第6話:言葉にできない苛立ち
バサリ、とくぐもった音を立てて、透の長袖シャツが冷たくなり始めた砂浜に落ちた。
波打ち際に寄せては返す、ザザーッという等間隔の潮騒だけが、不自然なほど静まり返った二人の間に響き渡っている。
西の空では、さきほどまで鮮やかなオレンジ色を放っていた太陽が半分以上水平線に沈みかけ、空は燃えるような茜色から、夜の訪れを告げる深い群青色へと急速にその色を変えようとしていた。
「……な、夏海……?」
透は、私が弾き飛ばした自分の右手を、まるで他人のものを見るかのように空中に浮かせたまま、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
その瞳には、明らかな狼狽と、私が突然泣き出したことへの激しい動揺が浮かんでいる。
「どうして……どうして、そんな風に泣くんだよ……俺、何か夏海を傷つけるようなこと、した……?」
震える声で尋ねてくる彼の顔は、まるで迷子になった子供のようにひどく怯えていた。
私が傷つくことを、誰よりも恐れている顔だ。自分の不用意な言葉や行動で、大切な「親友」を泣かせてしまったのだと、激しく自分を責めている顔。
……あぁ、本当にズルい。ズルくて、腹立たしいほど優しい。
「透が傷つけたわけじゃない……っ。私が、勝手に傷ついて、勝手に苦しくなってるだけなの」
私は、ボロボロと溢れ落ちる涙を手の甲で乱暴に拭いながら、しゃくり上げる声で叫んだ。
シャツを弾き飛ばしたことで、むき出しになった私の細い腕を、夕暮れの冷たい海風が容赦なく撫でていく。物理的な寒さなんてどうでもよかった。それ以上に、心の奥底で燃え盛っている感情の熱が、私自身を焼き尽くしそうだったのだ。
「ずっと……ずっと我慢してた。透が私のことを『大切な友達』だとか、『恩人』だとか言って、見えない線を引くたびに……私がどれだけ慘めな気持ちで笑ってたか、透には絶対わからないよ……っ!」
「夏海……」
「私はね、透にとっての『便利で頼りになる女友達』になんて、なりたくなかったの!」
私は、足元の砂を強く踏みしめ、彼に向かって一歩だけ距離を詰めた。
「大学の時からずっと一緒にいて、映画の趣味も、好きな食べ物も、お互いのことなんて全部わかってる。周りからは絶対に付き合ってるって言われて……でも、透は絶対に踏み込んでこない。私がどんなに隙を見せても、どんなに甘えても、いつも『優しい親友』の顔をして、ニコニコ笑って安全な場所に逃げ込むばっかりじゃない……!」
私の言葉の刃が突き刺さるたびに、透の肩がビクッと震えるのがわかった。
言い過ぎている自覚はある。彼が意地悪で私を遠ざけているわけではないことくらい、何年も隣にいた私が一番よくわかっているのだ。
彼はただ、極端に臆病なだけだ。過去の孤独だった自分を救い出してくれた私という存在を失うのが怖くて、絶対に壊れない「親友」というガラスケースの中に私を閉じ込め、自分自身もそこに引きこもることで、安心を得ようとしていただけなのだ。
でも、その彼の臆病さが、私をどれほど深く、じわじわと傷つけ続けてきたか。
「……ずるいよ、透は」
私は、呼吸を整えるように深く息を吸い込み、涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼に真っ直ぐに向けた。
「私を失うのが怖いって言うくせに、私に一歩も触れようとしない。関係が変わって壊れるのが怖いからって、ずっとこのぬるま湯みたいな距離を保って……私にだけ、永遠に片思いの『待ちぼうけ』をさせてるんだよ」
その瞬間、透の目が見開かれた。
片思い。
その言葉を口にしたことで、私という存在が、彼にとって都合の良い「恩人」から、生身の感情を持った「彼に恋をする一人の女」へと、はっきりと輪郭を持ったはずだ。
「……な、夏海は、俺のこと……」
透の唇が震え、掠れた声がこぼれ落ちた。
「そうだよ。好きだよ……っ。バカみたいに、ずっとずっと好きだったよ!」
もう、何のプライドもなかった。
「ただの友達なんかじゃない。恩人でもない。……私は、透の隣で、透の特別になりたかったの。透に、一人の女として見つめられて、抱きしめられたかったのに……っ!」
涙が止まらない。
今まで必死に隠してきた、強くて頼りになる「藤原夏海」のメッキが、ポロポロと剥がれ落ちていく。
誰かの前でこんなに泣きじゃくり、感情をむき出しにして取り乱すなんて、いつぶりだろうか。情けなくて、みっともなくて、今すぐこの海に飛び込んで消えてしまいたかった。
でも、ここで目を逸らして逃げ出してしまったら、私たちは本当に、二度と今の関係にすら戻れなくなってしまう。
透は、完全に言葉を失っていた。
彼は、宙に浮かせたままだった自分の手をゆっくりと下ろし、そして、ギュッと強く拳を握りしめた。
「……ごめん」
長い沈黙の後。波の音を縫うようにして、透の口から絞り出されたのは、ひどく掠れた、弱々しい謝罪だった。
「俺……本当に、最低だ。夏海の気持ちに、薄々気づいてたのに……気づかないふりをしてた」
「……え?」
「夏海が、時々すごく寂しそうな顔をして俺を見てるの、知ってたよ。俺が『友達だから』って線を引くたびに、夏海が無理して笑ってくれてるのも、わかってた……」
透は、顔を俯かせたまま、苦しそうに言葉を紡いだ。
「でも、俺は……夏海を手に入れるために、一歩踏み出すのが怖かったんだ。もし、俺から『好きだ』って言って、付き合うことになって……でも、いつかお互いの気持ちがすれ違って、別れることになっちゃったら? そうしたら、俺はもう二度と、夏海の隣で笑えなくなる」
透の声は、泣いているように震えていた。
「俺にとって夏海は、ただの好きな人じゃないんだ。俺の世界を明るくしてくれた、たった一つの光なんだよ。……その光を失って、また暗闇に一人ぼっちになるのが怖くて……だから、絶対に別れることのない『親友』っていう安全な名前にすがって、夏海の優しさに甘え続けてた。……最低の、卑怯者だ」
彼の告白は、あまりにも身勝手で、そしてあまりにも切実だった。
失うのが怖いから、手に入れない。
嫌われるのが怖いから、触れない。
それは、究極の自己防衛であり、私への甘えだ。
私は、涙で視界が滲む中、俯いて肩を震わせる彼を見つめた。
あぁ、私たちは、なんて不器用で、馬鹿な二人なのだろう。
お互いがお互いを失うことを恐れるあまり、一歩も動けずに、何年もの間、この狭くて息苦しい境界線の上で立ち尽くしていたのだ。
空はもう、すっかり藍色に染まり、一番星が頼りなく光り始めている。
海風は容赦なく私の熱を奪い、むき出しの腕には鳥肌が立っていた。
「……透」
私は、鼻をすすり、冷たくなった自分の両腕を強く抱きしめながら、彼に向かって静かに言った。
「私が欲しいのは、絶対に壊れない安全な永遠じゃない。……傷ついても、喧嘩してもいいから、ちゃんとぶつかり合って、抱きしめ合える『今』が欲しいの」
私は、足元の砂浜に落ちたままになっている、彼の長袖シャツに視線を落とした。
「……もし、透がこれからも私を『大切な親友』のままにしておきたいなら、今すぐそのシャツを拾って、私に被せてよ。そうしたら私は、今まで通り『優しい透、ありがとう』って笑って、二度とこんなワガママ言わない。明日からはまた、気の置けない女友達に戻ってあげる」
それは、私からの最後通告だった。
「でも……もし、少しでも私のことを、一人の女として見てくれてるなら。私を、失うのが怖い『光』じゃなくて、一緒に傷つきながら生きていく『恋人』にしてくれる覚悟があるなら……」
私は、震える唇を強く噛み締め、彼を真っ直ぐに睨みつけた。
「シャツなんかじゃなくて、透自身の腕で……私を、抱きしめてよ」
究極の二択。
これで彼がシャツを拾い上げたなら、私たちの関係は本当にそこで終わる。私はきっと、二度と彼の助手席に乗ることはないだろう。
私の言葉を聞いた透は、ハッとして顔を上げた。
彼の真面目な瞳が、大きく揺れ動いている。足元に落ちたシャツと、涙と潮風でぐしゃぐしゃになった私の姿を、交互に見つめていた。
波の音だけが、永遠のように長く感じられる時間の中で、ただ無情に響き続けていた。
私は、震える体を自分で抱きしめたまま、彼がどちらの答えを出すのか、祈るような、それでいて絶望するような気持ちで、彼の次の一歩を待ち続けていた。




