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第5話:夕暮れの海辺で

広大な花のテーマパークを歩き回り、すっかり満足する頃には、太陽は西の空へと大きく傾き始めていた。

 駐車場に戻り、熱気のこもった車内に乗り込むと、とおるはすぐにエンジンをかけ、エアコンの風量を最大にした。

「ふぅ、一日歩き回ったね。夏海、疲れてない? 足、痛くないか?」

 ハンドルを握る前に、透が助手席の私を気遣うように覗き込んでくる。

「ううん、大丈夫。サンダル、歩きやすいやつにしてきたから」

「そっか、よかった。じゃあ、約束通り海の方へ向かおうか。夕日、綺麗に見えるといいな」

 車は、なだらかな丘陵地帯を抜け、九十九里浜へと続く県道を走り出した。

 昼間の暴力的なまでの日差しは幾分か和らぎ、代わりに空は、淡いオレンジ色から薄い紫色へと、美しいグラデーションを描き始めている。カーステレオからは、今日一日流していたアップテンポなプレイリストではなく、透が気を利かせたのか、静かでスローテンポな洋楽が控えめに流れていた。

 車内は、心地よい疲労感と、夕暮れ特有の気怠い空気に包まれている。

 普段なら、この静寂の中で眠気に身を任せて、気がつけば家の近くまで送ってもらっているのが私たちの定番パターンだ。透の運転はいつも丁寧で、助手席に乗っていると揺りかごのように安心して眠れてしまう。

 けれど、今日の私は絶対に眠るわけにはいかなかった。

 ——私はただの友達じゃない。恩人なんて枠組みから出して、私を女として見てほしい。

 先ほど、ケヤキの木の下で飲み込んだ言葉の熱が、まだ喉の奥でくすぶっている。

 今日こそ、このぬるま湯のような関係を壊すのだと決めたのだ。彼が大切に守ってきた「親友」という安全な距離に、私から踏み込んでやるのだと。

「……ねえ、透」

 私は、窓の外の流れる景色を見つめたまま、ポツリと口を開いた。

「ん?」

「今日、すごく楽しかったよ。あのオレンジ色の花畑、本当に綺麗だったね」

「うん。俺も、あんなにすごい景色、初めて見たかも。連れてきてよかったよ」

 透の横顔は、やはり穏やかで、少しだけ誇らしげに見えた。自分が選んだ場所で、私が喜んでいることが、彼にとっても喜びなのだとわかる。

「でもね……」

 私はシートベルトを少しだけ緩め、彼の方へと体を向けた。

「私、綺麗な景色を見るだけじゃ、もう満足できなくなっちゃったみたい」

「え……?」

 透が、不思議そうにチラリと私を見た。その真面目な瞳には、私の言葉の真意が全く届いていない「きょとん」とした色が浮かんでいる。

「どういうこと? 花畑以外にも、もっと他に行きたいところがあったってこと? じゃあ、来週は……」

「違うよ、透。場所の話じゃないの」

 私は彼の言葉を遮り、小さく首を振った。

「私は、透と一緒に綺麗な景色を見るだけで満足して、『あぁ、楽しかったね、また来週ね』って、別々の家に帰っていく毎日に……もう、疲れたの」

 車内が、水を打ったように静まり返った。

 スローテンポな洋楽のベース音と、タイヤがアスファルトを擦るロードノイズだけが、異常に大きく聞こえる。

 透は前を向いたまま、明らかに動揺したようにハンドルを握る手に力を込めた。指の関節が白くなっているのが、助手席からでもわかった。

「……夏海? それって……俺と出かけるのが、もう退屈になったってこと……?」

 震える声で、透が恐る恐る尋ねてくる。

 その声には、傷つくことへの怯えと、「見捨てられるかもしれない」という彼特有の気弱さが滲み出ていた。私が何か不満を持っていて、この関係を終わらせようとしているのではないかと、彼は勘違いしているのだ。

「違う。そうじゃないよ」

 私は、彼をこれ以上不安にさせないように、けれど私の本当の気持ちから逃げ出させないように、できるだけ穏やかな声を作った。

「退屈なんじゃない。透と一緒にいる時間は、すごく心地よくて、大好きなの。でもね……心地よすぎるんだよ。優しすぎるの」

 私は、膝の上に置いていた自分の両手をぎゅっと握りしめた。

「透は、私が寒くないか、疲れてないか、いつも完璧に気遣ってくれる。私が怒らないように、傷つかないように、すごく丁寧に扱ってくれる。……でもそれって、私を『大切な友達』っていうガラスケースの中に入れて、絶対に壊れないように守ってるだけじゃないの?」

「そんなこと……!」

「あるよ。だって透は、絶対に私に触れようとしないもん。ただの友達だ、恩人だって線を引いて、それ以上踏み込んでこない。……私が、どんな気持ちでずっと隣にいるか、本当は気づいてるくせに」

 言ってしまった。

 もう後戻りはできない。彼が「ただの友達」のふりをして逃げ続けることを、私は許さなかったのだ。

 透は何も言わず、ただ黙って前を見据えていた。交差点で赤信号に引っかかり、車がゆっくりと停止する。彼はブレーキを踏んだまま、俯いてしまった。

「……ごめん」

 絞り出すような、ひどくかすれた声だった。

「俺、本当に臆病なんだ。夏海が隣にいてくれる今の関係が、俺にとって一番安全で、一番幸せだったから。……もし一歩踏み込んで、夏海に拒絶されたり、関係がこじれて全部失ってしまったりするのが、怖くてたまらなかったんだ」

 信号が青に変わり、車が再び走り出す。

 透の言い分は、痛いほどよくわかった。私だって、同じように「今の関係が壊れること」を恐れて、今日まで何も言えずにいたのだから。

 でも、だからといって、このまま臆病な二人が永遠に平行線を辿り続けるなんて、絶対に嫌だ。

「……海、見えてきたね」

 沈黙を破るように、私が窓の外を指差した。

 防風林を抜けると、視界の先に広大な九十九里の海が姿を現した。空はすっかり茜色に染まり、海面が夕日を反射してキラキラと黄金色に輝いている。

 透は無言で車を海辺の駐車場に停め、エンジンを切った。

「降りよう」

 私が先にドアを開けて外に出ると、夕方の海風が、昼間の熱を奪うように少しだけ冷たく頬を撫でた。波の音が、ザザーッ、ザザーッと、等間隔で静かに響いている。

 私たちは並んで、砂浜へと続く木の階段を降りた。

 オレンジ色に燃えるような夕日が、地平線の向こうへとゆっくりと沈んでいく。

 砂浜には、散歩をしている老夫婦や、波打ち際ではしゃぐ子供たちの姿がまばらに見えるだけで、とても静かだった。

「……少し、肌寒くなってきたね」

 私がわざと肩をすくめて、彼の方へとほんの少しだけ距離を詰めた。

 すると透は、いつものように「あ、ごめん。風邪引くといけないから」と慌てたように言い、自分が羽織っていた薄手の長袖シャツを脱いで、私の肩にふわりとかけようとした。

 パシッ。

 私は、彼のシャツを持った手を、自分の手で強く弾いた。

「……っ!」

 透が驚いて、目を見開く。シャツが、バサリと砂浜に落ちた。

「……そうじゃない」

 私は、落ちたシャツには見向きもせず、震える声で彼を見据えた。

「私が欲しいのは、布切れの温かさじゃないの。……そんなの、誰にだってできる『ただの優しさ』でしょ」

 私の言葉に、透の顔が苦痛に歪む。

 彼は、弾かれた自分の手を、どうしていいかわからないように宙に浮かせたままでいた。

「どうして、シャツなんかかけるの。どうして、私を『風邪を引かせてはいけない大切な友達』として扱うの」

 私は一歩踏み出し、彼との距離をゼロにした。

「寒いなら、抱きしめてよ。……私が欲しいのは、透の腕の温もりなのに。どうして、わかってくれないの……」

 私の視界が、一気に涙で滲んだ。

 彼自身の温もりが欲しい。ただの友達としての優しさではなく、一人の男としての熱が欲しい。

 その本音を、こんなにも情けない声で、涙をこぼしながらぶつけてしまうなんて、想像もしていなかった。

 彼の「優しすぎる気遣い」が、今日ばかりはひどく残酷で、私の心をズタズタに引き裂く。

 私はもう、感情を抑えることができず、肩を震わせて泣きじゃくった。

 夕日の沈む九十九里の砂浜で。

 私は彼に向かって、今まで隠し続けてきたすべての苛立ちと、どうしようもない愛情を、涙と共にぶちまけていた。

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