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月曜日はアップルパイ

 

 先輩には、世界ルールがある。



「アップルティーが売り切れだったのよ」


 何か飲み物買ってこなかったんですか、という僕の問いに、先輩はそう答えた。口の中の水分を全ておにぎりに奪われてしまったようで、その声はものすごく聞き取り辛かった。


「お茶を買えばよかったじゃないですか。おにぎりなんだし」


 僕は、ベンチの上に置いたビニール袋の中から緑茶の入ったペットボトルを取り出して、先輩に差し出した。


「ダメよ」


 先輩はパッサパサになった口を何とか動かしながら言った。


「わたしがいつも月曜日にアップルティーを飲んでいることは、知っているでしょう?」


 もちろん知っている。

 おにぎりを食べようが、パンを食べようが、先輩は、週の初めには必ず同じものを飲んでいる。

 こうして昼休みに一緒に昼食を取るようになって何週間も経つけれど、それはいつも変わらない。

 某英国紳士の名を冠した紙パックが先輩の手元にないのは、確かに違和感があるけれど…。 


「売り切れだったのならしょうがないでしょう。今日は別のものを飲んだらいいじゃないですか」


 先輩は頬をリスのように膨らませて、真剣な顔をしておにぎりを食べている。水分がないから飲み込み辛いのだろう。よく見ると、唇に黒いものが貼り付いている。


「先輩、海苔付いてますけど」 


「こういう時は見ない振りをするのがマナーじゃなくて?」


「時間が経ってから自分で気づく方がいいんですか?」  


「…」


 先輩はハンカチを取り出して、そっと唇を拭った。

  

 先週あたりから、随分日差しが強くなった。半袖から伸びる腕が、少しヒリヒリするような気がする。

 中庭での昼食も、そろそろ終わりにした方がいいのかもしれない。空き教室でも探しておこうか、なんてことをぼんやり考えていると、おにぎりとの格闘を終えた先輩が「少しもらうわよ」と言って、緑茶のペットボトルを手に取った。あ、飲むんだ。


「食事が終わった後だからいいのよ」


 僕の視線に気付いた先輩が、早口でそう言って、ぷいとそっぽを向いた。耳が赤くなっている。

 いや、別にいいですけどね。好きなだけ飲んでください。


「前に、話したでしょう?」


 喉を潤した先輩が、ペットボトルの蓋を閉めながら言った。


「何ですか?」


「曜日の色のこと」


「ああ、はい」

 

 各曜日には『先輩的イメージカラー』があるという話を以前聞いたことがあった。

 

「確か、月曜日は」


「赤よ。だから、わたしはいつもアップルティーを選んでいたのよ」


 そういうことだったのか。


「だから、売り切れを知ったときは、どうしようかと思ったわ」


「トマトジュースを買えばよかったんじゃないですか」


 同じ赤でしょう、と僕が言うと、先輩は気まずそうに顔を伏せた。…もしかして。


「先輩、トマト嫌いなんですか?」


「ち、違うわ。だた、好きじゃないだけよ」


「それは嫌いってことでは…」


「わ、わたしはアップルティーがいいのよっ。トマトじゃダメなのよ」


「はいはい」


 僕は、笑いを堪えながら言った。

 ここで吹き出してしまえば、先輩はへそを曲げてしまうだろう。もう一緒に昼食を取らないとか言い出すかもしれない。それは困る。


 僕は、先輩と、先輩の世界ルールを見守ると決めたのだから。

 

「でも、何か買わないと、喉が渇いてしまいますよ」


「ええ、そうなの。だから、今日は非常時ということにして、お水でも買おうかと思ったのよ。でも…」


「何かあったんですか?」


「お水を持って、レジに並ぼうとしたら、声が聞こえてきたの。たぶん、隣のクラスの人たちじゃないかと思うんだけど、昨日の英語の小テストが返ってきた、って言っていたわ」


「それで?」


 僕は続きを促した。


「わたしのクラスでは、その小テスト、今日受けることになっているのよ」


「なるほど」


 話のオチが見えてきた。


「その時ね、ふと思ったの。もし、ここで水を買ったら、テストで悪い点数を取ってしまうんじゃないかって。だから、やめたのよ」


「そうだったんですか」


 僕は頷いた。

 思った通りだ。

 僕はしばらく考えた後、先輩に言った。


「先輩の気持ちは分かりますけど、今の時期、水分を取らないと身体に悪いですよ。今度、そういうことがあったら言ってくださいね。代わりに買いますから。それならいいでしょう?」


「そうね。気を付けるわ。

 ありがとう」


 と、先輩は言った。   


 *

 

「アップルパイを食べようと思うの」


 ホームルームが終わって教室を出ると、仁王立ちの先輩がいた。 

   

「アップルパイなのよ」


 先輩は繰り返す。いや、ちゃんと聞こえてますけども…。

 帰り支度を終えたクラスメイトたちが、制服姿の先輩を、不思議そうな顔で見ている。僕と先輩を見比べながら、ニヤニヤしている男子がいたので、口パクで「さん・ねん・せい」と告げてやると、彼は一瞬目を見開いて、先輩に目礼し、足早に去っていった。さすが、体育会系気質。

 

 先輩との関係を聞かれたら、僕は困ってしまうから助かった。


「なんでアップルパイなんですか?」

 

 先輩の後を付いて廊下を歩きながら、僕は言った。


「先輩、前にパイ系は苦手だって言ってませんでしたっけ」


「苦手なんじゃないわ。あまり食べたいと思わないというだけよ」


 そういうのを苦手だって言うんじゃないだろうかと思ったけれど、黙っておく。

 校舎を出ると、先輩はまっすぐ校門へ向かった。


「え、売店に行くんじゃないんですか」


「大学部の方のショップに行くのよ」


「それなら、西門から行きましょうよ」


 西門は、高等部と大学部を繋ぐ道の間にあって、正門まで回るよりも近道だ。


「ダメよ」


 先輩は、くるりと僕の方を振り向いた。


「そう決めたのだから」


「はいはい。分かりました」


「面倒なら来なくてもいいのよ」


「いえ、行きます。そう決めているんで」


 僕がそう言うと、先輩は面白そうに目を細めた。


「そう。じゃあ、行きましょう」 


 ふと思いついて、歩き出した先輩の背中に声を掛けた。ねぇ、先輩。


「…もし、そうしなかったら、どうなるんですか?」


 先輩は、再び振り向いて、にっこりと笑う。


「貴方の上に、隕石が落ちるわ」


 *    

 

 うちの学校は、高等部と大学部が併設されているのだけれど、元々山だった所に建てられたので、棟から棟への距離が遠い上に、基本道は坂になっている。特に大学部は、敷地が広く、ちょっとしたハイキングコースだ。大学部の休憩時間がどのくらいあるかなんて知らないけれど、教室移動は辛くないのだろうか。開始時刻までに辿り着かないなんてこともあったりして。首元を流れる汗を拭いながら、僕はそんなことを考えて坂道のキツさ(と、長さ)を忘れようとした。前方に広がる景色(坂)をなるべく見ないように、僕は歩いた。…っていうか。

 

 先輩、大学部の売店って、もっと下の方にもいくつかありますよね。

 

 僕がさっきから言いたくてたまらない言葉だ。

 正門を通ってから、かれこれ十五分は歩いている。僕は普段あまり大学部に行くことはないのだけれど、図書館で調べ物をする時とか、大学部こちらの方が便利なこともあって、入学してから三回くらいは行ったことがある。だから、正門から徒歩三分のところに一つ、そこからさらに五分行ったところにある理学部棟の一階に一つ、売店が設置されていることを知っているのだ。なのに先輩は、それらをすべてスルーしている。これはもしかして…。恐ろしい考えが頭をよぎる。聞いてみようか。いや、もし、本当だったらと思うと、怖くて聞けない。いや、このまま終わりのないハイキングをするのもかなりツライ。


「先輩、まさか、文学部棟に行こうとしてますか?」


 とうとう口に出してしまった。

  

「あら、よくわかったわね」


 先輩は即答した。


 ああ。

 やっぱり。

 

 僕は思わずため息をついた。

  

 先輩知ってますか?

 大学部の文学部棟って、別名天空の城って呼ばれてるんですよ。

 学部棟の中での一番高い位置にあって、慣れていない者が行こうとすると、正門から軽く三十分はかかるとか。


「疲れたのなら、わたしひとりで行くわ」


 血の気が引いた僕の顔を見て、先輩が言った。


「貴方はどこかの棟に入って、中で待っていればいいわ」   

 

「いや、でも…」


「ここまで来たらあとは一人でも行けるわ。

 それに、いつも言っているでしょう?わたしの世界ルールはわたしのものであって、貴方に押し付けるようなことはしないって」


 先輩は、少し背伸びをして僕の頭に触れて、「熱くなっているわ」と言った。僕はどきりとする。


「休んでいなさいな。大丈夫。貴方の上に隕石は落とさせないから」


 ああ、そういう設定でしたね。

 僕は、だんだんぼんやりしてきた頭の中で考える。

 僕らのすぐそばに、教育学部棟が見える。自販機で水でも買って待っていようか。


 いや、駄目だ。


「一緒に、行きます」


 僕は言った。


「でも…疲れたのでしょう?」


「大丈夫です。行きましょう」


 僕らは頂上(文学部棟)を目指して、再び歩き出した。

 教育学部を通り過ぎて、木々に囲まれた小道(というか、坂)が見えてきたところで、僕はふと思いついて聞いてみた。


「アップルパイを食べるのは、アップルティーのリベンジですか」


「そうね。今日は月曜日だもの」


 先輩は、ふふんと得意そうな顔で答えた。一瞬微笑ましい気持ちになったけれど、ちょっと待ってほしい。先輩の中では、アップルパイを食べないと僕に隕石が落ちることになっているということを忘れてはならない。

 僕は、大きく深呼吸をすると、レンガ状のタイルが敷き詰められた道(っていうか、坂)を踏みしめた。


 *


 文学部棟の売店のおばちゃんに「何で来たの?合同授業?え?コレ買いに来たの?へぇぇぇ~」とひたすら感心されながらアップルパイを購入した僕たちは、文学部棟入口から少し離れたところにある芝生に座って食べることにした。僕は少し戸惑ったけれど、先輩は気にすることなくそのまま芝生の上にぺたりと腰を下ろす。

 構内で一番高いところであるここからは、門の外に広がる田畑エリアがよく見える。本当に田舎なんだよな、この辺り。


「あれは、駅かしら」


「そうでしょうね。あの辺りはもう駅くらいしかないですから」


 放課後になっても、七月の日差しは強い。僕はせっかく手に入れたアップルパイの袋を開ける気になれなくて、紙パックのジュースで喉を潤した。三十分のハイキングで腰が痛い。


「食べないの?」


「いや、今食べたら、口の中パサパサになりそうで…」


「ああそうね」


 昼間のおにぎりを思い出したのか、先輩は手元のミルクティーを勢いよく飲んだ。 


「時間はあるのだから、ゆっくりすればいいわ」


 先輩は、再びアップルパイを手に取った。僕はしばらくその姿を見ていたけれど、ふと思いついて先輩に言った。


「これをこのまま食べなかったらどうなるのか、考えてくれません?そしたら、食べられそうな気がします」


「いやよ」


「どうしてですか」


「だって、わたしの世界ルールはわたしのものだもの」


 風が木々を揺らして、先輩の髪がふわりと浮いた。


「でも、そうね」


 先輩は続ける。


「貴方とここで一緒にアップルパイを食べることが出来たら…。わたしはとても楽しい気分になると思うわ。

 貴方もそうだと嬉しいのだけれど」


 僕はアップルパイを口に入れる。

 疲れた身体に、リンゴの甘みが広がっていく。

 隣で僕の返事を待っている先輩に、なんて答えようかと考えながら、僕は遠くに見える駅舎の赤い屋根をしばらく見つめていた。

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