病室
コツ、コツという自分の足音が静かな廊下に響いていく。この病院に通い始めたころは、その大きさのせいで何度も迷子になりかけたが今ではそんなこともなくなった。
目的の病室が見えてくる。『七瀬 陽菜』と書かれた個室の前で立ち止まりドアに手をかけたところであることに気付いた。 「あ……そういえば何も持ってきてないな……」 親しき仲にも礼儀ありと言うが……。
まあいいか。今更そんな気を遣うと何か言われそうだし。
勝手にそんな結論を出しドアを開けると、やはり見慣れた白の世界が広がっていた。簡素というか質素というか……なんで病室はいつもこうなのだろうな。清潔感はあるが。
窓のそばにあるベッドで七瀬陽菜は眠っていた。
色素が抜けた白くて長い髪。少し痩せ気味な体つき。雪のように白い肌。陽菜の特徴は昔と随分変わってしまったが、これはこれで綺麗だ。本人の前じゃ絶対言えないが。
近くにあったイスに腰掛け、その顔を覗き込む。
「寝てるし……いいよね?」
ゆっくり、ゆっくりと顔を近づけていく。あともう少しで唇が重なりそうだ。陽菜の吐息が少しくすぐったい。そして―――
陽菜の耳に息を吹きかけた。
「うにゃあ!?」
すると陽菜は狂ったように起き上がり、赤い顔で僕を睨みつけてきた。
「いきなり何するの!?」
「いや……どんなリアクションをするのかな、と」
「もう、やめてよ、びっくりしたじゃん……」 頬を赤くして耳を押さえる陽菜を見ていると、思ったよりも元気そうで安心できた。
「元気そうで何よりだよ」
そう言ったのは僕ではなく、陽菜だ。
「君とは体の鍛え方が違うからね」
「一時期引きこもりだったくせに……あ、もしかして最初から起きてるのわかってた?」
「うん、まだ『きこえる』からね。微妙にだけど」
そっか、と陽菜は少し悲しそうな顔をした。そんな顔してほしくないな。
「いいなあ……紫音は……こんな退屈な日々を過ごさなくてもいいなんて」
「お腹すいてたりする?」
僕はそれ以上その話をしたくなくて、多少強引に話題を変えた。当然、陽菜は戸惑う素振りを見せた。
「えっと……少しだけ」
「よし」
ではベタな展開だがリンゴの皮でも剥いてあげよう。そう思い、見舞い品のリンゴと果物ナイフを手に取る。
「あれれ~、君にそんなことできたっけー?」
悪戯っぽく口元を緩めながら陽菜がからかってくる。僕はリンゴを弄びながら、
「心外だね。それくらいできるよ」
「っていうか、何か持ってきてくれればいいのに。気が利かないな~」
「文句言わない。毎日来てあげてるんだから、感謝しなさい」
うっ、と陽菜は言葉を詰まらせた。落ち着かなさそうに、くるくると髪をいじる。
「そ、それはその……えっと……嬉しいけど……」
「え~、なに、よく聞こえないよ?」
ニヤニヤしながらわざとらしく耳を近づける。
「~っ!!」
陽菜はふてくされてしまったようで、ガバッ!と毛布を頭から被ってそっぽむいてしまった。
……うん、やっぱり陽菜をからかうのは楽しい。
さて、意識をリンゴとナイフに集中させてみる。陽菜にはできるとか言っちゃったけど実は上手くやる自信はないんだよな。
ナイフを当てて、滑らせるようにして慎重に皮を剥いていく。けど……。
「あ」
……やっぱり無理か。
五分以上かけてできあがったのは大きさがバラバラ、しかもところどころに皮が残っているというなんとも残念なリンゴたちだった。
「………」
陽菜はただ黙ってそのリンゴを見つめていた。表情は怒っていないけど無言のプレッシャーがつらい。
「い、いや、すいません七瀬さん!だってしょうがないじゃないですか俺一人暮らしだし家事できないしチェリーなボーイだし!だが安心しろ、すぐに何か買って――」
僕が言い終わる前に陽菜は素早くリンゴを手に取るとそのまま口に放り込んだ。
シャクシャクという咀嚼の音が妙に大きいのは、きっと気のせいだ。
「陽菜?」
呆気にとられている間に陽菜はリンゴを全て食べ終わってしまった。
「……へたくそ」
それだけ言うと陽菜は窓の方に顔を向けてしまったけど、僕には陽菜の本当の声が『きこえて』いた。
『ありがと』
思わず頬がゆるんでしまいそうになるのを必死に堪えようとしたけど全然ダメだった。