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第8話:不完全な言葉の代わりに

どれくらいの時間、そうして抱き合っていただろうか。

 完全に日が落ちて暗闇に包まれた九十九里の砂浜には、ザザーッ、ザザーッと、静かで規則正しい波の音だけが、絶え間なく響き続けていた。

 私の背中に強く回された、とおるの大きな腕。

 彼のリネンシャツ越しに伝わってくる、確かな体温と、トクトクという少し早めの心臓の鼓動。

 それは、私が大学時代からずっと、ずっと渇望していた「一人の男の人」としての熱だった。

「……ねえ、透」

 私は、彼の広い胸に顔を埋めたまま、鼻声で小さく呟いた。

「ん?」

 頭の上から降ってくる彼の声も、泣いた後のようにひどく掠れ、少しだけ震えている。

「私、今、すっごくひどい顔してると思う。マスカラも取れちゃったし、目もパンパンだし……」

 せっかく今日のドライブのために、朝から何時間もかけて準備したのに。お気に入りのサマードレスは彼の力強い抱擁でシワくちゃになり、メイクも涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

 大好きな人に、七年越しに想いが通じ合った記念すべき日なのに、私は最高にみっともない姿を晒している。それが少しだけ恥ずかしくて、彼から顔を離すことができなかった。

「……そんなことないよ」

 透は、私の背中を包んでいた腕を少しだけ緩めると、私の両肩を優しく掴み、そっと自分から引き離した。

 暗闇の中でも、街灯と星明かりに照らされた彼の真っ直ぐな瞳が、私をしっかりと捉えているのがわかる。

 透の右手からすっと伸びた、長くて綺麗な指先。それが、私の濡れた頬に優しく触れ、目尻に残っていた涙の粒を、そっと拭い去ってくれた。

 指先が触れた場所から、火傷しそうなほどの熱が全身に広がっていく。

「俺には、今目の前で泣きじゃくってる夏海が、世界中の誰よりも……この海よりも、星空よりも、綺麗に見えるよ」

「……ばか。透ってば、本当にズルいし、調子いいんだから」

 私は、照れ隠しで彼の胸をポカッと軽く叩いた。

 透は「痛っ」とわざとらしく小さく声を上げ、ふふっと、今までで一番優しくて、どこか安堵したような笑い声をこぼした。

「本当に、どんだけ私を待たせれば気が済むのよ。七年だよ、七年。私がいっぱい隙を見せてたのに、ずっと気づかないふりして逃げ回ってさ」

「……面目ない。本当に、俺が全部悪かった。一生かけて償うよ」

「一生って……」

 さらりと口にされた重たい言葉に、再び心臓がドクンと大きく跳ねた。

 一生かけて償う。それはつまり、これからもずっと、私の隣にいるという強烈な意思表示だ。

 今まで「俺なんかじゃ釣り合わない」と勝手に卑下して、私の隣からいつでも逃げ出せるように一歩引いていた彼が。関係が壊れることを恐れて、安全な「親友」というポジションにひきこもっていた彼が。

 ついに、私という存在を、自分自身の意思でしっかりと捕まえようとしているのだ。

 透は、私の足元に落ちて砂まみれになっていた自分の長袖シャツを拾い上げると、パンパンと軽く砂を払い、自分の腕にかけた。

 もう、それを私に被せて「風邪を引かないようにね」と、安全な距離から優しさを押し付けるようなことはしない。

 代わりに彼は、空いた右手で、私の少し冷たくなった左手を、指と指を絡めるようにしてしっかりと握りしめた。

「冷たい。……ごめん、寒い思いさせて」

「ううん、もう寒くないよ。透の手、すごくあったかいから」

 繋いだ手から伝わってくる彼の熱が、私の体の芯までじんわりと溶かしていく。

 手と手を繋ぐ。ただそれだけのことが、恋人同士になるとこんなにも特別で、胸が苦しくなるほど愛おしい行為に変わるなんて、知らなかった。

 私たちは、手を繋いだまま、波打ち際をゆっくりと歩き始めた。

 どちらからともなく、歩幅を合わせる。それは、今までもずっと無意識にやってきたことのはずなのに、今日からは全く違う意味を持つ。親友としての並列の歩みではなく、恋人として、お互いの人生の歩幅を合わせていくための第一歩。

「ねえ、夏海」

 しばらく無言で歩いた後、透が立ち止まり、私の方へと向き直った。

「ん?」

「俺……夏海のこと、ずっと好きだったけど。いざこうして夏海の気持ちを聞けて、手を繋いで歩いてみても……なんだか、まだ夢を見てるみたいで、フワフワしてるんだ」

 透は、繋いだ私の手を、自分の胸の真ん中へと引き寄せた。

 彼の心臓の鼓動が、私の手のひらを通して、ダイレクトに伝わってくる。

「俺、本当に口下手だし、映画の主人公みたいに、気の利いたロマンチックな言葉とか、甘いセリフとか……全然言えない。さっきみたいに、またかっこ悪いところいっぱい見せちゃうかもしれないし、夏海を怒らせちゃうこともあるかもしれない」

 透の眉が少し下がり、出会った頃のあの気弱な少年のように、自信なげな表情がふわりと浮かんだ。

「だから……言葉で上手く言えない代わりに。夏海が不安にならないように、俺なりのやり方で、ちゃんと伝えるから」

「……透なりの、やり方?」

 私が小首を傾げて尋ねると、透は小さく頷き、私の手を握っていた自分の手をそっと離した。

 そして、両手で私の顔を包み込むようにして、少しだけ前かがみになった。

 彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 暗闇の中で、彼の吐息が私の頬をかすめるのがわかった。

 私は、反射的にギュッと目を閉じた。

 少し冷たい海風の中で。

 透の柔らかい唇が、私の震える唇に、不器用に、けれどひどく優しく、押し当てられた。

「……っ」

 初めてのキスは、完璧な言葉の代わりだった。

 映画やドラマのような、洗練された大人のキスとは程遠い。お互いの鼻が少しぶつかって、彼が「ごめん」と小さく笑うような、不格好で、初々しい、手探りのキス。

 でも、それがたまらなく愛おしかった。

 一度触れ合った唇が離れ、彼は愛おしそうに私の目を見つめると、今度は少しだけ角度を変えて、もう一度、深く深く唇を重ねてきた。

「ん……っ」

 私の背中に彼の大きな手が回り、体を強く引き寄せられる。

 私は、彼の広い肩に腕を回し、背伸びをして彼にしがみついた。

 言葉なんか、もう必要なかった。どんなに飾り立てた愛の言葉よりも、この不器用で熱いキス一つが、彼がどれだけ私のことを大切に想い、どれだけこの七年間、想いを募らせていたのかを、痛いほどに伝えてくれた。

 私を傷つけることを恐れ、自分が傷つくことから逃げていた臆病な彼。

 その彼が、すべての殻を破って、自分の体温と、自分の唇で、私という存在を繋ぎ止めようとしている。

 波の音が、二人を祝福するように優しく響いている。

 月明かりと星明かりが作り出した二人の長いシルエットが、砂浜の上で完全に一つに重なり合い、寄せては返す波打ち際まで、ずっと長く伸びていた。

「……好き。大好きだよ、透」

 少しだけ唇を離した隙に、私は彼の耳元で囁いた。

「俺も。俺の方が、ずっと夏海のこと、好きだから」

 透が、子供のように意地を張って言い返す。

 その言葉の響きが嬉しくて、私は彼の首筋に顔を埋め、声を出して笑ってしまった。

 完璧な言葉なんていらない。

 私たちは、少しだけ不完全で、臆病で、不器用な二人のままでいいのだ。

 ただこうして、お互いの弱さを認め合い、体温を重ね合わせていけるのなら、他のどんなものも必要ない。

 夜の海風が、私たち二人の間を通り抜けていく。

 でも、もう寒くはなかった。私の心の中には、出会った頃のあの温かい春の日だまりのような、けれど決して冷めることのない、確かな熱が灯っていた。

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