信号待ちの火曜日
僕が初めて先輩を見たのは、高校に入学して一か月と少し経った、五月の最後の火曜日だった。
僕の通う学校は、山を切り拓いて建てられた私立校で、高等部と大学部が併設されている。
ちなみに、ど田舎県。
あらゆる都道府県ランキングでは、ほぼ最下位。ネガティブな内容の時だけ、ぶっちぎりの上位。まぁそんな県。森林をバックに無駄に近代的な校舎がそびえ立っているのは、ものすごく違和感があって、一か月通っていても慣れない。
しかも、田舎県ゆえに商売っ気というものが無いのか、周囲には喫茶店ひとつ見当たらない。教師・生徒たちは、最寄駅を降りたら、寄り道もせずにまっすぐ構内に入っていく。喉が渇いても、腹が減っても、友達とダベりたくても、学校の敷地内に入らなければ、何もできないからね。
車もほどんど通らないから、通学路は歩行者天国状態。「授業メンドイ~」「眠い~」なんて言いながら、何人も横に広がってだらだら歩いている。もちろん信号無視は当たり前。特に、校門前にある横断歩道の存在なんて、みんな忘れているんじゃないだろうか。かく言う僕も、校門前を含め、通学路にある信号の色を確認したことはない。いや、正確に言えば、受験の日と、入学式の日だけはちゃんとしてた。新学期が始まったら、上級生たちの様子から色々察して、すぐに止めてしまったけど。
家の周りとか、ちゃんとしないといけないところでは、交通ルール守ってるし、別に良くない?みたいな。
みんなそんなもんじゃないの?
…そうだよね?
*
ああ、はいはい。先輩の話だった。
そう。
五月の最終火曜日。
僕は、珍しくいつもより早く目が覚めた。
二度寝をしようかとも考えたけれど、なかなか睡魔が戻ってこなかったので、いつもより一本早い電車に乗ってみることにした。ちなみに、田舎における「一本早い」って言うのは、三十分から一時間位前の電車のことを言う。どうだ、すごいだろう。…少し虚しくなった。
駅を出て、しばらく歩く。
いつもはガヤガヤと煩いこの道も、この時間だと数えるほどしか人がいない。遠くにポツポツと人影が見えるかなって感じ。朝練があるような連中はさらにもう一本早いんだろうか、今更出遅れた感があるけれど、僕も何か文化部くらいには入っておいた方がいいのかな、なんてことをぼんやり考えていると、見知らぬ通りを歩いていることに気づいた。どうやら道を間違えたらしい。いつもは人の流れに身を任せてなんとなく歩いていたからなぁ。恥ずかしい、この年になって一人で学校に行けないなんて、笑い者になってしまう。
僕は、辺りを見回し現在地の見当をつけると、三つ目の角を曲がった。しばらくすると、見慣れた景色が見えてきたので、僕は、ほっと息を吐いた。あとはこのまま川沿いを進んでいけばいい。ちょうど数メートル離れたところに、生徒らしき後姿が見えたので、勝手に道標にさせてもらうことにする。これで安心。水の上をのんびり泳ぐ白鳥を眺めながら、僕はまたとりとめのないことを考え始めた。
時と場所を選ばす物思いにふけってしまうのが僕の悪い癖で、知り合ったばかりの人間には大抵引かれてしまう。会話の途中で急に黙り込んでしまったりするのだから、事情を知らない人は驚く。申し訳ない。それでも、これまでの人生でいじめられることもなく、むしろイジられキャラとしての地位を確立できたのは、ひとえにこの見た目のおかげだ。「四眞、アンタって、ザ・無害って顔してるわよね」というのが、一番上の姉の弁。「絶対に敵にはならないって分かるから、安心できるのよね」というのは、二番目の姉の言葉。「味方にするにはめちゃくちゃ頼りないけどね」というのは、三番目の姉が言った…ただの悪口だな、これは。
とにかく、僕は悪癖持ちの身でありながらも、平和に過ごしてきたというわけだ。親しい友人たちは、僕が黙り込むと、「はいはい『久我タイム』が始まったぞ~」と、放っておいてくれる。中学校時代、放課後の教室で空想の世界に旅立ってしまった僕に帰り支度をさせ、当時たまり場にしていたファストフード店まで連れて行き、さらに注文までしてくれた時は、真の友情を感じたものだ。今のクラスではまだ親友と呼べる存在は居ないけれど、僕の『無害空想キャラ』はそこそこ受け入れてもらえているようだし、まあまあ楽しい高校生活が送れるんじゃないかな。それから…
「痛、…」
いつの間にか、よそ見をしながら歩いていたらしく、何かにぶつかった。慌てて前を向くと、僕の胸のあたりに、誰かの後頭部がある。どうやら、道標にしていた前方の生徒に、追いついていたらしい。
「あ、っと、ごめん」
咄嗟に謝ったけれど、実を言うと、その時僕は、自分が悪いとは思っていなかった。そりゃ、よそ見してたのも悪いけれど、そっちが急に立ち止まるからいけないんじゃないかなって。というか、こんなところでどうして止まるんだよ。
「こんなところだから止まるのよ。当たり前でしょう」
少し低めの声が聞こえたかと思うと、前方の生徒が振り返った。やば、聞かれた?
学校指定のセーラー服を着た、おかっぱ頭(ショートボブ?って言うのかな)の女子が、僕を見上げている。
「いや、こんなところって…」
道端で立ち止まるのは危ないだろ…そう言おうとして、ここが横断歩道の前であることに気付いた。
「赤信号で止まるのはいけないことかしら?」
「いや、ごめん」
「分かれば良いのよ」
女子は、僕に背を向けた。そのまま女子を追い越して先を行っても良かったけれど、なんとなく歩き出しそびれて、僕は女子の隣に並んだ。
横目で様子を窺うと、女子のまっすぐ切りそろえられた髪が、太陽の光を受けて、つやつやしているのが分かった。式典時以外は私服登校OKなのに、入学式が終わった今でも制服を着ているなんて、真面目な子なんだな。
ああ、そうか。この子は知らないのかもしれない。
「ねぇ」
僕は、女子に声を掛けた。
「何かしら」
女子がこちらを向いた。
「…あのさ、毎日この時間に来てるの?」
僕がそう尋ねると、女子は頷く。
「ええ、そうよ」
やっぱり、思った通りだ。
こんな人通りの少ない時間帯に登校しているのなら、ウチの学校の生徒だったら誰でも知っている『暗黙のルール』を知らなくて当然だ。
「あのさ、この信号、みんな守ってないよ。だから、別に律儀に待たなくても大丈夫だよ」
女子の顔を軽く覗き込みながら、僕は言った。あれ、よく見たら結構可愛いなこの子。どこのクラスなんだろう。
「自分も最初は信号待ちしてたんだけどさ、先生や大学部の人とかもほとんど電車で来てるから、ここらへん、あんまり車通らないんだよね」
よく考えたら、朝からクラスメイト以外の子と話をするなんて貴重な体験だ。
僕は自然と早口になる。
「だから、気にすることないからさ…」
「ええ、知っているわ」
急に遮られて、僕は動揺した。
「え?」
僕は女子の黙って横顔を見つめることしかできない。
「だから、知っているわ。でも、これがわたしの世界なの」
女子は、横目でちらりと僕の方を見た後にそう言った。
は?
ルール?
「え、と、…いや、たしかに規則は守るべきだけどさ」
僕はしどろもどろになりながらそう言った。
「貴方の言いたいことは分かるわ」
だけど、と、女子は続ける。
「わたしにはわたしが決めた世界があって、わたしはそれを守って生きているの。誰かに分かってもらうつもりもはないし、強制するつもりもない。だから貴方はこのまま行くと良いわ」
バッサリ、という音は、こういう時に聞こえるんだろうか。これまで何百回も同じことを言ってきました、みたいな感じの口調に、僕は一瞬固まってしまう。
軽い気持ちで声を掛けた初対面の相手に、こう返されるとは思わなかった。もし僕がナンパ男だったとしたら、心が折れているだろうな。
でも、不思議と嫌な感じはしない。ここまで自信をもって自分の考えを言えるなんて、僕からしたら羨ましい限りだ。
「あら、行かないの?」
「いや、あの、まぁ、あとちょっとで青になるなら、待つよ」
僕がそう言うと、女子は、珍しいものを見た、という様に、大きく瞬きをした。
「そう。貴方がそれでいいのなら」
僕は、そのまま女子の横に留まることにした。少し、気まずいけど。
ああ、これはあれだ。エレベーターに乗った時、手持無沙汰になってつい階数表示の部分を凝視してしまうっていうあの状態。まさか信号で同じことをすることになるとは思わなかった。僕は、そわそわと落ち着かない気持ちで信号を見つめた。
「な、長いね」
いつも素通りしていたから、こんなに時間がかかるものだとは思わなかった。
「あと少しよ。ここは時間がかかるの」
ほら、と女子が信号を指差した時、赤いランプが消えた。
「さぁ、行きましょうか」
うっすらと微笑んで僕の方を見た後、女子は颯爽と横断歩道を進んでいく。その姿をぼうっと見ていた僕は、慌てて女子の後を追った。
白線の上に足を踏み入れた途端、
あれ。
一瞬。
身体がふわっと軽くなったような感覚がして、僕は思わずその場に立ち止まった。
「どうしたの?」
横断歩道を渡り切った女子が、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「え、あ、いや」
僕は軽く頭を振ってから、女子の元まで行く。
「なんでもないよ。大丈夫」
とりあえず笑顔を作ってみせると、女子は怪訝そうな表情をして「それならいいけれど」と前を向いた。
「あともう少しよ。行きましょう」
僕は上の空で頷いた。
*
女子について歩きながら、僕はさっきの妙な感覚について考えた。
身体が浮くようなあの感覚。
ちょっと照れくさいような。
でも、誰かに言いたいような。
あれはきっと、たぶん、僕の中の「罪悪感」が消えた瞬間だったんだと思う。
僕は、自分が真面目な人間だとは思っていないし、一か月間信号無視をしていたくらいで心が痛むほど繊細じゃない。
でも、なんていうか、やっぱりモヤモヤとしたものは溜まっていて。
毎日、人の波に流されながら白線の上を歩くたびに、心のどこかで「これでいいのか」と思っていた。
かといって、大勢の生徒たちの前で一人立ち止まる勇気もないし。
ああ。いつから僕はこんな風になってしまったんだろう。他の誰に何と言われたって、どう思われたって、自分の気持ちに従えばいいだけなのに。
そう。
僕の前にいるあの子のように。
もうすぐ、最後の横断歩道が見えてくる。
「ねぇ!」
僕は女子の背中に声を掛けた。
ちょうど、点字ブロックの手前で、女子は振り返る。
「何かしら」
「あの、最初君のことすごく変、っていうか、変わっている人だなって思ったんだけど、こうして一か月ぶりに信号を待ってみて、なんだかすごく気持ちが楽になったっていうか…。だから、これからはそうしてみようかなって…」
だから…
*
「どうしたの?具合でも悪いの?」
急に腕を掴まれて、はっと目が覚めた。
「え。あれ…?」
ここどこだっけ?
「何度も声を掛けたのよ。貴方、ずっと黙っているんだもの」
僕は周囲を見回した。
十メートルほど先に、校門前の信号が見える。
ああ、これは『久我タイム』だ。
僕はがっくりと肩を落とす。
俯いてしまった僕を見て何か勘違いしたのか、女子が僕の額に手を伸ばしてくる。
「あああああ、あの、大丈夫なんで!」
僕はさりげなく距離を取った。
「保健室に行った方が良いわね。ああ、今の時間なら大学部の保健センターの方が良いかしら。去年行ったことがあるから、案内するわ」
さぁ、行きましょう、と言われて、僕は焦った。「わが道を行く」的な発言から、クールな感じの子かと思っていたけど、女子は結構親切な性格のようだ。
「あ、わ、ちょ、ちょっと待って。本当に大丈夫!大丈夫だから」
腕を引っ張ろうとする女子を何とかかわして僕は言った。まさか、初対面の子に『久我タイム』の話をするわけにはいかない。
ああ、ここに中学時代の友人か、せめて同じクラスの子がいないことが悔やまれる。厄介だな『久我タイム』。今までフォローありがとう。そして、これからもよろしく。
…って、
え、ちょっと待った。
「“去年”…?」
「そうよ。そんなに遠くないから。ほら、正門から入って…」
「え、いやいや、ちょ、ちょっと待って…下さい」
あの、つかぬのとをお伺いしますが…。
「何年生…さん、ですか?」
「三年よ」
マジですか。
「スミマッッッッセン」
僕は、勢いよく頭を下げた。
「せ、先輩でいらっしゃるとは気づかず、大変ご無礼ツカマツリ…」
姉が三人いるせいで、僕には『年上女性には絶対服従』の精神が刻み込まれているのだ。
九十度の礼をしたままじっとしていると、僕の頭上で「ふふ」と声が聞こえた。
「顔をお上げなさいな」
おそるおそる身体を起こすと、女子、いや、先輩と目が合った。
黒い、大きな瞳。
「貴方、面白い人ね」
先輩はそう言って、ふわりと微笑った。
遠くで青信号が点滅し始めたのが見えたけれど、僕は、中途半端な姿勢のまま、しばらくその場を動けなかった。
*
これが僕と先輩との…、ああ、いや、そうじゃない。
まだ続きがあるんだった。
*
体調不良疑惑と『久我タイム』について、何とか誤魔化すことに成功した僕は、再び先輩と並んで歩き出した。
ほとんどの生徒が私服なのになんで制服なんですか(おかげで、入学したての一年生だと思った)、とか、色々聞きたいことはあったけれど、知り合ったばかりの上級生に突っ込んで良い内容なのか分からず、ひとまず黙っておく。まぁ、信号をしっかり守るほどの人なら、真面目に制服着ててもおかしくないか。
校門前の横断歩道が近づいて来たので、僕は歩くスピードを緩めた。ここは赤信号どのくらい時間かかるかな、と思っていたら、
先輩が、僕を 追 い 越 し た 。
すたすたと横断歩道を渡っていく。
…赤 な の に 。
「え?」
「どうしたの?立ち止まって」
え。
「ええええええええ!!!」
思わず大声を出す僕。
「どうしたの。そんなに大きな声を出して」
「いやいやいや、今、ここ赤ですけど」
周りにどう思われようとも、正しいことをしようっていう、そういう精神のもと行動してるんじゃないんですか?え、そういうことじゃないんですか?
「赤…?」
先輩は、きょとんとした顔で信号を見上げ、そして言った。
「あら、ここに信号なんてあったのね。気 付 か な か っ た わ 」
*
これが、僕と先輩の世界との出会い。
自分一人だけの世界を持つ僕と、自分の決めた世界で現実を生きる先輩。
これは、そんな二人の物語なのです。