王妃付きの下級侍女は、令嬢に命を狙われる
夜会の楽隊の華やかな音楽が流れる中、黒髪の眉目秀麗な男性がこちらに歩いてきた。
男性は黒ずくめで妖しげな雰囲気を放ち、美しい容姿にもかかわらず、女性はおろか、誰も近寄ろうとしない。そんな男性が、私の前まで来て立ち止まった。正確には私の前に王妃マグダレーナ陛下を挟んでいたのだけれど。
「ノエラ、来ていたのか」
その男性——王弟ヴォルフラム殿下が、王妃陛下越しに私に声をかけてきた。
なお、私、ノエラ・フェルマンは王妃陛下付きの、最下級の侍女だ。
王妃陛下を差し置いて、下級侍女に話しかけるとは、どんな王弟殿下なのだと、心の中で私は叫んだ。
「いえ、私は夜会に参加できるような身分ではございませんので、王妃陛下に緊急のご報告で参っただけです」
これで、少しは自分の行いがどれだけありえないことか認識してくれるとよいのだけれど。
「そうなのか……。それは残念だ。一緒に踊ろうと思ったのだが」
ヴォルフラム殿下が真顔でありえない回答を返してきた。冗談でも笑えない。
「あら、ノエラ。緊急の報告というのは?」
王妃陛下が振り返った。ヴォルフラム殿下の戯言を無視できる心の広い王妃陛下でよかった。
王妃付き上級侍女で伯爵令嬢のベアトリス様は何だか私を睨んでいるようですけれど、悪いのは私ではなく、殿下のほうです。
「マグダレーナ陛下、実はマルタさんが倒れてしまいまして……」
私が話し始めると、ベアトリス様が横から口を挟んできた。
「そんなことで王妃陛下の邪魔をしに来たというの? 下級侍女のマルタが倒れたというだけで?」
「それが……倒れる直前に、王妃陛下に危険が迫っていると言っていて、詳細を聞く前にマルタさんが意識を失ってしまったようなのです」
私の報告に、王妃陛下が顔を強張らせた。
「マグダレーナ陛下に危険が……? どういうこと?」
ベアトリス様も驚いた顔をする。
「それがわからないので、王妃陛下には避難していただいたほうがよいと、侍女長が私を使いに出したのです」
「事情はわかったわ、ノエラ。伝えてくださってありがとう。すぐに後宮に戻りましょう。近衛兵にも警備を強化するように伝えて。ああ……マルタも心配だわ。あの娘、疲れていたのかしら」
王妃陛下は少し取り乱しているご様子だった。
「私も行こう」
話を聞いていたヴォルフラム殿下が言った。
「いえ、ヴォルフラムさん、後宮のほうは侍女長に任せますので、あなたは夜会のほうを警戒してくださいますか?」
王妃陛下がやんわりと「ついてくるな」と告げた。
「ヴォルフラム殿下、私と踊りませんか?」
そこに声をかけたのは、侯爵令嬢のイザベラ様だった。王妃陛下と親交のある侯爵家の方で、後宮でもときおり見かける。
それにしても、こんな変人に声をかけるとは、変わったご令嬢だ。
ベアトリス様も不気味なものを見るような目でその様子を見ていた。この方は今日は驚いてばかりだな。
そして、王妃陛下とベアトリス様、そして私は夜会を後にした。
※
私は遺体安置所にいた。
目の前にはマルタさんがいた。
すでに息はしていない。
マルタさんは私と同じ、平民の下級侍女の同僚だった。嫉妬と憎悪が渦巻く後宮では、死体が出ること自体は珍しいことではないが、つい先ほどまで一緒に働いていた同僚が亡くなるのはやはり辛かった。
いったいマルタさんの身に何が起きていたのか……。
死体の処理は穢らわしい仕事とされ、後宮でも最下級の侍女である私が担っている。だから私はここで今からマルタさんの体を清める。
マルタさんの侍女の制服に手をかけ、ゆっくりと脱がした。自分の手が、ひどく重く感じた。
すると、服の内側のポケットに何か紙が入っているのに気がつく。
……遺書?
私はその紙を恐る恐る手に取った。
そこには、マルタさんの死の秘密が記されているのかもしれない。
紙を開くと、短く一言だけ書かれていた。
——次はおまえが死ぬ番だ。
「ひっ!」
私は思わず紙を放り投げた。
何なの、これは……?
「ノエラ、亡骸の様子はどうだ?」
急に声をかけられて、私は飛び上がってしまった。
けれど、すぐにその声が聞き慣れたものだと気づく。
振り返ると、ヴォルフラム殿下が立っていた。
「どうかしたか?」
「殿下、私のことを殺しに来たのですか……?」
「何をバカなことを言っているのだ」
殿下は呆れたように言った。
ヴォルフラム殿下が後宮の遺体安置所に来ること自体は珍しいことではない。
王宮内で死体が出ると、殿下は必ずそこに姿を現すので、「死神」王弟と呼ばれ、気味悪がられている。けれど、本当は国王陛下の信任が厚く、王宮内の不穏な事件を調査しているのだ。
そういうわけで、殿下と私は顔を合わせることが多く、気がつけばその天と地ほどの身分差を超えて、私もそれほど気兼ねなくお話をするようになっていた。
「何をそんなに怯えているのだ?」
殿下は私の様子を見て訝しげに尋ねた。
私は床に放り投げた紙を指で示した。
殿下は紙に近づき、拾い上げて、記された文面に目を通した。
「これは……? その侍女の遺体の服から出てきたのか?」
私は頷いた。
「それで、ノエラ。おまえが狙われていると思ったのか?」
私はまた頷いた。
「なるほど。そこに私が現れたというわけか。だが、その侍女の服に入っていたのであれば、おまえではなく、その侍女に宛てられた手紙だと考えるのが自然ではないか?」
殿下は冷静に言った。言われてみれば……。
「それは……そうですね。……でも、そうすると……マルタさんは誰かに殺されて……マルタさんの前にも誰か殺されたということでしょうか……」
「そうだな……。遺体に外傷はあるか?」
私は改めてマルタさんの体を見渡す。
傷は見当たらない。首を絞められたり、殴られたような跡もない。ただ、首元に食べ物を吐いた跡だけがある。
「傷はないです……。もし殺されたのだとしたら、毒でしょうか」
「その可能性はあるな。もちろん、発作を起こす病の可能性もあるだろうが。医師は何か言っていなかったか?」
私は悲しい気持ちで首を振った。
「殿下、下級侍女をきちんと診てくれる宮廷医師などございません。王妃陛下の手前、死亡確認だけはしてくれましたけれど」
※
翌朝、朝一番で後宮の門前の掃除を終え、私は朝食を取ろうと侍女用の食堂に向かった。
食堂はすでに多くの侍女でいっぱいだった。私のような最下級の侍女は、朝の仕事を終えてから誰よりも後に食事を取ることになる。
私はいつものように配膳係が取り置いてくれていたパンとスープを取って空いている席を探したが、なかなか見つからなかった。これもいつものことだ。
やっと席を立ったひとりの侍女が、私を見てこちらに向かってきた。ハンナという名の下級侍女だ。私が道を譲ろうとすると、私のパンにハンナさんの手が伸びてきて、あっという間に奪われてしまった。
「ちょっと足りなかったからもらうわね」
そう言うと、ハンナさんがパンをかじった。
これも最下級の侍女の宿命だ。下級侍女の中でも、孤児の私は見下される存在だった。
スープだけではお昼までもたないな、と気落ちしていると、突然ハンナさんが口を押さえてえずいた。
「……どうしました?」
ハンナさんはその場に崩れ落ち、バタンッ、と大きな音を立てた。
食堂の侍女たちがその音に振り返り、ハンナさんが倒れている様子を見て、一斉に悲鳴を上げた。
「ノエラのパンを食べたら倒れたわ」
「ひ……人殺し!」
誰かが叫んだ。
——人殺し? ハンナさんは死んだの……?
皆の視線は、ハンナさんから私に移った。
近くにいた侍女たちが私を押さえつけた。
スープの器が床に落ちて、中身が飛び散った。
※
後宮では、誰も私の話を聞いてくれないまま、私は近衛兵に「殺人犯」として引き渡された。
ハンナさんは死亡が確認された。
今回は、宮廷医師も毒殺の疑いがあると言った。
私は近衛兵に両手の手首を縄で結ばれ、歩かされた。
王宮でこうなってしまえば、私のような下級侍女は終わりだ。言い訳など誰も聞いてはくれない。事実などどうでもいいのだ。
ハンナさんの亡骸は、誰が清めるのだろうかということだけが気がかりだった。
後宮の門を出たところで、ヴォルフラム殿下が駆けてくるのが見えた。
「何があった、ノエラ?」
ああ……。王宮内でも、ひとりだけ私の話を聞いてくれる人がいた。
私は思わず、顔を歪め、泣き出してしまった。
「ヴォルフラム殿下……。私……誰も殺してなんかいません……」
「そんなことはわかっている。私は何があったのか聞いているのだ」
殿下はいつもどおり無表情だったけれど、心なしか厳しい顔に見えた。
私は涙を拭いた。殿下だけは最初から私が人殺しなんかしていないと信じて、事件と向き合おうとしてくれているのだ。
「いつものように食堂で朝食の賄いを受け取って、席を探していたんです。そこにハンナさんが近づいてきて、私のパンを取って食べたんです……。そうしたら急に倒れてしまって」
殿下の顔が、少し歪んだ。私にはそれが怒っているのだとわかった。
「すまない、ノエラ。私のせいだ。マルタの服に入っていた手紙……あれは、おまえに宛てたものだったのかもしれない。それを私は……。わかっていればおまえも、ハンナという侍女も守れただろう」
「あっ……」
——次はおまえが死ぬ番だ。
あれは私への殺害予告だったの……?
「じゃあ、私は命を狙われているということですか?」
ヴォルフラム殿下は肯定するのを躊躇っているようだったが、そういうことなのだ。
私はあの手紙を読んだときの恐怖を思い出して、背筋が凍る思いだった。
「おまえは私が守る。ルーカス、悪いがその縄を解いてやってくれないか? ノエラ・フェルマンは私が保護する」
ルーカスと呼ばれた近衛兵は、戸惑いながら、王弟の指示に従った。
※
私はヴォルフラム殿下の執務室で、ひとりソファに座っていた。
殿下が差し入れてくれた焼き菓子が目の前に置かれ、私は自分の空腹を思い出した。結局、朝から何も食べていない。パンを食べて倒れたハンナさんのことが脳裏をよぎったけれど、ヴォルフラム殿下がくださったものだから、毒などが入っていることもないだろう。
はしたない侍女だとは思われたくなかったが、誘惑に抗えず、ひとつ食べると、あまりのおいしさに止まらなくなり二つ三つと食べて、お腹は満たされた。後宮にいてここまで満たされた気持ちになることはない。
殿下は事件の調査をするために外に出ていってしまった。しばらく戻っては来ないだろう。
同僚が次々と亡くなった後で、仕事もせずに、安全なところで焼き菓子をたくさん食べてくつろいでいる下級侍女の自分の状況を考えると、ひどい罪悪感に襲われた。
ソファから立ち上がり、そわそわしながらヴォルフラム殿下が戻ってくるのを待っていると、扉をノックする音がした。ノックをするということは、殿下ご自身であるはずがない。
表にはルーカスさんが見張りをしているはずだった。殿下に用事であれば、殿下が不在であることをルーカスさんが告げているはずだ。ということは、私に用事があるのだろうか?
いずれにせよ、ルーカスさんが止めないということは、危険な人物ではないのだろう。ノックの音も落ち着いた上品な音だった。
そわそわした気持ちもあって、私は扉に近づき、鍵を開けた。
扉の外には、見覚えのある方が立っていた。
侯爵令嬢のイザベラ様だった。夜会でヴォルフラム殿下に声をかけていた変わったご令嬢だ。
夜会のお礼にでもいらしたのだろうか。あまりお話したことはなかったが、後宮でお見かけするときも、礼儀正しい印象はあった。
「イザベラ様……。ご存じかもしれませんが、ヴォルフラム殿下は不在でして……」
私がそう言うと、イザベラ様はにこりと笑った。
「ええ。お伺いしたわ。ちょっと急ぎの用事があって……待たせていただいてもいいかしら」
殿下の部屋に勝手に人を入れていいものかと迷っていると、イザベラ様はすっと入ってきた。
「失礼するわね」
イザベラ様が後ろ手に閉めた扉に、少し隙間が残っていた。
「あなた……ノエラさんでしょう? 今朝は大変でしたわね」
イザベラ様も知っているということは、今朝の事件のことはすでに広く知れ渡っているのだろう。
「はあ……。ですが、ヴォルフラム殿下が助けてくださったので……」
イザベラ様は笑顔を崩さず、手に持っていた籠を私に差し出した。
「これ、どうぞ。お腹が空いているのではないの?」
籠には焼き菓子が入っていた。
つい先ほどまでだったら飛びつきかねなかったが、私はすでに焼き菓子をたくさん食べてしまったばかりで、残念ながらお腹がいっぱいだった。
「ありがとうございます。ですが、殿下にも焼き菓子をいただきましたので……大丈夫です」
「遠慮しないで食べて」
「では後ほどいただきます。お気遣いいただいてありがとうございます」
後でまた焼き菓子を食べられるなんて……と、また罪悪感が頭をもたげる。
「……なぜ殿下の焼き菓子は食べられるのに、私の焼き菓子は食べられないの?」
私は一瞬、何を尋ねられたのかわからなかった。
イザベラ様の笑顔はそのままだ。
「あの……申し訳ありません。実は殿下の焼き菓子を食べすぎてしまいまして……お腹がいっぱいなんです」
「でも、ひとつくらい食べられるのではないの? とってもおいしいわよ」
半ば無理強いするようにイザベラ様が迫ってきた。
なぜそこまで焼き菓子を食べさせようとするのか……。
「先ほど近衛兵の方にも差し上げたら、とても喜んでらしたわ」
イザベラ様が迫ってきたことで、少し隙間の空いた扉の外が見え、兵士の足が横になっていることに気がついた。
外で倒れているのはルーカスさんで、この焼き菓子を食べたのでは……?
そして、今、イザベラ様はその焼き菓子を私に無理やり食べさせようとしている……。
なぜこのようなことをするのかはわからないが、ひとつだけ、確信を持って感じることがあった。
この人は、私を殺そうとしている。
※
イザベラ様は笑顔でさらに私ににじり寄り、私は後ずさりした。
すると、先ほどまで座っていたソファに足が当たり、後がなくなった。
「さあ、どうぞ。おいしい焼き菓子を召し上がって」
イザベラ様が焼き菓子をひとつ手に取って、私の口もとに近づけた。
私は恐怖で顔が引きつるのがわかった。
必死に口をつぐんだ。
イザベラ様は籠を床に置き、その手で私の口の横を掴み、無理やり口を開けさせようとしてきた。
私は抵抗するため、その手を除けようと試みた。
「汚い手で触らないで!」
そう叫ばれて、一瞬怯んだその隙に、口に焼き菓子を突っ込まれた。
「ゴホッ!」
あまりに勢いよく突っ込まれ、私は咳き込んで焼き菓子を吐き出した。
吐き出された焼き菓子は、イザベラ様のドレスに当たった。
「汚い!」
イザベラ様の顔から、ついに笑顔が消えた。
私を睨みつける目には、憎しみが充満しているように思えた。
なぜそこまで私を目の敵にするのだろう……。
イザベラ様がドレスの裾を持ち上げ、焼き菓子を払った。
そのまま裾を持ち上げると、イザベラ様の足が見えた。その足には革のベルトが巻かれ、短剣が収まった鞘が取りつけられていた。
危険を察知し、私はイザベラ様の横をすり抜けて逃げようとしたが、襟を掴まれた。
イザベラ様の右手が振り上げられた。手にはすでに短剣が握られていた。
私は恐怖で体が動かず、思わず目を閉じた。
理由もわからずに殺されるのは納得がいかなかった。せっかく殿下に保護していただいたのに……。
「そこまでだ」
声がして、私は目を開いた。
「ひっ……」
短剣の切っ先が目の前にあった。
イザベラ様は、部屋の扉のほうを見ていた。
その顔には、また笑顔が浮かんでいた。
その笑顔の先には、ヴォルフラム殿下がいた。
「ノエラ! 無事か?」
「は、はいぃ……」
我ながら信じられないほど情けない声だった。
イザベラ様は短剣をかざしたままで、私は動けなかった。
「イザベラ嬢、どういうつもりだ? ノエラを放せ」
いつも冷静な殿下の声に、どこか焦りがあるように聞こえた。
「どういうつもり……? 私はヴォルフラム殿下の周りをうるさく飛び回る蝿を処分しようとしているだけですわ」
やはり笑顔のまま、イザベラ様は答えた。
「ノエラは蝿などではない。私の大事な……」
殿下が言い淀んだ。大事な何なのだ?
「……相棒だ」
「この娘は下賤な平民の侍女です。王弟であるあなたに相応しい人間ではありません。子どもにだってわかることです」
即座にイザベラ様が答えた。確かに、私が殿下に相応しい人間だと思ったことなどない。
「何と言おうとノエラは私にとって大事な者だ。彼女を害することは許さん」
殿下の口調はいつになく強く、表情も厳しかった。
「そうですか……」
イザベラ様の笑顔に少し翳りが見えた。
けれど、次の瞬間にまた明るい笑顔になり、短剣を私の首に突きつけた。
「では、こういうのはどうでしょう? 殿下が、私と婚約してくださるなら、この娘を解放いたします」
ヴォルフラム殿下と婚約!?
「わかった。要求に応じよう」
応じるの!?
「嘘……。本当ですか?」
そう尋ねたイザベラ様に、ヴォルフラム殿下が頷いた。
イザベラ様が喜びに声を詰まらせ、左手で口を覆った。
右手に握った短剣がわずかに動き、私の首から少し遠ざかった。
この隙を逃してはいけない……。
私は身をひるがえし、ヴォルフラム殿下のほうへ駆け出した。
あと少しで殿下に手が届く、と思ったところで足を滑らせ、転びそうになった。
そこに殿下の手が伸びて、私を抱きかかえるように支えてくださった。そしてすぐさま私を背後にかばった。
「ノエラ……大丈夫か? 怪我はないか?」
安堵で、私の目から涙が溢れ出した。
私は声も出せず、ただ頷いた。
「すまない。おまえを守ると言いながら、また危ない目に遭わせてしまった……」
「殿下は……こうして……守ってくださいました……」
しゃくりあげながら、何とか言葉を紡ぎ出す。
「でも……イザベラ様と婚約……」
私は、私を守るために殿下が払った犠牲に申し訳ない気持ちになった。
いくら殿下が変人でも、こんな女性と一緒になって幸せになれるとは思えない。
イザベラ様のほうを見ると、つい先ほどまで婚約に感激していたはずが、呆然とこちらを眺めていた。
「……なぜ……婚約者よりも、そんな平民ばかり気遣うのですか……?」
笑顔は完全に消え、その顔は憎悪に歪んでいた。
「この娘……ノエラ・フェルマンは、私にとって特別なのだ」
ヴォルフラム殿下は真顔で答えるので、私は少し恥ずかしい気持ちになった。
けれど、下級侍女を指して、侯爵令嬢に向かってそんなことを言う殿下が信じられない気持ちがあった。
「……婚約者よりも特別なのですか?」
イザベラ様がなおも尋ねた。
もうやめてほしい。
「そうだ」
殿下は即答した。
この人はやはり筋金入りの変人——いつも私の味方をしてくれる変人だ。
イザベラ様の手から短剣が落ち、「ガタンッ」と音を立てた。
「……では、あなたとの婚約は破棄させていただきます」
そうヴォルフラム殿下に告げたイザベラ様の顔からは、生気が無くなっていた。
近衛兵たちが駆けつけてくる足音が聞こえた。
※
私は後宮に戻り、遺体安置所にいた。
とても長い一日だった。
目の前には、今日の朝、亡くなったばかりのハンナさんの亡骸があった。
意地悪なところはあったけれど、死ぬほどのことなどしていない。
私のパンを奪ったときに、お腹が空いていたのも間違いないだろう。本来、ここに横たわっているのは私だったはずだ。
私はハンナさんの亡骸を、湿らせた布で清める。
この後、家族が亡骸を引き取りに来ることになっている。
ハンナさんには帰るところがあったのだ。孤児で帰るところのない私とは違う。
「ノエラ、大丈夫か?」
聞き慣れた声に振り返ると、ヴォルフラム殿下がいた。
「殿下……」
私には殿下に聞きたいことがたくさんあった。
「ルーカスさんはご無事でしたか?」
「ああ。イザベラに食べさせられた焼き菓子をすぐ吐き出させて、命は取り留めた。ルーカスも王宮に出入りするイザベラのことは知っていたから、油断してしまったのだ」
良かった……。心からそう思った。
けれど、目の前のハンナさんの亡骸を思うと、「良かった」という気持ちは長くは続かなかった。マルタさんも亡くなった。そして私自身も死ぬ寸前だったのだ。
「あのとき……私が殺されそうになったとき、どうしてお部屋に戻られたのですか?」
ヴォルフラム殿下が戻ってきてくれたおかげで、私は助かったのだ。
「朝食の配膳係だ」
「え?」
「おまえの朝食に毒が混じっていたのだろう? おまえのために取り置かれた朝食に触れられた者を当たっていたのだ。配膳係に尋問をしたら、案の定、イザベラに買収されて、おまえのために取り置いた朝食に毒液を入れたことを認めた。パンだけではなく、スープにも入っていたようだぞ」
私は背筋が凍る思いだった。スープを落とさなければ、何としても飲もうとしていただろう。
「イザベラは、王妃陛下の知己でもあるから、後宮も王宮も自由に行き来していた。私がおまえを保護したこともすぐ知ることができただろうと思って、慌てて戻ったら、ルーカスが倒れていてな。おまえの身に何かあったらと、私も肝が冷えた」
たまたま戻ったのではなく、私が心配で戻られたのだ……。
「マルタさんも、やはりイザベラ様に毒で殺されたのでしょうか」
「ああ、イザベラが認めた。ネムリソウという植物の毒だったのだが、その効力を確認するために、焼き菓子に毒を振って、マルタに食べさせたようだ。王妃陛下に差し上げるから、味見をするように言ってな」
私は手にしていた布を握りしめた。
毒の効き目を確かめるためだけに、マルタさんは殺されてしまったのか……。
「マルタさんはお茶菓子を食べた直後に急激に体調が悪くなって、毒に気づいて……。『王妃陛下が危ない』と警告したのですね」
ヴォルフラム殿下は頷いた。
「マルタが倒れた後、配膳係が介抱するふりをして、ノエラへの脅しの手紙を服に忍ばせたようだ。イザベラの指示で、おまえを怯えさせるために……。おまえが亡骸を清めるのを知っていたのだ」
——次はおまえが死ぬ番だ。
あの文字が鮮明に脳裏に蘇る。
「私を狙ったのは、私と殿下が近い関係だと思って、嫉妬していたからですね?」
「……」
「それにしても、なぜ殿下みたいな変人にあそこまで執着していたのでしょうか」
「腐っても王家の人間だからな。……うん? 今、変人と言ったか?」
「王家の方だからって、ヴォルフラム殿下に近づく人なんていないではないですか。でも……それでむしろ、誰にも心を開かない殿下に、自分だけは認めて欲しかったのかもしれません。イザベラ様にとって、私のように殿下と親しくする人間が目障りで仕方がなかったのですね」
「おい、私は変人なのか?」
「殿下は良い変人です。私は好きですよ」
「……」
殿下は無表情のまま顔を赤らめた。
何だかおかしかった。
「本当に、助けてくださってありがとうございました」
大きな身分差があることは誰よりもわかっている。それでも私は殿下のことが好きなのだと思った。
けれど、今日はマルタさんとハンナさんの冥福を祈ろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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改めて、ありがとうございました!




