり言うんだもの。こんなので士気が上がるとでも本気で思っているのかしら。
わたしは、大きくため息をついた。
もしわたしが、あの子が思い描いているような、周りの目を気にせず自分の考えを貫き、堂々と行動できる人間であったなら、こういう時どうするかしら。きっと『お説教会』なんて投げ出して、ココアを買いに行くでしょうね。冬の木曜日はココアが似合うわ。そして、雪の降る中庭で空を見上げながら一息つくの。…想像していたら、なんだか飲みたくなってきた。今から買いに行こうかしら。
わたしはもう一度時計を確認してから、教室を出た。
*
廊下を歩きながら考える。
初めは、幼稚園の時だったかしら。
朝、マンホールの蓋を全部踏んで行ったら、工作の時間に先生に褒められた。それから、毎日マンホールを見つけては、蓋を踏みつけていた。雨の日に滑って転んでけがをしてからはすぐにやめてしまったけれど。あの蓋って、結構滑るのよね。階段を右足で上りきりたくて、上段付近でまごついてしまったり、日記帳を入れた引き出しにちゃんとカギをかけたか不安で、家まで引き返したこともある。道路に埋め込まれたボタン状のアレ(名前はなんていうのか知らないけれど)を数えながら歩いて、知らない道に迷い込んだこともあるわ。靴屋さんでひとめぼれをして買ってもらったスニーカーを初めて履いていった日に、友達と喧嘩をしてしまって、「もう履かない!」って投げ出したこともあったわね。…これはちょっと違うかしら。曜日ごとに、お昼の飲み物を決めているし、自分の決めた目的のためならば、三十分の坂道も厭わない。中学生の頃、受験勉強の最中に、ふと、近所の公園に行きたくなって、我慢できずに深夜こっそり家を抜け出したこともある。だって、そうしなきゃ受からないと思ったのだもの。
これがわたしの世界。
…なんて、小さな世界なのかしら。
それって、ジンクスとか縁起とか気にしちゃう系ってこと?
これをしないと悪いことが起きちゃうかも、って思いこんじゃう、みたいな。
幼い頃からの友人はこう言う。
確かに、わたしの行動をそう解釈する人もいるだろうと思う。
結局のところ、わたしは自分に自信がないのだ。
だから、自分の行動にいちいち理由をつけてしまう。ここまでしたんだから、自分の考えは間違っていないって思いたいのだ。
アップルティーを飲んだから、午後の授業も乗り切れる。朝、誰も立ち止まることのない信号を待つことができたら、今日一日辛いことなんて起こらない。わたしはわたしの世界をこんなに守って生活しているんだから。
大丈夫。
きっと大丈夫。
って、
そう思っていたいのよ。
そろそろ昼休みも終わりに近づいているので、売店には誰もいなかった。
自販機でココアを買い、少し迷ってから缶の蓋を開けた。自販機の横のソファに腰を掛け、一口飲む。猫舌のわたしには、最初の一口目はただただ熱いだけだ。口の中を温めるためにほんの少しだけを飲み込んでから、熱を手のひらに移すように両手で缶を転がしていく。しばらくしてから、ゆっくりとココアを口に入れると、しっとりとした甘さが体中に広がった。そこで初めて美味しいと感じることができる。
ふふ。なんて面倒なのかしら。
わたしは、小さく呟いた。
そう。
そうなの。
普通、わたしのような、自分だけのこだわりに縛られている人間は、煩わしいと思われてもしょうがないものなのよ。
あの子が、わたしの世界のことをどう思っているのかは知らない。
最初の日こそ驚いていたけれど、すぐに受け入れてしまったようだった。たまに世界ありきで話を振ってくるし、自分にもそれを当てはめてくれ、なんて言ってきたこともある(もちろん断ったけれど)。あの子の柔軟性というか、他人に対する許容範囲の広さには本当に感心してしまう。かといって、ぐいぐいと強引に近づいてくる感じもないし…。一体どんな家庭環境で育ったのか不思議だわ。
不思議な子、と言えば、去年の今頃見かけた中学生を思い出す。
その日は学校が早めに終わって、折角だからと友人たちと買い物に出かけた。歩き回って疲れて、最後にコーヒーでも飲もうかとファストフード店に入った。しばらくお喋りしていると、中学生のグループがやって来た。
わたしは最初、その子は無理やり連れてこられたのかと思っていた。男女合わせて六人ほどのグループの中で、その子だけ無表情だったから。皆楽しそうにしているのに、一人だけ、どこか遠くを見ているから、クラスメイトに強引に誘われて、断り切れずに来てしまったのだとしか思えなかった。でも、グループの中の男の子がその子の荷物を持って席に座らせ、女の子が代わりに注文をしてあげているのを見ると、悪い子たちじゃないみたいだし…。わたしは友人たちと会話しながらも、ちらちらと彼らの様子を見ていた。
彼らが食べ始めて少し経った頃、上の空子(勝手に命名)が、はっとしたように目を見開いた。道に迷った時のように、周囲をきょろきょろと見回している。上の空子の隣に座っていた女子が、何かを言いながら、上の空子にドリンクを渡した。上の空子は照れたように頭を掻くと、それを受け取る。
たったそれだけ。
たったそれだけで、上の空子は何事もなかったかのように仲間たちの会話に加わり、笑い声をあげていた。
あれは、何だったんだろう。一年経って、もう上の空子の顔も思い出せないのに、わたしは今だに考えてしまう。
店内に入ってきた時のあの表情。ただぼんやりとしていたんじゃなくて、何かをずっと考えていたようにも見えた。退屈な授業の最中や、電車の中で時間潰しにぼんやりとしているのとも違う。どこか違う場所にいるような、そんな目をしていたの。考え過ぎかしら。
上の空子にどんな事情があるのかは分からない。でも、上の空子には、手を引いてここまで連れてきてくれて、飲物を手渡してくれる友人がいるということは確かだ。
あの時のわたしは、それがとても羨ましかった。
今、どうしているのかしら。また会えたら良いのだけど。
ココアを半分ほど飲んだ時、ポケットの中でスマートフォンが光った。
-もうすぐ昼休み終わりますよ
-知ってるわよ
-今日もお説教会なんでしょう?早く移動しないと
-貴方、今どこにいるの
-美術室です。移動の時、先輩が売店の方に行くのが見えたんで
―あら、そうだったの
―サボるつもりですか
―そうかもしれないわね
―嘘ですね
―どうしてそう思うの
―だって、先輩はそんなことしないでしょう?だから今、そこにいるんじゃないですか
わたしは、返信をせずにスマートフォンをポケットに入れ、立ち上がった。
残りのココアを一気に飲み干す。
売店を出ると、雪はやんでいた。痛いように冷たい風が吹いている。制服の上に羽織ったカーディガンをかきあわせながら歩く。
数メートル先に講堂へ向かうクラスメイトの後姿を見つけて、わたしは走り出した。