第9話:名付けたい今日という日
九十九里の夜の海は、昼間の明るく開放的な顔とは全く違う、深く静かな表情を見せていた。
完全に日の落ちた砂浜は、打ち寄せる波の白い泡だけがぼんやりと暗闇に浮かび上がり、ザザーッ、ザザーッと、一定のリズムで海鳴りを響かせている。
私たちは、初めて不器用なキスを交わした後、どちらからともなくしっかりと指を絡め合い、駐車場へと続く砂浜をゆっくりと歩き始めていた。
九十九里の夜風は、真夏だというのに少しだけ冷たかった。
汗ばんでいた肌から容赦なく熱を奪っていく海風。けれど、私の心の中には、少しも「寒い」という感情は湧いてこなかった。
なぜなら、私の右手は今、透の左手の中にすっぽりと包み込まれているからだ。
「……足元、暗いから気をつけてね。変なゴミとか落ちてるかもしれないし」
透が、繋いだ手を少しだけ引くようにして、私の一歩前を歩いてくれる。
彼の大きな手は、私が想像していたよりもずっとゴツゴツとしていて、男の人特有の骨っぽさがあった。長年隣にいたはずなのに、こうしてしっかりと指を絡ませて初めて知る彼の体温や感触に、いちいち胸が甘く締め付けられる。
「うん、大丈夫。……透が手、引いてくれてるから」
私が少し照れくさそうに答えると、透は振り返らずに「そっか」と短く呟き、繋いだ手にキュッと少しだけ力を込めた。
今までも、人混みではぐれそうになった時などに、服の袖を引っ張られたり、手首を軽く掴まれたりしたことはあった。でも、こうして「恋人」として、お互いの手のひらを密着させ、指の間に相手の指を滑り込ませる『恋人繋ぎ』をするのは、今日が初めてだった。
この少し冷たい夜の空気の中を、二人で足並みを揃えて歩いている。ただそれだけのことが、奇跡みたいに愛おしくて、私は繋いだ手から伝わる彼の熱を、一歩ごとに深く噛み締めていた。
木の階段を上り、防風林を抜けて駐車場に戻ると、街灯のオレンジ色の光が私たちをふわりと照らし出した。
透の愛車であるSUVの前に辿り着いても、彼はすぐには手を離そうとしなかった。
「……着いたね」
「うん」
名残惜しそうに、彼が親指で私の手の甲をゆっくりと撫でる。
そのくすぐったいような、甘い愛撫に、私の顔が再びカッと熱くなるのがわかった。
「……あのさ、夏海」
「ん?」
「車乗る前に、ちょっと鏡見ていいよ。夏海、さっき気にしてたでしょ? 顔がぐしゃぐしゃだって」
透が、悪戯っぽく笑いながら助手席のドアを開けてくれた。
「あっ、そうだった! もう、なんでこんな明るいところに出るまで言ってくれないのよ!」
私は慌てて繋いでいた手を離し、車のサンバイザーに付いているバニティミラーを下ろして、ルームランプを点けた。
鏡に映った自分の顔を見て、私は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
大惨事だった。丁寧に塗ったマスカラは涙で見事に落ちて目の下が黒くなり、ファンデーションもヨレて、泣き腫らした目は金魚のように赤くぷっくりと腫れ上がっている。おまけに、透の胸に顔を押し付けて泣きじゃくったせいで、前髪も変な方向に跳ねていた。
「最悪……。私、ずっとこんな顔で透に文句言って、あまつさえキスまでしたの……? 恥ずかしすぎる……」
私は両手で顔を覆い、シートに崩れ落ちた。こんなひどい顔の女に「綺麗だ」なんて言ってキスをしてくれた透は、本当にお人好しすぎるし、どうかしている。
「ははっ、俺は全然気にならなかったけどね。むしろ、俺のために泣いてくれたんだって思ったら、可愛くて仕方なかったよ」
運転席に乗り込んだ透が、シートベルトを引き出しながらカラカラと笑った。
「可愛いわけないでしょ! あーあ、せっかく今日のデートのために、昨日の夜からパックして、朝早く起きてメイクしたのに……全部台無し」
私がバッグからメイクポーチを取り出し、ウェットティッシュで目の下を拭きながら恨み言をこぼすと、透は優しく目を細めた。
「台無しなんかじゃないよ。今日の夏海が、今まで出会った七年間の中で一番、俺の胸に刺さった。……その泣き顔も、絶対に忘れないと思う」
「もう、からかわないでよ……」
私は恥ずかしさで耳まで真っ赤になりながら、急いでメイクを直し、跳ねた前髪を直した。
透がエンジンをかけると、車内に静かなアイドリング音が響き、エアコンの吹き出し口から、心地よい冷風が控えめに流れ始めた。行きに流していたアップテンポなプレイリストの代わりに、今度は彼がスマートフォンを操作して、夜のドライブに似合う、静かでロマンチックなアコースティックギターの曲を流してくれた。
「じゃあ、帰ろうか。夏海の家まで、安全運転でお送りします」
「……うん。お願い」
車は、真っ暗な九十九里の有料道路へと滑り出した。
窓の外には、街灯もまばらな暗闇が続いている。すれ違う車のヘッドライトだけが、時折車内を白く照らし出しては、すぐに後ろへと過ぎ去っていく。
昼間、この道を海に向かって走っていた時、私の心の中は「今日こそ関係を壊すんだ」という悲壮な決意と、焦燥感でパンパンに張り裂けそうだった。
けれど今、同じ道を帰る私の胸の中にあるのは、甘く溶けるような安心感と、彼への愛おしさだけだ。
「……なんだか、不思議な気分」
しばらく無言で夜のドライブを楽しんだ後、私がポツリと呟くと、透も前を見たまま小さく頷いた。
「俺も。助手席に夏海が乗ってるのはいつもと同じはずなのに、全然違う景色に見える。……信号待ちのたびに、隣にいる夏海に触れたくて、どうにかなりそうだよ」
透が、照れくさそうに本音をこぼす。
「えっ……」
「あー、ダメだ。俺、今までずっと我慢してた反動で、すげー余裕ないかも」
透は苦笑いしながら、赤信号で車が停まった瞬間、シフトレバーに置いていた左手を伸ばし、私の右手をギュッと握りしめた。
運転中だから危ない、なんて言うつもりは毛頭なかった。私もすぐに彼の手を握り返し、その温もりを独り占めする。
「……ねえ、透」
「ん?」
「今日って、私たちにとって、すっごく特別な日になったよね」
私が、繋いだ手を見つめながら言うと、透は信号が青に変わったのを確認して、片手でゆっくりと車を発進させながら答えた。
「うん。俺の人生の中で、一番の記念日になったよ。……ずっと逃げてた自分の弱さを乗り越えて、一番大切なものを、自分の手で抱きしめられた日だから」
「ふふっ。じゃあさ、今日という日に、何か特別な名前をつけるなら、どうする?」
私は、少し意地悪な笑みを浮かべて彼に問いかけた。
「え? 名前のつけるの? うーん……」
透は、真面目な顔をして少し考え込んだ。
「『七年越しの片思いが実った日』……とか? ちょっと長いか」
「長すぎだし、普通すぎる。……私はね、『気弱でヘタレな透が、やっと男を見せた記念日』がいいと思う」
私がクスクスと笑いながら提案すると、透は「うわぁ」と情けない声を出した。
「それはちょっと勘弁してよ。なんか俺がすげーダメな奴だったみたいじゃん。いや、ダメな奴だったのは事実なんだけどさ……一生いじられそう」
「ふふっ、一生いじるよ。透が逃げ出そうとするたびに、『あの九十九里の海でシャツを落として、泣きながら私を抱きしめたくせに』って言ってやるんだから」
「うわ、最悪だ。弱み握られちゃったな……」
透が肩を落とすフリをしてため息をつく。そんな他愛のない、冗談交じりの会話が、今はたまらなく心地よかった。
今までは、こんな風に彼の「男としての弱さ」を直接的にいじることは避けてきた。彼が傷ついて、二人の間に壁ができてしまうのが怖かったからだ。
でも、今は違う。私たちは、お互いの弱さも、醜い感情も、すべてを砂浜にぶちまけて、その上で手を繋ぐことを選んだのだ。もう、変な遠慮や、綺麗事の壁は必要なかった。
「……でもさ」
透が、少しだけ真面目な声色に戻って言った。
「俺としては、『世界で一番眩しい光を、俺だけのものにできた日』かな」
「……えっ」
「夏海は俺にとって、ずっと眩しい太陽みたいな存在だったから。その光に焦がれて、でも近づくのが怖くて逃げてた。……でも今日、その光を自分の腕の中に閉じ込めることができた。俺にとっては、そういう記念日だよ」
サラリと、ものすごく恥ずかしいことを言う。
私は顔から火が出そうになり、繋いでいた彼の手に、ほんの少しだけ爪を立てた。
「……っ、痛い痛い! 冗談だってば!」
「嘘よ。絶対本気で言ったでしょ! 透ってば、たまにそういうポエムみたいなこと言うから油断ならないのよ。あのお花畑の時だって……」
「あー! 花畑のことは忘れて! あれは本当に恥ずかしかったから!」
透が顔を真っ赤にして慌てふためく。
車内は、私たちの笑い声で満たされていた。
こんなに心の底から、何も隠さずに笑い合ったのはいつぶりだろう。彼との間にある見えない境界線が消え去り、二人の距離が完全にゼロになったことを、私はこの帰り道のドライブで、痛いほどに実感していた。
車は順調に走り、京葉道路を抜けて、私の住む千葉市内のマンションへと近づいていく。
いつもなら「あぁ、もう着いちゃう」と、近づく別れの時間に寂しさを募らせていた。でも今日は、少しだけ違う。
今日彼と別れても、明日からは「親友」ではなく、「恋人」としておはようのLINEができる。来週末も、その次の週末も、ずっと彼の隣にいられる。その確約があることが、私をどれほど強く、穏やかな気持ちにさせてくれるか。
「……もうすぐ、着いちゃうね」
見慣れた街並みに入り、私が少しだけ寂しそうに呟くと、透は優しく微笑んだ。
「うん。でも、明日も会えるよ。仕事終わったら、夏海の会社の近くまで迎えに行く。一緒にご飯食べよう」
「……本当に?」
「本当。これからは、今まで我慢してた分、夏海が呆れるくらい会いに行くし、たくさん連絡するから。覚悟しといてよ」
気弱だった彼が、そんな強気なセリフを言うなんて。
私は嬉しさで胸が締め付けられ、「……呆れるくらい、会いにしてよ。待ってるから」と、素直に頷いた。
今日という日につけた名前は、きっと明日には忘れてしまうだろう。
でも、あのオレンジ色の花畑の景色も、冷たい海風の中で交わしたキスの感触も、二人で少し冷たい空気を噛み締めながら手を繋いで歩いたこの感覚も。
私の人生の中で、決して色褪せることのない、一番大切で愛おしい記憶として、永遠に刻み込まれたのだった。




