第7話:不器用な腕の中で
波の音が、これほどまでに残酷で、そして恐ろしく聞こえたことはなかった。
ザザーッ、と足元の砂をさらい、また海へと帰っていく黒い水面。九十九里の海風は容赦なく吹き付け、シャツを弾き飛ばしてむき出しになった私の細い両腕から、急速に体温を奪い去っていく。
私が突きつけた、究極の二択。
足元に落ちた長袖のシャツを拾い上げて私に被せ、永遠に「優しい親友」でい続けるか。
それとも、彼自身の腕で私を抱きしめ、一緒に傷つく覚悟を持った「恋人」になるか。
透は、息をするのも忘れたように、ただ立ち尽くしていた。
彼の視線は、砂にまみれた自分のシャツと、涙でぐしゃぐしゃになりながら震えている私とを、まるで振り子のように何度も何度も行き来している。その真面目な二重の瞳は激しく揺れ動き、彼の中で「過去の安全な関係」と「未知の未来」が激しくせめぎ合っているのが痛いほどに伝わってきた。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
ガチガチと奥歯が鳴りそうになるのを必死に噛み殺し、私は自分の両腕を力強く抱きしめたまま、彼から絶対に目を逸らさなかった。
ここで私が怯んで「……冗談だよ。ごめん、言い過ぎた」と笑って誤魔化してしまえば、彼はきっと安堵して、すぐにシャツを拾い上げるだろう。そうすれば、明日からもまた、あの退屈で温かい、波風の立たない平坦な日常に戻ることができる。
でも、もう戻りたくない。
彼が他の誰かに恋をして、本当の意味で私の手からすり抜けてしまう日が来るくらいなら。いっそ今ここで、木っ端微塵に砕け散ってしまった方がマシだ。
「……っ」
不意に、透が小さく息を呑む音が聞こえた。
彼の視線が、ゆっくりと足元のシャツへと向かう。少しだけ前かがみになり、右手がだらりと下へ伸びた。
あぁ、ダメだった。
心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がった。
結局彼は、傷つくのが怖くて、私という「安全地帯」を失うのが怖くて、無難な友情を選ぶのだ。自分の体温を分け与えることよりも、布切れ一枚で私を包み込んで、自分自身を守ることを選んだのだ。
目の前が真っ暗になり、絶望で足から崩れ落ちそうになった、その時だった。
ザッ、と。
砂を強く蹴り上げる、力強い足音が響いた。
透の体は、落ちていたシャツを拾い上げるどころか、それを見向きもせずに大きく跨ぎ越していた。
そして、私が驚いて息を吸い込むより早く。
「夏海……っ!」
切羽詰まったような、ひどく掠れた声と共に、私の視界が彼の大柄な体によって完全に塞がれた。
ドンッ、と少し乱暴な勢いで、彼の広い胸に顔を押し付けられる。
とっさに身をすくめた私の背中に、透の長くがっしりとした両腕が強く、本当に骨が軋むくらい強く、回された。
「え……っ」
「ごめん……。ごめん、夏海。俺が、間違ってた。俺がバカだった」
それは、今まで私が知っていた「優しくて気弱な親友」の抱擁ではなかった。
まるで、嵐の海でたった一つの浮き輪にしがみつくような、なりふり構わない、必死で、不器用な腕。
冷え切っていた私の体に、彼が着ているリネンシャツ越しに、信じられないほどの熱が流れ込んでくる。微かなシトラスの香りと、少しだけかいた汗の匂い。そして、耳元でドクドクと早鐘を打つ、彼の大きな心臓の音。
「透……っ」
「拾わない。あんなシャツ、もう絶対に拾わない。……俺の腕で、夏海を温める。夏海が欲しいのはこれだって……俺だって、本当はずっと、こうしたかったんだ……っ!」
私の背中に回された彼の腕が、小刻みに震えているのがわかった。
寒さからじゃない。彼は、彼自身が長年かけて作り上げた分厚い殻を、今、自分の手で打ち破ったのだ。その恐怖と、それ以上に溢れ出して止まらない私への感情の渦の中で、彼もまた、泣き出しそうなほど震えていた。
「俺……臆病で、ズルくて、夏海の優しさにずっと甘えっぱなしで。……夏海が隣で笑ってくれてるだけで満足だなんて、嘘ばっかりついてた」
透の声は、私の頭の上で、波の音を打ち消すように響いた。
「恩人だから大切にしたいんじゃない。ただの友達だから失いたくないんじゃない。……俺は、夏海だから、夏海のことが好きだから、誰にも渡したくなくて、でも傷つくのが怖くて……ずっと、閉じ込めてたんだ」
「……っ、う、あぁ……」
私の目から、再びせき止められていた涙がどっと溢れ出した。
さっきまでの、惨めで悲しい苛立ちの涙じゃない。張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、安堵と、どうしようもない幸福感がないまぜになった、温かい涙だった。
「俺が、夏海に寂しい思いをさせてた。ずっと、待ちぼうけさせてた。……本当に、ごめん。もう二度と、逃げないから」
透の腕の力が、さらに強くなる。
息が苦しいくらいなのに、この腕の中から絶対に抜け出したくなかった。私の体が彼の一部になって溶けてしまいそうなほど、その抱擁は綿雲みたいに柔らかくて、底知れなく熱かった。
「……遅いよ、バカ。……どんだけ、私を待たせれば気が済むのよ……っ」
私は、彼の胸に顔をぐりぐりと押し付けながら、抗議するように彼の背中に両手を回した。
そして、今までずっと触れたくても触れられなかった、彼の少し猫背な広い背中を、ギュッと力いっぱい抱きしめ返した。
「ごめん。本当に、遅くなってごめん」
「……ずっと、不安だったんだから。透は、私のことなんて、ただの世話焼きな女友達くらいにしか思ってないんじゃないかって。……私ばっかりが、空回りしてるんじゃないかって」
「そんなわけないだろ」
透が、私の背中をさすりながら、少しだけ困ったような、でもどこか泣き笑いのような声を出した。
「大学の時から、俺の目は夏海しか追ってなかったよ。夏海が他の男と話してるのを見るだけで、本当は気が狂いそうなくらい嫉妬してた。……でも、俺なんかじゃ釣り合わないって、勝手に諦めて、綺麗事ばっかり並べてたんだ」
彼の口からこぼれ落ちる本音の数々は、今まで彼がどれほど自分を押し殺してきたかを物語っていた。
高嶺の花なんかじゃない。彼の中で勝手に私を神格化して、手が届かないと決めつけていただけなのだ。
「もう……神格化しないでよ。私だって、普通の女の子だもん。好きな人に触れてもらえなかったら、寂しくて泣いちゃうんだから」
「うん。わかってる。今日、夏海の泣いてる顔を見て……俺が今まで守りたかった『関係』なんて、夏海の笑顔がなきゃ何の意味もないゴミクズだって、やっとわかった」
透は、私を抱きしめたまま、少しだけ顔を離した。
すっかり暗くなった夜の海辺。わずかな街灯と、星明かりだけが頼りの暗闇の中で、彼の瞳だけが、はっきりと私のことを見据えていた。
もう、カメラのレンズ越しに私を捉えて、恥ずかしがって逃げるような彼ではない。
「夏海」
「……なに」
「好きだ。……愛してる。もう絶対に、ただの友達なんて言わない。夏海を、俺の恋人にさせてほしい」
それは、出会ってから七年間、私がずっと、ずっと待ち焦がれていた言葉だった。
彼の不器用な唇から紡がれた、飾り気のない、真っ直ぐな告白。
「……生意気。恩人に向かって、そんなこと言うの?」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、わざと意地悪くふふっと笑ってみせた。
「恩人じゃない。……今日からは、俺が夏海を守る、一人の男として言うんだ」
透も、少しだけ目を赤くしながら、優しく微笑み返してくれた。
「……うん。よろしくお願いします」
私が小さく頷くと、透はもう一度、安心したように深く息を吐き出し、私を力強く抱きしめた。
海風は相変わらず冷たかったけれど、二人で重なり合った体温は、どんな上着よりも温かかった。
砂浜に置き去りにされた一枚のシャツが、私たちがようやく越えることのできた「境界線」の抜け殻のように、暗闇の中にポツンと残されていた。




