研究所
三か月という期間を経て、僕と氷室は一般的な教員になっていた。
と言ってもこれまでとすることはさほど変わらない。僕らが教壇の前に立つことはもうしばらく先の話になるだろう。
最近では物騒な現象や事件は起こっていないが安全のためだろう、学校は集団下校を行っている。今日も、最後の数名を家の近くまで生徒を送り届け学校に引き返すために氷室と住宅街を歩いていた。
「いやー、ほんと。平和という言葉はどこへいったのか」
氷室が間延びした声で言う。彼もこの状況には辟易しているのだろう。
「なあ、紫音?」
同意を求める氷室の声が聞こえる。だけど僕はそれに返事をせずに別のことを考えていた。
それは数日前のことだ。
あの男たちを殴ったとき、僕は拳に怪我をした。痛みが走るというだけでなく目に見える痣までできあがっていたはずだ。だが、今その痣はない上に痛みもない。
あの女の子が能力で治したんだ。
それ以外には考えられない。まさかこんなに近くに能力者がいるなんて思ってもみなかった。同じ学校に通っているのだから、彼女に接触できる機会は充分にあるはずだった。
しかし、ここ数日の全校生徒が集まる集団下校ではあの茶髪の女の子は見つけられなかった。
――本当に、あんなことが僕の日常に起こったのだろうか。
疑念が膨らんでいく。まさか、夢だったなんてことは……。
「無視するなよ、紫音」
そこでようやく僕は顔を上げた。気が付けばもう学校に着いていた。
「今回の能力者たちについて、何か思うことがあるのか?」
そういえば……この話はまだ氷室には話していなかった。必要性がなかったというわけじゃなく、なんとなくタイミングを失ってしまったせいだ。
「なあ氷室。少し僕の話を聞いてくれないか?」
僕は簡潔に数日前の出来事について話した。氷室は全て聞き終えると開口一番に、
「ばかやろう」
とかなんとか全く抑揚のない声で言って僕の頬を軽く殴った。
「なぜそれを早く言わない」
「いや……本当、夢か何かじゃないかって思って」
「茶髪の女の子だろう? 髪染めてる女子なんてそう多くはないんだし、他の先生に聞けば案外簡単に見つかるだろ」
「う、う~ん……」
「なんだよ」
「今更だけど、見つけてどうするつもりだったんだろ、僕……」
「おい……」
氷室に呆れられてしまったら、僕はもう終わりだ。
と、そのとき僕の携帯の着メロが鳴り響いた。確認してみると白峰さんだった。
「随分とタイミングがいいな」
まったくその通りだよ。
「もしもし、白峰さん?」
『よっ、紫音。近くに氷室はいるか?』
「いますけど」
氷室が僕の携帯を奪って言った。
『おお、ほんとだ。お前ら、今から俺のラボに来れるか?』
「白峰さんのですか?」
『ああ、話したいことがある』
「ちょうどいいですね、俺らも話したいことがあります」
『じゃあ待ってるわ』
氷室は僕に携帯を押し付けると急ぎ足で学校へ戻っていく。
「早くしろ紫音。どうせまた能力者関連だよ」
僕は走っていく氷室の背中を慌てて追いかけた。
僕と氷室がやってきた研究所の敷地は相変わらず広大だった。過去に何度か出入りしたことがあるがこの広さにはまだ慣れそうもない。
と言っても、白峰さんがいる研究施設はこの敷地の一割にも満たないらしい。五年前はここの建物はほぼ全て研究施設として使われていたが今では能力者の保護やカウンセリングのために使用されている。
氷室はそれらを見て苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
「『能力者との共存を!』ねえ……。ふざけてやがるよな、こいつら」
氷室の気持ちは分からないでもない。むしろ同じ境遇の人間として、そして僕特有の能力によって氷室の感情を肌で感じ取ってしまう。
僕は氷室を引っ張って先を急いだ。
研究所には関係者か、特別なIDを持った人間しか入れないらしいが僕たちは何のチェックもなしに通される。
電灯が明るく光を照らす研究室に僕たちは足を踏み入れた。
白峰さんは僕らを認めると軽く手を振ってきた。
「早速なんだが……これを見てくれ」
指し示された画面には、この一連の怪奇現象の発端が映されていた。
数百年という年月の間、人の手が全く加えられなかったとしか考えられないくらいに荒廃しているあの都市だ。
「数日前、暴走を起こしていた能力者たちは全員保護したんだが――」
「気に入らないな」
白峰さんの言葉を遮ったのは氷室だ。
「氷室……?」
おそるおそる、氷室に視線を向ける。なんだか今日はいつもと様子が違う気がする。
「……いや、なんでもない。話の腰を折ってすまない。白峰さん、続けてくれ」
「……ああ」
白峰さんはパソコンを操作しながら話を進める。
「保護した能力者のデータを取りこれまでに起こった現象と照らし合わせると、ほとんどは一致したんだが……この、都市を荒廃させる能力に該当するものはなかった。そしてこれはこの数日に起こったことなんだが……」
新たに表示された映像を見る。
やはり、最初のものと同様に建物が荒廃している画像が並んでいた。
「これ以上被害が出るのは避けたい。お前たちにはこの能力者を探すことに協力してほしい」
「わざわざ探す必要はないみたいだな」
白峰さんが「どういうことだ?」と目で語っている。氷室は顎を使って僕に話をするように促した。
「白峰さん……僕、もしかしたらその能力者に出会っているかもしれません」
「なに!?」
興奮した様子で白峰さんは早口にまくしたてる。
「いつ、どこで会った!? 誰だかわかっているのか!?」
「その前に白峰さん」
対照的に、氷室は落ち着き払っている。
「俺らはもうそいつとコンタクトを取ることができますけど……もしあいつを連れてきて、どうするつもりですか?」
白峰さんはその言葉を聞くと、数瞬の間固まってしまった。
居心地の悪い沈黙が降りかかる。だが白峰さんは氷室の目をしっかりと見据えてはっきりと言い切った。
「もう我々は間違いを犯さない。私が正す。だから、任せてくれないか」
氷室の質問に対して、本質的な回答をしたわけではない。が、氷室がちらりと僕を盗み見てそれに僕が頷くと納得して、
「わかった。なら白峰さんもこっちのことは俺たちに任せてくれ」
氷室は踵を返すとそのまま部屋を出て行ってしまった。
僕は白峰さんに一礼してから氷室の後を追った。