先輩のいない水曜日
さて、ここで僕の生い立ちについて考えてみよう。
僕には姉が三人いる。
両親が「ウチは三姉妹で終わり」と思っていたところに、うっかり現れた四人目だったので、姉たちにそれはそれはおもちゃにされた。両親は「お姉ちゃんたちよろしくね」と言って、念願だった海外勤務へ向かった。
弟が欲しかったという姉たちは、既に十分短かった僕の髪を猿の如きベリーショートにし、三姉発案のリアルおままごっこでは、僕に家事を手伝わないダメ夫役をさせた。かと思えば、次姉デザインのフリフリドレスを着せられることもあった。まさにアイデンティティぶれまくりの毎日。いや、育ててくれたことにはもちろん感謝している。年が離れていたとはいっても、当時高校生になったばかりだった長姉とって、末っ子の世話は負担でしかなかっただろうし。姉たちには頭が上がらない。僕が結婚するときには、両親だけでなく、姉たちにも手紙を読むべきだろうと思っている。
まぁ、未来の話は置いておいて。
そう、僕を育ててくれた姉たちは完璧だった。
それがいけなかった。
学生として、家族として、娘として完璧な姉たちがいたことで、僕は考えることを放棄した。自分の考えなんてなくたって、姉たちを見ていれば間違いなかったし、姉たちのように行動していればすべてが正解だった。何の努力もせずに、僕は「久我さんちの末っ子ちゃんはいい子だね」と言ってもらえた。本当は全然意味なんて分かっていないけれど、姉たちの横でしたり顔で笑っていれば、「賢い子」って言われて、すべてがOKだった。
ああ、なんて楽勝な僕の人生!
なんだかおかしいと感じ始めたのはいつだっただろうか。
そうだ、彼女に会ったときだ。
隣町に住む従妹に会いに行ったあの日。従妹の友人だという彼女に出会った。
「だって、わたしがそう決めたんだもの」
どういう経緯だったのか、はっきりとは思い出せない。
たしか、彼女が何か不思議なことをしていたんだった。もしかしたら、彼女だけのおまじないか何かだったのかな。年の離れた姉たちと過ごす時間が多かったせいか、僕は同年代の子供のノリというものについていけないことがよくあった。マンホールの蓋を必ず踏んで帰るとか、石蹴りしながら学校へ行くとか、姉たちは既にそういった遊びは卒業していたから。クラスメイトに「タイルの白いところを歩いて行かないと落っこちちゃうんだぜ」と言われた時には、本気で「どこに落ちるの?」と聞いたものだった。だから、僕はあの時も従妹の友人である彼女に「どうしてそんなことをしているの?」って聞いたんだった。
わたしがそうきめたんだもの
それまで僕は、自分で決めたことなんて何一つなかった。
貫きたい意志なんて持つ必要がなかった。
姉たちを見ていればそれで良かった。
でも、それでいいのか?
姉たちの生き方をトレースすることで、平和な日々を送ることができたとしても、それは僕の人生じゃない。
自分の考えがないっていうのは、とても恐ろしいことなんじゃないか?
それから、僕は『正解』に頼りきりになることはやめた。
でも、いつまでたっても、あの少女のように、まっすぐな瞳で「自分が決めた」と自信をもって言うことは出来なかった。
*
「久我、お前、あの不思議ちゃん先輩と仲良いのか」
学食でうどんをすすっていると、声を掛けられた。
顔を上げると、トレーを持ったクラスメイトが、テーブルを挟んで向かいに立っている。
「真山」
「ここ、いいか」
僕は無言で呟いた。どうぞ。
真山はトレーをテーブルに置き、椅子に座った。小さく「いただきます」と呟くと、ササミチーズカツ定食を食べ始める。
「お前、うどんって地味なチョイスだな。それで足りんの?」
「ほっとけ」
一年生ながらバスケ部でバリバリ活躍するようなお前とは違うんだよ。
十月も下旬になると、だんだん肌寒い日が増えてきた。うどんというのは、まさにこれからの時期にはぴったりのメニューだと僕は思っている。
「で?」
真山はカツを銜えたまま、上目遣いにこちらを見た。
「で…って、何が?」
「だから不思議ちゃん先輩だよ」
「なにソレ」
「俺が付けた」
真山はニヤリとする。
いやいや、センス皆無だし。
「で、どうなんだよ」
真山はしつこく聞いてくる。
「仲良いっていうか、まぁ、昼一緒に食べたりはするけど」
「付き合ってんのか」
ぶっ。
僕はうどんを吹き出した。なんでそうなる。
「お前ら見てると、周りにでっかい花が飛んでるぞ」
「…白?」
「ああ」
真山は頷く。
「やめてくれ。そんなんじゃない」
僕はうんざりしてしまう。
「そんなことを聞きに来たわけ?」
「どうしてあの先輩と親しくしてるのか、気になるだけだ」
真山は、ご飯を頬張りながら言った。大盛にしてあった茶碗の中身は、既に半分に減っている。早いよ。
真山の食欲に当てられてか、これ以上うどんを食べる気になれなくて、僕はコップを持って席を立つ。水を入れて戻ってくると、真山が僕のうどんを食べていた。ササミチーズカツはほとんどなくなっている。
「ちょっと何やってんの」
僕は慌ててうどんの器を取り返す。
「え?だってお前もういらないんだろ?」
真山はきょとんとしている。
周囲を見回すと、食堂のあちこちから刺々しい視線を感じる。
ああ。遅かったか。
てか、そんなに睨んだら、きれいにメイクしたお顔が台無しですよ、お嬢さん。
「真山、現在進行形で変な誤解されてるんだけど」
先輩との仲をあれこれ言われるより、こっちの方が嫌だ。
「スマン。俺モテるからなぁ」
真山はのんびりした口調で言った。
こういうところがコイツの短所だと僕は思っているけれど、他の女子から見ると逆らしい。信じられん。
「まぁ、安心しろ。お前は俺のタイプじゃない」
「それは こ っ ち のセリフだ」
僕を修羅場に巻き込むつもりか。
「真山は何なの。ひとの昼休みを邪魔しに来たわけ?」
僕は真山を睨みつけたが、奴は気にせず残りのカツを食べている。
「まぁ、ここで話しづらいっていうなら、他んとこ行こうぜ。人が少ないとことか」
「ここでいい」
僕は即答した。
なんだよ。人気のないところって、ますます状況が悪化するだろうが。
「そうか?じゃあ続けるけど、お前はフツーに年上の友達的な感じであの先輩と仲良くしてるのか?」
「友達っていうか…」
僕が先輩と行動を共にする理由。
それは先輩の世界に興味が興味があるからだ。
先輩の傍に居て、その世界を覗いていると、なんだか視野が広くなったような、心が軽くなったような気がする。
あの信号待ちの時のように。
高台でアップルパイを食べた時のように。
そう。
今になって、小学生の頃のあの『遊び』の面白さに気付いたのかもしれない。
『白線を外れたら落ちてしまう』
『まだら模様の猫を見つけたら、幸せになれる』
その意味を、やっと分かりかけている。
どう説明すべきか分からず、答えられないでいると、定食をたいらげて持参した惣菜パンに取り掛かっていた真山が言った。
「お前、あの先輩と居る時『久我タイム』に入るか?」
「え?」
そう言われて初めて気が付いた。
初めて会った日は別として、僕は先輩の前で上の空になったことがない。
どうしてだろう。
「久我」
黙り込んだ僕に真山は言った。
お前が『久我タイム』に入るのはさ、「考えてる」からなんだよな。
お前は昔、自分自身で考えるということを放棄してた時期がある。
だから時々、不安になるんだろう。
今のこの状態は自分で選んだ結果なんだろうか、自分は正しい位置に立っているんだろうか、ってさ。
時々、自分の後ろを確認しないと前へ進めないってワケさ。
年上ばかりに囲まれて育ったってことも関係あるんだろうが、久我、お前は優しいよ。
いや、優しいっていうのは違うな、そう、許容範囲が広いんだ。
周りの意見を受け入れることに抵抗がない。
俺らくらいの奴は、人前で素直に振る舞うのが恥ずかしいって思ったり、必要以上に天邪鬼になったりするもんだ。反抗的っていうかさ。お前にはそれがない。何でも「ああ、そうなんだ」って納得してしまう。 お前のことのんびり屋とか、おっとりしてるとか言う奴もいるけどな。
お前があの先輩と居る時に『久我タイム』にならないのは、お前の意志が揺るがないからだ。
お前はお前自身の考えであの先輩と一緒にいる。
「これでいいのかな」なんて思う余裕もないほどに。
…あの不思議ちゃん先輩のどこにお前を惹きつけるもんがあるのか、俺には分からねぇけどな。
でも、そういうことなんだろう?
*
食堂を出ると、冷たい風が頬に当たった。
残り少ない休み時間を教室で過ごすのももったいないような気がして、僕は中庭へと向かった。
冷えたベンチに腰を下ろして、意味もなく足元を見つめていると、ポケットの中のスマートフォンが光った。
-食事は終わったのかしら
-終わりましたよ
-これからお説教会なの
―お説教会?
―貴方も受験生になれば分かるわよ。その時には暇つぶしの道具を用意しておくことね
―漫画とか?
―放課後、貴方だけのお説教会が始まるわね
―それは困りますね
-楽しそうじゃない
―先輩
先輩。
先輩。
―今日は石を蹴りながら帰りませんか
-あら、子供みたいなことを言うのね
―ダメですか
―ダメよ
―今日は鬼ごっこって決まっているもの